| こんばんは。pipitさん。 おじゃまします。
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>なんとなく、仏教、というものを感じる
ありがとうございます! でも、、、私には「仏教」ってぜんぜんわからないのです(´;ω;`)ウゥゥ
しかもお坊さんや仏教研究者?の著したもの(新書レベルしか開いたことありませんけど^^;)に、正直いって現時点で魅かれるものはありません。
というわけで、pipitさんが私とのあいだの、どのようなことについて「仏教、というもの」を感じられたのか、よくわからないのです。
そこで、もしよろしければ、どのようなことについてそう思われたのか、またそれを「仏教」と表現された理由を教えてくだされば幸いです。
とはいっても私自身はpipitさんの感性をだいじにしたいので、「だってそう感じたんだもん!」ということであれば後はスルーでも全然かまいません(;´・ω・)
さて(今回の変化球の)本題にはいります。
pipitさんは、カントのいう「経験」を仏教用語の「触(そく、巴: phassa, 梵: sparsa)」と置き換える試みをされています。
「触」とは、
>六つの感覚器官に、それぞれの感受対象が触れること。外界との接触
とのこと。「触」は接触、つまり何らかの対象が感官と接すること、触れることと解してもよいでしょうか。これを「経験」と置き換えるのが可能と考えたのは、両者を同じ、あるいは類似と考えたからでしょうか。
もちろん、上のような理由でなくとも置き換えること自体の自由やその楽しさはあるとおもいます。 けれど私は「経験」という認識における或る種のプロセスと「接触」という点的な概念(※私なりの解釈です)とは区別したいなとおもいます。
とはいえ、pipitさんの変化球を楽しんでもみたい(^^♪ カント沼のカントさんに怒られるかもしれませんが、ちょっとイタズラしてみます。
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>あらゆる私たちの経験が『接触』でもって始まるということ、このことには全然疑いの余地はない。それゆえ、“時間的には“私たちの内なるいかなる経験も『接触』に先行することはなく、だからあらゆる経験は『接触』でもって始まる。
>しかし、たとえあらゆる私たちの経験が『接触』”でもって”始まるにせよ、それだからといって、あらゆる私たちの経験が『接触』”から”発するのでは必ずしもない。
>はたして、『接触』に依存せず、感官のあらゆる印象にすら依存しないそのような経験があるかどうか
???(-_-;) おしまーい
それでは〜
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