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■13055 / inTopicNo.25)  うましかさんへ
  
□投稿者/ pipit -(2021/05/22(Sat) 23:52:46)
    うましかさん、こんばんは〜

    No13004
    > ああ、pipitさん!(´;ω;`)ウッ…
    > 私はまさに今カント沼でおぼれています<

    うましかさんは、きっといろいろ大丈夫な気がしますよ!

    > というのも、カントのいう「経験」ってなに?と考えていたら、
    > そもそもカントはなんで「認識」なんだろう?なんてことを考えだしてしまった!
    >
    > ※ちなみに、「経験」については、今、中山元訳1、p.275〜を読んでいます。中山はカントのいう「経験」を日本語の文脈で理解するなと注意してくれてました〜m(__)m<


    > カントのいう "Erfahrung"は、"experience"と英訳され、和訳では「経験」と訳されてます。
    >
    > カントのいう"Erkenntnis"、 和訳では「認識」とされるものが、英訳では、"knowledge"と訳されたり、別の英訳では、"cognition"と訳されています。
    >
    > 独英辞書でしらべるとどちらもオッケーなんだけど、カント哲学としてはどちらがより適切なんだろう?
    >
    >
    >
    > うーん、つかれた!
    >
    > とりあえずここまで〜<

    おつかれさまです(^_^)
    いろいろカントによる記述はややこしそうなのですが、
    経験には《知覚》をキーワードに考えてもいいかも、と、思いました。

    御子柴善之先生の『カント哲学の核心)p119〜
    の、経験的と経験の違いについて、とかはどうでしょうか?
    あと、黒崎政男先生の『カント『純粋理性批判』入門』のp99〜100
    とかは参考やヒントにならないかなぁ。
    (わたしもわかってるわけではなく、うましかさんのひらめきへの縁となることを期待しまして、目についたページを書き込みますね^ ^)


引用返信/返信 削除キー/
■13053 / inTopicNo.26)  悪魔ちゃんへ 演繹
□投稿者/ pipit -(2021/05/22(Sat) 23:30:22)
    2021/05/23(Sun) 07:47:54 編集(投稿者)

    No12987
    > 演繹という言葉をカントが自分で説明してる箇所は、
    >
    > 『純粋理性批判2』カント、中山元先生訳、p91.92より引用。
    > 『法学の理論書においては、権限と越権について論じるときに、ある訴訟について何が合法的に認められているか(権利問題)と、事実はどうであるか(事実問題)を区別し、それぞれについて証明を求めるのである。そして権利問題については権限の証明や権利要求の証明を根拠づけ[=演繹]と呼ぶのである。』
    > 引用終了

    引き続き引用するね。

    同上本p92〜94より抜粋引用
    『わたしたちは、誰からも意義の申し立てがないのをよいことにして、多くの経験的な概念をそのまま使っているのであり、根拠づけすることもなしに、こうした概念に意味と、自分で思い込んだだけの意義を与えているのである。
    それはわたしたちが経験に依拠することで、これらの概念の客観的な現実性をいつでも証明できる[と考えている]からである。
    (略)
    人間の認識というこのきわめて雑多な〈織物〉は、多数の概念によって織りあげられているが、こうした概念のうちには、一切の経験から独立して、アプリオリで純粋に利用される概念がある。
    (略)
    さらにこうした概念は経験からとりだすことができないのに、とのようにして客体とかかわることができるのかを知る必要があるのである。
     だからわたしは、これらの概念が対象とどのようにアプリオリにかかわるのかを説明する作業を、概念の超越論的な根拠づけと呼んで、経験的な根拠づけと区別することにする。
    (略)』
    抜粋引用終了。

    (pipitの感想)
    裁判や法廷のイメージで、
    カントに対し、
    「君は、純粋悟性概念の正当性、真っ当性を主張しているが、それはどのような根拠に基づき主張されているのか?純粋悟性概念などいい加減で根拠のない不当な概念ではないのか?」
    という異議申し立てが立てられて、それに対するカントの答弁が、【超越論的演繹】(この概念はこのように客体にアプリオリに関わるゆえに、この概念に、客観的妥当性があることが合法的に認められる(根拠づけされる)との弁明)である。
    とりあえず今はそんな感じに思ってます。
    ちがったらごめんよー。


    ※追記

    カント先生が被告というよりは、
    被告が純粋悟性概念ちゃんたち、弁護士がカント先生、って感じかな?とさっき思いました。

引用返信/返信 削除キー/
■13014 / inTopicNo.27)  pipitさんへ
□投稿者/ うましか -(2021/05/22(Sat) 14:54:47)
    なんだか昨夜から今日にかけて、pipitさんの

    No.12923
    No.12925

    に刺激をうけて、いろいろなことをかんがえました。
    カントが意識した「経験論」への反論、その視点がとてもありがたかったです。

    ありがとうございましたm(__)m

    またよろしくお願いいたします!

    それでは、おじゃましました。
引用返信/返信 削除キー/
■13012 / inTopicNo.28)  Re[20]: 経験、経験、Erfahrung ・・・
□投稿者/ うましか -(2021/05/22(Sat) 14:37:38)
    >中山元は『純粋理性批判』中山元訳1、p.275で第二版序論の冒頭文「わたしたちのすべての認識は経験とともにはじまる ( Dass alle unsere Erkenntnis mit der Erfahrung anfange )」を、ロックにはじまるイギリス経験論の結論だとのべる。

    ロックの「経験論」については、冨田恭彦『ロック入門講義』(ちくま学芸文庫)も参照するようにしようかなー(;´・ω・)

    >けれども、しばしば誤解されていることなのですが、ロックはすべての知識が経験から得られると主張したわけではありません。<
    >彼は、数学が観察や実験を基盤としない特殊な知識からなると考えていましたし、道徳についても数学と同じような論証が可能であると考えていました。<
    →冨田、p.116


引用返信/返信 削除キー/
■13011 / inTopicNo.29)  経験、経験、Erfahrung ・・・
□投稿者/ うましか -(2021/05/22(Sat) 13:31:14)
    中山元は『純粋理性批判』中山元訳1、p.275で第二版序論の冒頭文「わたしたちのすべての認識は経験とともにはじまる ( Dass alle unsere Erkenntnis mit der Erfahrung anfange )」を、ロックにはじまるイギリス経験論の結論だとのべる。

    中山によれば、ロックは当時の、神や善悪の観念などが人間に生得的にそなわるものだという常識に対し人間には生得的な観念など存在しないと主張した。ではそうした観念はどのように人間(の「心」)にやどるのか?人間の「心」が白紙であると考えるロックによれば、それは「経験から」である。

    後代のカントは、ロックの上の主張に限定的に同意する。つまり、
    「すべての認識が経験 −から− 生まれるわけでない」と。

    これは経験以外のものから生まれる認識(Erkenntnis/knowledge, cognition)があるということなのか。私にはまだわからない。

    >Wenn aber gleich alle unsere Erkenntnis mit der Erfahrung anhebt, so entspringt sie darum doch nicht eben alle aus der Erfahrung.<

    >しかし、たとえあらゆる私たちの認識が経験でもって[mit]始まるにせよ、それだからといって、あらゆる私たちの認識が経験から[aus]発するのでは必ずしもない。<
    →原佑訳上巻、p.78、[]内は私が挿入


引用返信/返信 削除キー/
■13009 / inTopicNo.30)  決めた! こうなったら一点集中( ;∀;)
□投稿者/ うましか -(2021/05/22(Sat) 13:01:23)
    カント沼でバタ足ができるようになるために、非力な私は「序論 Einleitung」(第一版、第二版)にしぼってチャレンジすることにしま〜す(´;ω;`)ウゥゥ

    『純粋理性批判』翻訳書は、おもに原佑訳上巻p.77〜p.142を読んでいきます。

    参考文献はたとえば、
    ◇中山元訳1、p.271〜p.314
    ◇御子柴善之『カント 純粋理性批判』p.53〜p.81




引用返信/返信 削除キー/
■13004 / inTopicNo.31)  pipitさんへ 
□投稿者/ うましか -(2021/05/22(Sat) 09:07:03)
    おはようございます。pipitさん。
    おじゃまします。

    >すべての認識は経験から生まれるという経験論に対して、経験に出自を持たない認識がある。そしてその認識が、経験を成り立たせているのである。とするのが、カント哲学
    No.12925

    (;゚Д゚)
     
    pipitさんのまとめ力、すごいなあ!

    「経験論」を、カント哲学が一刀両断ってかんじですね。

    それにくらべて私はというと、霧中で棒切れを振り回している。。。

    *******

    ああ、pipitさん!(´;ω;`)ウッ…
    私はまさに今カント沼でおぼれています。

    というのも、カントのいう「経験」ってなに?と考えていたら、
    そもそもカントはなんで「認識」なんだろう?なんてことを考えだしてしまった!

    ※ちなみに、「経験」については、今、中山元訳1、p.275〜を読んでいます。中山はカントのいう「経験」を日本語の文脈で理解するなと注意してくれてました〜m(__)m


    とにかく、まずは序論(第二版)の冒頭を引用してみます。


    >第1節 純粋な認識と経験的な認識の違いについて
    わたしたちのすべての認識は経験とともに始まる。これは疑問の余地のないところだ。認識能力が対象に呼び覚まされて活動し始めるのでなければ、そもそも何によって働き始めるというのだろうか。対象はわたしたちの感覚を触発するが、対象みずからが感覚のうちに像を作りだすか、人間の知性のもつ能力に働きかけるのである。働きかけられた知性は、対象の像を比較し、これらを結びつけたり分離したりすることで、感覚的な印象という生の素材から、対象の認識そのものを作りあげるのであり、この活動が経験と呼ばれる。だからわたしたちの認識において、時間的に見て、経験に先立つものは何もない。すべてが経験とともに始まるのである。
    このようにわたしたちのすべての認識が経験とともに始まるとしても、すべての認識が経験から生まれるわけではない。<
    → 中山元訳1、p.15〜p.16、※ただし[]内は省略

    >I. Von dem Unterschiede der reinen und empirischen Erkenntnis
    Dass alle unsere Erkenntnis mit der Erfahrung anfange, daran ist gar kein Zweifel; denn wodurch sollte das Erkenntnisvermoegen sonst zur Ausuebung erweckt werden, geschaehe es nicht durch Gegenstaende, die unsere Sinne ruehren und teils von selbst Vorstellungen bewirken, teils unsere Verstandestaetigkeit in Bewegung bringen, diese zu vergleichen, sie zu verknuepfen oder zu trennen, und so den rohen Stoff sinnlicher Eindruecke zu einer Erkenntnis der Gegenstaende zu verarbeiten, die Erfahrung heisst? Der Zeit nach geht also keine Erkenntnis in uns vor der Erfahrung vorher, und mit dieser faengt alle an.
    Wenn aber gleich alle unsere Erkenntnis mit der Erfahrung anhebt, so entspringt sie darum doch nicht eben alle aus der Erfahrung. <
    https://www.gutenberg.org/cache/epub/6343/pg6343.html

    >I. Of the difference between Pure and Empirical Knowledge
    That all our knowledge begins with experience there can be no doubt. For how is it possible that the faculty of cognition should be awakened into exercise otherwise than by means of objects which affect our senses, and partly of themselves produce representations, partly rouse our powers of understanding into activity, to compare to connect, or to separate these, and so to convert the raw material of our sensuous impressions into a knowledge of objects, which is called experience? In respect of time, therefore, no knowledge of ours is antecedent to experience, but begins with it.
    But, though all our knowledge begins with experience, it by no means follows that all arises out of experience.<
    https://www.gutenberg.org/files/4280/4280-h/4280-h.htm#chap33


    カントのいう "Erfahrung"は、"experience"と英訳され、和訳では「経験」と訳されてます。

    カントのいう"Erkenntnis"、 和訳では「認識」とされるものが、英訳では、"knowledge"と訳されたり、別の英訳では、"cognition"と訳されています。

    独英辞書でしらべるとどちらもオッケーなんだけど、カント哲学としてはどちらがより適切なんだろう?



    うーん、つかれた!

    とりあえずここまで〜






引用返信/返信 削除キー/
■12990 / inTopicNo.32)  Re[17]: 演繹
□投稿者/ pipit -(2021/05/21(Fri) 23:01:48)
    No.12989
    改めて、読んで、
    わたしの引用不足やと思う。ごめん。
    またちゃんとわかるように、引用する箇所、他のところも探してみるね!
引用返信/返信 削除キー/
■12989 / inTopicNo.33)  Re[16]: 演繹
□投稿者/ pipit -(2021/05/21(Fri) 22:56:10)
    No12987に返信(pipitさんの記事)
    > 演繹という言葉をカントが自分で説明してる箇所は、
    >
    > 『純粋理性批判2』カント、中山元先生訳、p91.92より引用。
    > 『法学の理論書においては、権限と越権について論じるときに、ある訴訟について何が合法的に認められているか(権利問題)と、事実はどうであるか(事実問題)を区別し、それぞれについて証明を求めるのである。そして権利問題については権限の証明や権利要求の証明を根拠づけ[=演繹]と呼ぶのである。』
    > 引用終了
    >
    > です。

    ちょっとこれだけやと、???やよね?(^^;

    また、調べて自分なりにもう少しわかるように書こうかな、と、思ってます。

    今日はごめんね(?)、眠くて眠くて、おやすみ〜〜☆彡 (( _ _ ))..zzzZZ
引用返信/返信 削除キー/
■12987 / inTopicNo.34)  演繹
□投稿者/ pipit -(2021/05/21(Fri) 22:12:47)
    演繹という言葉をカントが自分で説明してる箇所は、

    『純粋理性批判2』カント、中山元先生訳、p91.92より引用。
    『法学の理論書においては、権限と越権について論じるときに、ある訴訟について何が合法的に認められているか(権利問題)と、事実はどうであるか(事実問題)を区別し、それぞれについて証明を求めるのである。そして権利問題については権限の証明や権利要求の証明を根拠づけ[=演繹]と呼ぶのである。』
    引用終了

    です。
引用返信/返信 削除キー/
■12986 / inTopicNo.35)  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2021/05/21(Fri) 22:00:22)
    No12889に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > ■12882 、pipitさま、ありがとございます。
    >
    > もう一ついい?
    >
    > メルポンの『行動の構造』の訳注に、
    > 《カントの有名な言葉。直観に与えられる多様な表象が綜合されて、〈一つの経験〉ないし〈一つの認識〉となるためには、それらの表象がすべて「我思う」に関係づけられていなくてはならない、というわけであるkritik der reinen Vernunft,B.132」。」…》
    >
    > ってあっるんだけど、これほんとなのかしら?
    >
    > 「演繹」より、こっちの方が気になるんで、もしよろしかったら、こっち先にしてもらうとありがたいんだけど。
    >
    > 気が向いたら、で。<

    こんばんは〜
    what でも引用したけど、
    『純粋理性批判2』カント、中山元先生訳、光文社古典新訳文庫、p116より引用
    『わたしは考えるということは、わたしが心の中で思い描くすべての像に伴うことができるのでなければならない。(略)すべての思考に先立って与えられうる像は直観と呼ばれる。だから直観に含まれるすべての多様なものは、この多様なものが発生する主体におけるわたしは考えるということと、必然的に結びついている。』
    引用終了。

    だね。


引用返信/返信 削除キー/
■12925 / inTopicNo.36)  経験論に対して
□投稿者/ pipit -(2021/05/21(Fri) 00:13:13)
    すべての認識は経験から生まれるという経験論に対して、

    経験に出自を持たない認識がある。

    そしてその認識が、経験を成り立たせているのである。

    とするのが、カント哲学なのかなあ?

    と思いました。

    間違えてたらすみません〜

    みなさま、おやすみなさーい ☆彡
引用返信/返信 削除キー/

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