□投稿者/ pipit -(2021/05/20(Thu) 23:38:15)
| 今度は仏教用語なしで、今のところの私見書くことにチャレンジしてみますね(^_^)
中山先生の001冒頭は、
『わたしたちのすべての認識は経験とともに始まる。これは疑問の余地のないところだ。認識能力が対象によって呼び覚まされて活動し始めるのでなければ、そもそも何によって動き始めるというのであろうか。対象はわたしたちの感覚を触発するが(略)』 『純粋理性批判1』カント、中山元先生訳、光文社古典新訳文庫、p15より引用
ですね。
この文章においては、認識能力が対象によって呼び覚まされて活動し始めることを、経験とともに始まる、と、言っているのかな、と、わたしは思いました。
カント哲学では、人間は、物自体に触発されて現象を得る、という構図になってると思っていますが、
対象がわたしたちの感覚を触発することから、人間の認識能力が呼び覚まされる、
そこから始まるものの、
触発されて、わたしたちにどのような表象が現れるか、という主導権は、表象に関しては、対象によって呼び覚まされる・の・対象(物自体)が完全に握っているわけではなく、 わたしたちがアプリオリに持つ認識の形式(感性における時空形式や思考における概念把握形式)【も】、わたしたちの実際に得る表象(現象)に関しては寄与している。
そのことを、『すべての認識が経験から生まれるわけではない。』と言っているのかな、と、今のところ思いました。
全ては経験から生まれるという経験論への反論も意識して、この文章を記述したのかな?とも思いました。
いろいろ勘違いしててすみませんでしたm(_ _)m またまた勘違いしてたらすみません!
おつかれさまです(^_^)
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