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pipitさんへ 「経験」をめぐるあれこれ
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□投稿者/ うましか -(2021/05/16(Sun) 14:34:33)
| こんにちは。pipitさん。 おじゃまします。
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pipitさんの問い「形而上学的演繹と超越論的演繹の位置関係」について、まだカントの本文もろくに読まないうちから興味がわいたのはよいのですが、カントの言葉(翻訳ですが)のあまりの分かりづらさに一時は途方にくれていました。
しかしpipitさんからいただいたいろいろなヒントなどを参考に、資料をコツコツ集め、とりあえず外堀を埋めている感じです。
→No.12322 →No.12327 →No.12329 →No.12332
あらためて『純粋理性批判』そのものにふれるにつれ最近とくに感じるのは、カントは「経験 Erfahrung」、「経験的 empirisch」と相対するとおもわれる表現を幾通りにもつかっており、慣れない私にとってこれらが読みづらさの原因になっています。
対処療法としてカントがいう定義めいた言葉で当てはめて読めばいいだけじゃないの?という声もありそうですが、私の場合それではたりない。というわけで、今後はこうした私にとっての厄介ごとについて考えていきたいとおもいます。
まずはこれら厄介な表現をおもいつくままに。
◇ a priori ◇ rein ◇ transzendent、transzendental
ついでに、
◇ metaphysisch、Metaphysik
も。
https://www.linguee.com/
たとえば、カントははやくも序論 Einleitung (第二版)の冒頭でつぎのようにいうわけですが、いまだにしっくりこないわけですね(´;ω;`)ウゥゥ
>あらゆる私たちの認識が経験でもって始まるということ、このことには全然疑いの余地はない。< >それゆえ、“時間的には“私たちの内なるいかなる認識も経験に先行することはなく、だからあらゆる認識は経験でもって始まる。<
>しかし、たとえあらゆる私たちの認識が経験”でもって”始まるにせよ、それだからといって、あらゆる私たちの認識が経験”から”発するのでは必ずしもない。<
>はたして、経験に依存せず、感官のあらゆる印象にすら依存しないそのような認識があるかどうかは、< >そうした認識は、”ア・プリオリ”と名づけられ、<
→原佑訳上巻、p.77〜p.82参照
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まずはここまで〜 つかれた(;゚Д゚)
それでは〜
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