■13277 / inTopicNo.15) |
うましかさんへ 認識、経験、知覚について
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□投稿者/ pipit -(2021/05/27(Thu) 23:25:49)
| うましかさん、こんばんは(^o^)/
■No13240に返信(うましかさんの記事)
> カントの「認識Erkenntnis/knowledge, cognition」から、いわゆる「認識論」が「知識の理論 theory of knowledge」ともいわれるらしいこともあり、er−“kennen“のkennenあたりから、素人の私にとってはカントのErkenntnisは「知る」とか「分かる」くらいのニュアンスでいいのかなあと軽〜くかんがえていました。<
『認識』という言葉の指すもの、が、難しいですよね。 手元に、『語源から哲学がわかる事典』山口裕之先生著.日本実業出版社 という本があります。 カント哲学における文脈とは、また違うかもしれませんが、参考の一つとして引用しますね。
山口先生の意見、という面もあるかもしれませんが(といったら山口先生に怒られるかもですが(^^;)、先生は、第2章の章題として、
『第2章 認識 Knowledge 人それぞれではありません』
と掲げられています。(p57)
冒頭の数行を引用します。
(p58より引用) 『哲学における「認識」と日本語の「認識」
第1章では、哲学の対象となる「知恵」が、およそ「学問」と呼ばれるものの全域にわたっていることを見た。つまり、哲学の対象となるのは、学問的に正しい知識なのである。この「正しい知識」のことを、英語ではknowledge、ギリシア語では「エピステーメー(略)」と呼ぶ。 この言葉は、哲学用語としては「認識」と訳された。なので、哲学の文献で「認識」という言葉が出てくれば「学問的に正しい知識」という意味であり、「認識する」といえば「正しく知る」という意味である。 ギリシア語のエピステーメーは、ラテン語ではscientiaと訳された。これがscienceの語源であることは一目瞭然であろう。現代英語ではscienceは言うまでもなく「科学」だが、18世紀ごろまでは「学問的に正しい知識」という意味で使われていた。 (略)』 (引用終了)
少し後のページに、キーワードとして、『学問的に正しい知識』(p60)という箇所もあるので、もしうましかさんがご興味があれば、引用しますので、おっしゃってくださいね(^_^)v
> なので「経験Erfahrung/experience」についても、私たちが何かについて体験を通して知ることの過程のうちに位置付けられているものという程度の理解ですませていました(まさに日本語の文脈ですね^^;)。序論の冒頭を読んでいても、カントが「経験」についてのべる文脈で(感性とか感官という言葉はありますが)「知覚Wahrnehmung/perception」という言葉がでてこない?ため、カントは「知覚」という言葉を使わないのかなあ…などとのんきに考えていました。 > ※もちろん『純粋理性批判』や『プロレゴメナ』において、カントは「知覚」という言葉を使っています、念のため^^; > > でも、pipitさんのいう「知覚」が気になっていたので調べていると、たまたま索引から追っていたカント『プロレゴメナ』の一節にこうありました。 > > >つまり、純粋直観は、ア・プリオリな直観としてすべての経験に先立って−すなわち個々の知覚に先立って、概念と不可避的に結びついているのである。< > →『プロレゴメナ』(篠田英雄 訳、岩波文庫、p.67) > →https://www.projekt-gutenberg.org/kant/prolegom/prolegom.html 参照 > > この一文だけではもちろん断定はできないですが、この引用にあるようにカントが「経験」という言葉を使用するとき、「知覚」を念頭にしている可能性については今後注意していきたいとおもいます。<
一応、経験についてのカントの文章の一つとして、 B218、219あたり? 中山先生の独自番号では、251(第3巻p99) に、説明文章があります。
『純粋理性批判3』中山元先生訳、カント、光文社古典新訳文庫、p99より引用(カントの文章) 『経験とは、経験的な認識のこと、すなわち知覚によって客体を規定する認識のことである。だから経験とは知覚の総合であるが、この総合は知覚そのもののうちに含まれているものではなく、知覚された多様なものの総合的な統一を、一つの意識のうちに含んでいるのである。この総合的な統一が、感覚能力による客体の認識の本質であり、(たんに直観や感覚能力による感覚ではなく)経験の本質である。(略)』 (引用終了)
ここでいったん投稿しますね。
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