□投稿者/ pipit -(2021/05/14(Fri) 10:28:34)
| No12596に返信 悪魔ちゃん、こんばんは! 簡単に考えてたら、いざ探そうとすると、私には超巨大な質問だったよ。(^◇^;)
文脈によって、いろんな使われ方がしてそうなんだけど、 とりあえず、【初版の序文】の冒頭のまとまりが、『この果てしない闘争の場こそ、形而上学と呼ばれるのである。』(中山元先生訳)という言葉でまとめられる箇所となってるので、そこを引用するね。 初版の序文の冒頭だから、しょっぱな中のしょっぱなだね!
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『純粋理性批判1』カント、中山元先生訳、光文社古典新訳文庫、p199と200より引用。
(引用開始) 『人間の理性のある種の認識には、特別な宿命のようなものがある。 理性は拒むことのできない問いに悩まされ続けているのである。 この問いは、理性の本性そのものから課された問いでありながら、理性はそれに答えることができない。 それが人間の理性のすべての能力を超えた問いだからである。
この苦境に陥ったのは、理性の責任ではない。 理性が手始めに利用する原則は、経験において十分に確証されているものである。 そして理性はこの原則を使用しながら、ますます高みに上昇し(高みに上昇することは、理性の本性なのである)、遠くかけ離れた条件にまで到達するのである。
しかしこのような形では問いそのものがなくなることはないので、人間の理性は自分の仕事に終わりがないことに気づく。 そこで理性は、ありうるすべての経験的な使用を超越してはいるが、それでいて人間の常識的な理性でも了解することができるため、それほど疑わしいと思われないような原則に逃避する必要があると感じるのである。
しかし理性はそのために曖昧さと矛盾のうちに陥ることになる。 理性はどこかに誤謬がひそんでいるに違いないと推定することはできるのだが、それを発見することはできない。 理性が使用している原則が、すべての経験の境界の外に出ているために、経験という〈試金石〉をもはや認めなくなるからである。
この果てしない闘争の場こそ、形而上学と呼ばれるのである。』 (引用終了)
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pipitの感想 わたしはなんで存在してるんかなあ? 神様がいるんかなあ? 宇宙ってどうなってるんかなあ? 端っこあるんかなあ? などの、理性の問いに答えるため、 理性自身が考える原則(仮説)は、自己の経験の境界をでてることが一般的であり、そこでは科学原則(仮説)のように実験して確かめるという試金石が存在しないことも一般的である。 だから、仮説だらけになって、だれが正しいのか(試金石もないのに)、の、闘争が生じる。 それが、カントがその時代に経験してた、『形而上学』という領域だったのかな? と思いました。
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とりあえず、『形而上学』について、たくさんある記述の中の一つを引用しました。 いつでも、どんなことでも、聞いてくれるのは、こちらはかまわないから気軽に書き込んでね(^_^)(答えたくなーい、答えられなーい、だったら、答えないから安心してね!)
悪魔ちゃんは、カントに関する解説などより、カント本人の文章が一番わかりやすい、みたいなことを書いてくれたね。 悪魔ちゃんに答えるために引用した記事を読み返すと、(あら?カントの文章、もしかしてわかりやすい???)って私もそんな気になるよ。 普段めちゃめちゃ苦労してるんだけどね。
わたし、を、軸にするとわかりやすくなるのかな。 わからんけど、、、不思議。
ありがとうです!
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