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■13298 / inTopicNo.13)  日記みたいなもの
  
□投稿者/ pipit -(2021/05/28(Fri) 16:28:04)

    > 一応、経験についてのカントの文章の一つとして、
    > B218、219あたり?
    > 中山先生の独自番号では、251(第3巻p99)
    > に、説明文章があります。
    >
    > 『純粋理性批判3』中山元先生訳、カント、光文社古典新訳文庫、p99より引用(カントの文章)
    > 『経験とは、経験的な認識のこと、すなわち知覚によって客体を規定する認識のことである。だから経験とは知覚の総合であるが、この総合は知覚そのもののうちに含まれているものではなく、知覚された多様なものの総合的な統一を、一つの意識のうちに含んでいるのである。この総合的な統一が、感覚能力による客体の認識の本質であり、(たんに直観や感覚能力による感覚ではなく)経験の本質である。(略)』
    > (引用終了)<


    受動意識仮説や
    アンドロイドの認識、といったものが頭に浮かんでしまうんだよね。

    アンドロイドに、どのように『経験』させるか。

    センサーからのデータ群を、どのようにまとめて、経験という現象をアンドロイドにとって成り立たせるか。


引用返信/返信 削除キー/
■13278 / inTopicNo.14)  Re[27]: うましかさんへ 
□投稿者/ pipit -(2021/05/27(Thu) 23:42:18)
    昨日、高峯一愚先生訳の純粋理性批判を図書館で借りてきましたが、
    うましかさんが精読しようとしている箇所についての先生による注釈が
    うましかさんや私にも参考になるかも、と、思いました。

    また明日以降に引用しようと思っています。

    カントの文章がわからないとき、少なくとも2つの可能性がありますよね。

    @私が理解できていない。
    Aカント先生の文章に整合性がない。


    Aの可能性もあるのに、カント好きの方々は、いや、@だー、と一生懸命解釈しようとしてるようにみえます。
    私も含めて、ネットで論文を目にしてもそのような印象を持ちます。

    なんなんですかねー。
    信じてるのかなー
    自分自身不思議です。

    不思議だなー

    と、オチのない感想すみません (^人^)

    いつもありがとうございます! おやすみなさーい (^o^)/ ☆彡


引用返信/返信 削除キー/
■13277 / inTopicNo.15)  うましかさんへ 認識、経験、知覚について
□投稿者/ pipit -(2021/05/27(Thu) 23:25:49)
    うましかさん、こんばんは(^o^)/

    No13240に返信(うましかさんの記事)

    > カントの「認識Erkenntnis/knowledge, cognition」から、いわゆる「認識論」が「知識の理論 theory of knowledge」ともいわれるらしいこともあり、er−“kennen“のkennenあたりから、素人の私にとってはカントのErkenntnisは「知る」とか「分かる」くらいのニュアンスでいいのかなあと軽〜くかんがえていました。<

    『認識』という言葉の指すもの、が、難しいですよね。
    手元に、『語源から哲学がわかる事典』山口裕之先生著.日本実業出版社
    という本があります。
    カント哲学における文脈とは、また違うかもしれませんが、参考の一つとして引用しますね。

    山口先生の意見、という面もあるかもしれませんが(といったら山口先生に怒られるかもですが(^^;)、先生は、第2章の章題として、

    『第2章 認識 Knowledge 人それぞれではありません』

    と掲げられています。(p57)

    冒頭の数行を引用します。

    (p58より引用)
    『哲学における「認識」と日本語の「認識」

    第1章では、哲学の対象となる「知恵」が、およそ「学問」と呼ばれるものの全域にわたっていることを見た。つまり、哲学の対象となるのは、学問的に正しい知識なのである。この「正しい知識」のことを、英語ではknowledge、ギリシア語では「エピステーメー(略)」と呼ぶ。
    この言葉は、哲学用語としては「認識」と訳された。なので、哲学の文献で「認識」という言葉が出てくれば「学問的に正しい知識」という意味であり、「認識する」といえば「正しく知る」という意味である。
     ギリシア語のエピステーメーは、ラテン語ではscientiaと訳された。これがscienceの語源であることは一目瞭然であろう。現代英語ではscienceは言うまでもなく「科学」だが、18世紀ごろまでは「学問的に正しい知識」という意味で使われていた。
    (略)』
    (引用終了)

    少し後のページに、キーワードとして、『学問的に正しい知識』(p60)という箇所もあるので、もしうましかさんがご興味があれば、引用しますので、おっしゃってくださいね(^_^)v



    > なので「経験Erfahrung/experience」についても、私たちが何かについて体験を通して知ることの過程のうちに位置付けられているものという程度の理解ですませていました(まさに日本語の文脈ですね^^;)。序論の冒頭を読んでいても、カントが「経験」についてのべる文脈で(感性とか感官という言葉はありますが)「知覚Wahrnehmung/perception」という言葉がでてこない?ため、カントは「知覚」という言葉を使わないのかなあ…などとのんきに考えていました。
    > ※もちろん『純粋理性批判』や『プロレゴメナ』において、カントは「知覚」という言葉を使っています、念のため^^;
    >
    > でも、pipitさんのいう「知覚」が気になっていたので調べていると、たまたま索引から追っていたカント『プロレゴメナ』の一節にこうありました。
    >
    > >つまり、純粋直観は、ア・プリオリな直観としてすべての経験に先立って−すなわち個々の知覚に先立って、概念と不可避的に結びついているのである。<
    > →『プロレゴメナ』(篠田英雄 訳、岩波文庫、p.67)
    > →https://www.projekt-gutenberg.org/kant/prolegom/prolegom.html 参照
    >
    > この一文だけではもちろん断定はできないですが、この引用にあるようにカントが「経験」という言葉を使用するとき、「知覚」を念頭にしている可能性については今後注意していきたいとおもいます。<

    一応、経験についてのカントの文章の一つとして、
    B218、219あたり?
    中山先生の独自番号では、251(第3巻p99)
    に、説明文章があります。

    『純粋理性批判3』中山元先生訳、カント、光文社古典新訳文庫、p99より引用(カントの文章)
    『経験とは、経験的な認識のこと、すなわち知覚によって客体を規定する認識のことである。だから経験とは知覚の総合であるが、この総合は知覚そのもののうちに含まれているものではなく、知覚された多様なものの総合的な統一を、一つの意識のうちに含んでいるのである。この総合的な統一が、感覚能力による客体の認識の本質であり、(たんに直観や感覚能力による感覚ではなく)経験の本質である。(略)』
    (引用終了)

    ここでいったん投稿しますね。
引用返信/返信 削除キー/
■13240 / inTopicNo.16)  認識、経験、知覚
□投稿者/ うましか -(2021/05/26(Wed) 19:52:56)
    こんばんは。pipitさん。
    おじゃまします。

    *******

    >経験には《知覚》をキーワードに考えてもいいかも、と、思いました。
    No.13055

    非常に有益な助言をいただきありがとうございます!

    カントの「認識Erkenntnis/knowledge, cognition」から、いわゆる「認識論」が「知識の理論 theory of knowledge」ともいわれるらしいこともあり、er−“kennen“のkennenあたりから、素人の私にとってはカントのErkenntnisは「知る」とか「分かる」くらいのニュアンスでいいのかなあと軽〜くかんがえていました。

    なので「経験Erfahrung/experience」についても、私たちが何かについて体験を通して知ることの過程のうちに位置付けられているものという程度の理解ですませていました(まさに日本語の文脈ですね^^;)。序論の冒頭を読んでいても、カントが「経験」についてのべる文脈で(感性とか感官という言葉はありますが)「知覚Wahrnehmung/perception」という言葉がでてこない?ため、カントは「知覚」という言葉を使わないのかなあ…などとのんきに考えていました。
    ※もちろん『純粋理性批判』や『プロレゴメナ』において、カントは「知覚」という言葉を使っています、念のため^^;

    でも、pipitさんのいう「知覚」が気になっていたので調べていると、たまたま索引から追っていたカント『プロレゴメナ』の一節にこうありました。

    >つまり、純粋直観は、ア・プリオリな直観としてすべての経験に先立って−すなわち個々の知覚に先立って、概念と不可避的に結びついているのである。<
    →『プロレゴメナ』(篠田英雄 訳、岩波文庫、p.67)
    https://www.projekt-gutenberg.org/kant/prolegom/prolegom.html 参照

    この一文だけではもちろん断定はできないですが、この引用にあるようにカントが「経験」という言葉を使用するとき、「知覚」を念頭にしている可能性については今後注意していきたいとおもいます。


    ありがとうございます!

    それでは〜

引用返信/返信 削除キー/
■13230 / inTopicNo.17)  おくたがわさんへ 和訳〜♪
□投稿者/ pipit -(2021/05/26(Wed) 16:51:40)
    おくたがわさん、こんにちはー
    今日、最寄りの図書館で高嶺一愚先生訳の純粋理性批判を借りて(田舎の図書館ゆえ一択)
    帰ったらおくたがわさんのこの話題で、奇遇だな〜と嬉しかったです(o^^o)

    No13227
    > 図書館で純理の石川訳と天野訳を借りてきました。
    > その理由と訳について思うことを書きます。(だらだら長い文章になりました)
    >
    > もともと英訳は原文に忠実という印象があり、pipitさんも同意見とのようでしたが、自分が英語読むのには時間がかかるのでそれを主体にはできない。
    > 日本語であって、英文同様に原文に忠実なものがあればと(表現はやさしくなくてもいい)、原佑訳を買いましたが、疑問を感じる部分が目に付き、それで石川訳と天野訳を借りてきました。
    >
    > 今までに気になっていた部分および、最初の方(感性論の時間まで)を見た限りでの感想。
    >
    > 原佑訳:主述の関係や、接続詞と結末の述語の関係がズレているといった部分が目に付く。推測で修正できなくはないものの、やはり英訳を参照したくなるので、自分の目的には適っていないと思った。
    > しかし、日本語表現への落とし込みに難があるだけで、訳者の原文読解には問題はないのではないか(分からんけど)。
    > よって、他の訳と照らし合わせて役に立つ場合は多そうで、持っていて無駄ではないと思っています。
    >
    > 石川訳:良いと思います。自分の目的に適っていそう。
    >  ネットの記事で、『石川がお奨めで次点が原』と大学の先生から言われたというのを見たのですが、原の方が安いし、原文に忠実そうという理由を付けて私はそちらを買ったのでした。ちなみに記事の書き手も、『高くても内容重視で買う方が良いと経験から思う』との趣旨を書き、そして石川の訳が好きだと言いながら、原佑訳を買っているというオチ(?)でした。文庫本だし。
    >
    > 天野訳:内容的にはとても良いと感じます。古い文体が苦にならない人であれば、石川訳に劣る部分は無いように思われます。新しい方が安心か-安い方がいいかだけ。
    > 天野訳が非常に良いため長く新訳が出なかったという記事(かレビュー)を見ましたが、偽りのない評判のように思います。
    > 今まで見た範囲では、唯一疑問点(カント自体の難解さではなく訳が変なのでは?と感じる部分-主に英訳と比べて)が無かったのが天野訳です。石川は一ヵ所あった。<

    天野先生のは電子版で1巻目しか持ってないけど、私もすごくいいなぁと思っています。
    石川先生も原先生も他の先生も読んでみたいなぁ

    > 中山訳:第1巻は持っていないので、具体的な読み比べはしていませんが、分かりやすさを追求して意訳が多く、[ ]で括って原文に無い補足の挿入も多い。もし中山さんの解釈が間違っていた場合、読者が自分で修正するのは難しいのでは(英訳他を参照しない限り)。つまり中山さんの解釈への依存度が強いのでは(?)。
    > 最初に買ったけれど、他の訳も参照したいと思った理由はそれだったと思う。<

    中山先生の解釈への依存度が強い、というのは、わかる気がします。
    理解しやすくなるけど、諸刃の剣的なところがあるかもしれませんね。

    > 以上、だらだら勝手なことを失礼しました。
    > 専門家の訳を評価できる立場かよ、というお叱りの言葉もなくご清聴ありがとうございました(聴いてない)<

    参考になり、嬉しいです !!
    ありがとうございます\(^^)/


引用返信/返信 削除キー/
■13227 / inTopicNo.18)  Re[24]: 和訳論(?)
□投稿者/ おくたがわ -(2021/05/26(Wed) 15:27:20)
    2021/05/26(Wed) 15:34:16 編集(投稿者)

    図書館で純理の石川訳と天野訳を借りてきました。
    その理由と訳について思うことを書きます。(だらだら長い文章になりました)

    もともと英訳は原文に忠実という印象があり、pipitさんも同意見とのようでしたが、自分が英語読むのには時間がかかるのでそれを主体にはできない。
    日本語であって、英文同様に原文に忠実なものがあればと(表現はやさしくなくてもいい)、原佑訳を買いましたが、疑問を感じる部分が目に付き、それで石川訳と天野訳を借りてきました。

    今までに気になっていた部分および、最初の方(感性論の時間まで)を見た限りでの感想。

    原佑訳:主述の関係や、接続詞と結末の述語の関係がズレているといった部分が目に付く。推測で修正できなくはないものの、やはり英訳を参照したくなるので、自分の目的には適っていないと思った。
    しかし、日本語表現への落とし込みに難があるだけで、訳者の原文読解には問題はないのではないか(分からんけど)。
    よって、他の訳と照らし合わせて役に立つ場合は多そうで、持っていて無駄ではないと思っています。

    石川訳:良いと思います。自分の目的に適っていそう。
     ネットの記事で、『石川がお奨めで次点が原』と大学の先生から言われたというのを見たのですが、原の方が安いし、原文に忠実そうという理由を付けて私はそちらを買ったのでした。ちなみに記事の書き手も、『高くても内容重視で買う方が良いと経験から思う』との趣旨を書き、そして石川の訳が好きだと言いながら、原佑訳を買っているというオチ(?)でした。文庫本だし。

    天野訳:内容的にはとても良いと感じます。古い文体が苦にならない人であれば、石川訳に劣る部分は無いように思われます。新しい方が安心か-安い方がいいかだけ。
    天野訳が非常に良いため長く新訳が出なかったという記事(かレビュー)を見ましたが、偽りのない評判のように思います。
    今まで見た範囲では、唯一疑問点(カント自体の難解さではなく訳が変なのでは?と感じる部分-主に英訳と比べて)が無かったのが天野訳です。石川は一ヵ所あった。

    中山訳:第1巻は持っていないので、具体的な読み比べはしていませんが、分かりやすさを追求して意訳が多く、[ ]で括って原文に無い補足の挿入も多い。もし中山さんの解釈が間違っていた場合、読者が自分で修正するのは難しいのでは(英訳他を参照しない限り)。つまり中山さんの解釈への依存度が強いのでは(?)。
    最初に買ったけれど、他の訳も参照したいと思った理由はそれだったと思う。

    以上、だらだら勝手なことを失礼しました。
    専門家の訳を評価できる立場かよ、というお叱りの言葉もなくご清聴ありがとうございました(聴いてない)
引用返信/返信 削除キー/
■13153 / inTopicNo.19)  Re[23]: 論
□投稿者/ pipit -(2021/05/24(Mon) 22:00:52)
    wikiちょっとだけみてみたー

    wiki『論』より抜粋引用
    『論(ろん)とは、ある事象に対し順序立てられた思考・意見・言説をまとめた物である。』
引用返信/返信 削除キー/
■13152 / inTopicNo.20)  
□投稿者/ pipit -(2021/05/24(Mon) 21:57:40)
    2021/05/24(Mon) 22:10:54 編集(投稿者)

    悪魔ちゃん、こんばんは〜(^_^)

    No13149
    > ついでにわたしの「演繹」の意味を書いちゃうね。
    >
    > 野矢茂樹著「入門!論理学」によると、<

    悪魔ちゃん、論理学の本も持ってるんや!



    > 《演繹とは、前提を認めたなら必ず結論を認めなければならないような導出》
    > そして、《ある前提からなんらかの結論を導く、その全体を論証と呼ぶ。》
    > ってある。<

    ありがとー。
    きちんと言葉が指す意味が区切られてるかんじでわかりやすいね!


    > 《「論証」=「前提−導出→結論」》
    >
    > 《導出の正しさは、その前提を正しいと仮定したときにその結論が必ず導かれねばならないのか点から評価され、前提が本当に正しいかどうかはとりあえず棚上げにしておきます。他方、正しい論証というのは、導出が正しいだけでなくて、その前提も本当に正しいもののことです。》
    >
    > 「演繹」っていうのは。論証における導出の部分のこと。<

    論理学での演繹はそういう意味やったんやね。
    ちゃんとは全然知らんかったよ、書いてくれてありがとう。
    おもしろいです(^_^)

    一応カントの意味もwikiの『演繹』の中にあったので引用しておくね。
    『イマヌエル・カントは、通常の意味とは異なった形で演繹 (Deduktion) という語を用いている。カントにおいて演繹とは概念の正当性の証明を意味する。最も代表的な例は『純粋理性批判』におけるカテゴリー(範疇)の超越論的演繹である。演繹のこのような用法は当時の法学用語に由来するといわれ、カントのいたるところにみられる。』
    wikiより引用終了


    > わたしの問題は前提の部分。論証の始まりは前提よね。こういう意味で(K)ね。
    >
    > もっともわたし「論」っていうの嫌いだけどね。<

    個別ではなく一般的にするから嫌いなの??

    論、って、よく考えたら、なんやろう。

    論は、考えの筋道、ってのはどうかな?ちょっと違うかなぁ

    悪魔ちゃんは、論、って、どんな感じに思ってるん?
引用返信/返信 削除キー/
■13149 / inTopicNo.21)  Re[21]: 演繹
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/05/24(Mon) 20:53:36)
    ■13053、pipitさま、

    >同上本p92〜94より抜粋引用<
    ありがと。
    とくに引用の
    やっぱ 『純粋理性批判2』カント、中山元先生訳、の方がわかりやすい。
    『わたしたちは、誰からも意義の申し立てがないのをよいことにして、多くの経験的な概念をそのまま使っているのであり、根拠づけすることもなしに、こうした概念に意味と、自分で思い込んだだけの意義を与えているのである。』(K)
    は、やっぱ哲学者〜!っていう感じ。

    ついでにわたしの「演繹」の意味を書いちゃうね。

    野矢茂樹著「入門!論理学」によると、

    《演繹とは、前提を認めたなら必ず結論を認めなければならないような導出》
    そして、《ある前提からなんらかの結論を導く、その全体を論証と呼ぶ。》
    ってある。

    《「論証」=「前提−導出→結論」》

    《導出の正しさは、その前提を正しいと仮定したときにその結論が必ず導かれねばならないのか点から評価され、前提が本当に正しいかどうかはとりあえず棚上げにしておきます。他方、正しい論証というのは、導出が正しいだけでなくて、その前提も本当に正しいもののことです。》

    「演繹」っていうのは。論証における導出の部分のこと。
    わたしの問題は前提の部分。論証の始まりは前提よね。こういう意味で(K)ね。

    もっともわたし「論」っていうの嫌いだけどね。


引用返信/返信 削除キー/
■13059 / inTopicNo.22)  うましかさんへ
□投稿者/ pipit -(2021/05/23(Sun) 00:15:56)
    私もとても勉強になるので、わたしにはなにも遠慮なさらずに、
    好きなスタイルで投稿してくださいね。

    つぶやきメモみたいなかんじでも、全然オッケーですよー

    考えすぎて、歩いている時につまづいたりしないように、お気をつけてくださいね〜(^o^)/
    (カント先生は経験をとても大切に思われてたみたいですからね!)
    ※黒崎先生本p68参照

    あ、ちなみに、p82も経験について記述されてます。

    おつかれさまです、おやすみなさい ☆彡

引用返信/返信 削除キー/
■13057 / inTopicNo.23)  言ってることを聞くこと
□投稿者/ pipit -(2021/05/23(Sun) 00:04:26)
    No13012に返信(うましかさんの記事)
    > >中山元は『純粋理性批判』中山元訳1、p.275で第二版序論の冒頭文「わたしたちのすべての認識は経験とともにはじまる ( Dass alle unsere Erkenntnis mit der Erfahrung anfange )」を、ロックにはじまるイギリス経験論の結論だとのべる。
    >
    > ロックの「経験論」については、冨田恭彦『ロック入門講義』(ちくま学芸文庫)も参照するようにしようかなー(;´・ω・)
    >
    > >けれども、しばしば誤解されていることなのですが、ロックはすべての知識が経験から得られると主張したわけではありません。<
    > >彼は、数学が観察や実験を基盤としない特殊な知識からなると考えていましたし、道徳についても数学と同じような論証が可能であると考えていました。<
    > →冨田、p.116<

    カントは、自分の論を誤解されたーと憤慨することもあったかもしれませんが、
    カント自身も、他人の説を誤解して、その誤解に対して反論してたりすることもあったのでしょうね。

    理解というものは、とても難しいものなのかもしれませんね。


引用返信/返信 削除キー/
■13056 / inTopicNo.24)  序論!
□投稿者/ pipit -(2021/05/22(Sat) 23:58:56)
    No13009に返信(うましかさんの記事)
    > カント沼でバタ足ができるようになるために、非力な私は「序論 Einleitung」(第一版、第二版)にしぼってチャレンジすることにしま〜す(´;ω;`)ウゥゥ
    >
    > 『純粋理性批判』翻訳書は、おもに原佑訳上巻p.77〜p.142を読んでいきます。
    >
    > 参考文献はたとえば、
    > ◇中山元訳1、p.271〜p.314
    > ◇御子柴善之『カント 純粋理性批判』p.53〜p.81<

    序論や序文の読解は、『純粋理性批判』の全体への理解に繋がる気がしますね!
    うましかさんは全然非力にはわたしには思えませんよ(^_^)
    分かり難いのは、カント先生のせいにしちゃいましょう!っていうと、
    カント先生怒るかな???
引用返信/返信 削除キー/

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