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Re[8]: 形而上学的な根拠づけ(演繹)
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□投稿者/ pipit -(2021/05/10(Mon) 22:52:32)
| うましかさん、こんばんは(^o^)/
No.12554 > 中山元訳1、p.17〜p.19あたりの「アプリオリ」の説明や、< ↓ =============== 『だから本書でアプリオリな認識と呼ぶときには、それは個々の経験から独立した認識という意味で理解するのではなく、すべての経験から絶対的に独立した認識という意味で理解していただきたい。』 『純粋理性批判1』カント、中山元先生訳、光文社古典新訳文庫p19より引用。 ================
>中山元訳2、p.77〜p.79の「"形而上学的な"解明」の説明から理解していきたいとおもっています。< ↓ ================ 『そしてこの解明が、概念をアプリオリに与えられたものとして提示するときには、それは形而上学的な解明と呼ばれる。』 同上本、カント、中山元先生訳、p79より引用。 ================
上記引用の二文を考慮して、自分なりに言葉をお互いに当てはめてみますね。
概念を、すべての経験から絶対的に独立して与えられたものとして提示する、 その解明は、形而上学的な解明と呼ばれる。
(※『解明』と『演繹』言葉が違いますよね。 そのことについては、中山先生が、第一巻のp344〜347で解説されています。)
今、気になってる『形而上学的演繹』に関して言えば、 すべての経験から絶対的に独立した概念を人間が所有していることを明示する演繹が、 形而上学的演繹かなぁ、と、考えています。
> あと、pipitさんはすでにご承知されているかもしれませんが、「形而上学的な根拠づけ(演繹)」という言葉は、第一版(初版)では出てこないようです(ちゃんと目を通していないのでまだわかりませんが^^;)。<
やっぱりそうなのですね。 そんなかんじを受けてるんですけど、 とにかくいろいろややこしくて(~_~;) 把握しながら読み込むことができていません(><)
> 何らかの事情から第二版で論の体裁を整えたのだろうかなどと勝手に想像しています。<
体裁の整え方、変更箇所などについて、各研究者によって、実に様々な解釈があるようです。 カント先生、いろいろわかりやすく文章を遺してくれたら、みんなもっとラクだったですよねf^_^;
> ******* > > いやカント沼ではやくもおぼれかけました〜(;゚Д゚) > > このさきもよろしくお願いいたします!m(__)m<
うましかさんのおかげさまで、私自身がたくさんのヒントに出会えました。 ありがとうございます どうぞこのさきもよろしくお願いします!
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