| いろいろ調べてくれて、ありがと。 今日いっぱい考えちゃった。
■12728、 ところどころわたしに思われたのを書かせてもらうね。
>悪魔ちゃんの定義のとき、形而上についてのアレコレは、考えることでしか得られないよね。「人間の感性的経験では知り得ないもの。」についての考察なんだから(非・感性的経験)、頭で考えた概念で知るしかない、と、わたしは思うんだけど、悪魔ちゃんはどう思う?< のところ。 ちょっとその前に、 「形而上」は〈神〉、「形而上的なもの」を〈神的なもの〉、っていうのは「定義」じゃなくて、わたしにおける「意味」ね。「定義」っていうのネットで調べたら、「物事の意味・内容を他と区別できるように、言葉で明確に限定すること。」ってあった。わたしのは「明確に限定する」が抜けてるから、定義とは言わないし、わたしそうしたくないのね。現象学ではエポケーっていうのしてるから。あ、これは余談だから捨て置いて。 でね、 「人間の感性的経験では知りえないもの」っていうのだったら、「感性的経験で知りうるもの」っていうのもあるよね。「感性的経験」をなきものとし、純粋に思・考の領域のみから、っていうことになるんだと思う。デカルトの方法に似てる気がする。「形而上」(わたしのばあい〈神〉ね)は、>頭で考えた概念で知るしかない<。わたしもそう思ってるけど、でもそうすると、〈神〉っていうの、人間の思・考によって生み出されたもの、っていうことになると思うのね。
引用部分の 『理性にこのような大事業を実行するだけの能力がそなわっているかどうかをあらかじめ吟味せずに、確信をもってこの事業を遂行しようとするのである。』 のところ。 カントは、「形而上的なもの」(わたしのでは〈神的なもの〉)を捨て去ることはできなかったってわたし見てるから、彼が人間の認識を考える前提に〈神的なもの〉があった、ったいうのははずせないと思う。上記の文の、『理性』や『能力』のまえに〔人間の〕っていうのをつけて読んじゃうのね、わたしのばあい、彼が言っていることを理解しようとするとき、「神対人間」っていう構図のうちで見て見る、っていうこと。
でね、人間の理性というのを吟味しないまま『確信をもってこの事業を遂行しようとする』ということに対して『この学のとる方法は、最初は独断論的である。』って言っているようにわたしには見える。これも彼の神への信仰深さがうかがえるとわたしには思えるのね。
このあと、カントは人間の理性を吟味してるんじゃないかしら? 前に書き写したと思うけど、中島義道さんの記述、 《人間の認識の限界を設定することができるためには、われわれはその外側に位置する「超越的なもの」に――認識できなくとも――何らかの仕方で関与できねばならない。カントによれば、人間理性は「超越的なもの」に「仮象」(Schein)というかたちで関与するのである。つまり、「超越的なもの」を捉えようとすると人間理性は必ず仮象に陥るが、その仮象への陥り方に関することすべてに消極的意味における「超越論的」という言葉が付される。『純粋理性批判』のうちで「超越論的弁証論」というタイトルはこれを直接示しているが、そこにおいて主導的な役割を演ずる「超越論的仮象」「超越論的理念」「超越論的自由」などは、こうした意味で使われている。また、『純粋理性批判』において以上の(積極的・消極的)二重の意味を含む方法論は「超越論的方法論」である。》 のような論が展開されてゆくんじゃないかしら?
カントにおいては「仮象」っていうのは「誤った現れ」という意味に限定したみたい。 わたしには「超越的なもの」は「形而上的なもの」に、「超越論的」は〈人間における神のような論的〉に、重なって見えてる。
簡単に言っちゃうと、カントが人間の理性を吟味した結果、 《「超越的なもの」を捉えようとすると人間理性は必ず仮象に陥る》 ってなったんじゃないかしら?
あ、ごめんね、お喋りしすぎちゃったみたい。 あくまでもわたしのだからね。
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