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■37417 / inTopicNo.25)  Re[50]: つれづれなるままに 14
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/06/02(Sun) 19:43:37)
    No37416はちょと横に置いとくとして、
    No37415のようにして見たなかで、
    (a)、(p-ap)、(G-V)、〈ap〉をまとめちゃうと、
    「統覚≒共現在化≒付帯現前化」⇒perception(端的な知覚)+ap(準現在化/付帯されてるもの/記憶・想像によるもの/思い込み)
    ってしてわたし見ることになった。

    perception(端的な知覚)――〈端的な知覚-されてるもの〉――を(p)ってすると、
    「統覚≒共現在化≒付帯現前化」=(p+ap)
    ってなる。だいぶ簡単になってきた感じ〜。
    こういうんで見ると、
    たとえばね、
    No36191の(w)の中にある、
    〔知覚対象は単なる現前(Prasenz)ではなくつねに付帯現前(Apprasenz)なのである〕
    わたしなりに見ると、
    〈(私)に現前する「対象」は、(私の)うちでは、単なる(p)ではなく、つねに(p+ap)なのである〉
    ってなるのね。

    いっぱい書きつくればしちゃったけど、今日はここまでにしとく。

    このつづきは、
    No37414の、
    〈何かと何かが対(ペア)になって、次に、何かと何かが対比される〉の、〈何か〉へと向かうんだけど、
    あ、
    『ここで対になることが必然的に現れて、対比が行われることによってである』の、『現れて』を抜かしてた。
    で、
    〈何かと何かが対(ペア)になって、どこに現れ、次に、どこかで、何かと何かが対比される〉の?
    の、〈何か〉と〈どこ〉へと向かうことになるんだけど、今日のお喋りはこれでおしまい〜。

引用返信/返信 削除キー/
■37416 / inTopicNo.26)  Re[49]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/06/02(Sun) 18:42:43)
    No37415に関連して、
    「付帯現前化」と「準現前化」とは異なる、みたいなのが書いてあったのでちょっと書いとくことにする。

    No37109の(3)、「他我構成論の概略」の中に、
    @〔‥‥他者は、まず原初的領域のうちに物体として現出するが、超越論的自我は「ここ」にある私の身体と「そこ」にある物体との間で類似にもとづいた「対化(Paarung)」を生じる。…‥しかし他我はあくまでも「そこ」における物体の現前化に結びついて、間接的に共に現前するだけである。この「そこ」にある物体の現前化結びつきつつ、私ではない他の自我を「共に現前させる作用」をフッサールは「付帯現前化(Apprasentation)」と呼ぶ。この意識の働きは、想起や想像といった「準現在化(Vergegenwartigung)」の作用とは異なり、私が直接的には充実することができない「他者経験に特有の準現在化」の働きを意味する。他者の他者性ともいうべき「根源的な到達不可能性」は、この付帯現前化の間接性によって保証される。こうして「そこ」に現れる物体は、対化という「連合の意味付与の過程全体に応じて、(私がそこにいるかのように)そこという様態において、今共に現に存在する自我として付帯現前される」のである。
    しかしここで批判されるのは、上述した仕方で構成される他者が、真に他者足り得るものとして構成されているかということである。そこで次にヘルトによる批判の検討を通じて、フッサールの他我構成論の問題点を探ることにしたい。・・・・〕
    で、
    No37233とか、
    No37314へとなるんだけど。

    もう一つ、
    【「現象学事典」弘文堂2014】の「間主観性」のなかに、
    A〔‥‥フッサールの諸説のなかには確かにそのような議論もあるが、それにしても彼は、われわれが他人の経験を直接的に体験するということは認めない。他人の経験はあくまでも「付帯現前化」されているにすぎず、もしそれが直接的にあたえられるとすれば、他人と私の区別がなくなってしまう、とさえフッサールは言っている。そして「付帯現前化」(Apprasentation)という語は、彼の場合、想像の作用的特徴性を表す「準現在化」(Vergegenwartigung)と同義の語として使われるので、そうした他人の与えられ方といわゆる「想像」(Pantasie)との区別もかなり曖昧であり、いかにしてわれわれが「他人を見る」と言えるのはあまり明確ではないのである。‥‥〕(アキュートアクセントは省略)
    ってあった。
    あと、
    〔‥‥たとえばヴィトゲンシュタインならば、われわれはあくまでも「他人」(another person)を見るのであって、決して「他我」ないしその一部を見るのではない、というであろう。「私の彼(他人)に対する態度は、魂に対する態度である。私は、彼が魂をもっているという意見をもつものではない」[『哲学探究』U,iv]〕
    とも書いてあった。

    @の、〔超越論的自我〕っていうのは「純粋自我」でもいいんだと思う(わたしのでは〈純粋な思考する自〉ってなるんだけど)。これはいいとしても、〔「付帯現前化」は「準現在化」とは異なり「他者経験に特有の準現在化」〕っていうところがわたしに問題だったのね。
    たぶんだけど、「準現在化」は、現前するものが「人」以外のものも含まれて言ってるんじゃかいかしら?って。たとえば、(私に)現前するものが「犬」だったり「椅子」のようなばあいも「準現在化」っていうのあって、みたいに。「他者経験に特有の準現在化」の「他者」は「人」のことで、ようするに、(私に)現前するものが〈人のばあいに限っての準現前化〉を「付帯現前化」って言ってる、こんな感じで。

    長くなっちゃたので、これについては、こんな感じまでにしとく。

引用返信/返信 削除キー/
■37415 / inTopicNo.27)  Re[48]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/06/02(Sun) 17:45:58)
    No37414のつづき
    おさらいとわたしのね。

    (1)「知覚」と「統覚」
    については、
    No11393第50節訳注(33)
    〔Apperzeption:Perzeption(もとはラテン語perceptioで、「知覚」の意)に前つづりAd-(「方向・接近・隣接・接着」の意)が付け加えられたもの@。・・・フッサールは…‥或るものの端的な把握としての「知覚」Aと区別して、さまざまな把握を取りまとめて統一的に知覚することを「統覚」と呼んでいる。B〕
    から。
    (独)Apperzeptionは(英)apperceptionみたいだから、こっちで見てくよ。

    ・@、[apperception]は、[perception](知覚)に[ap-](「方向・接近・隣接・接着」の意)が付け加えられたもの。
    [ap-]を、〈くっついてるもの〉として見て、[perception](知覚)に[ap-]っていうものがくっついている、として見たのね。
    [ap-]がくっついている[ap-perception]が[perception]にくっついてるって見るのかもだけど、でもこう見たとき、[perception]と[apperception]があって、〈perception+apperception〉が「統覚」っていうことになるから、これちょっと違う気がする。

    ・Aの〔或るものの端的な把握としての「知覚」〕、このような「知覚」を、
    No36316で見たように、わたし〈端的な知覚〉ってして見ることにしてる。
    っていうのは、
    No36053にあるように、
    現象学では、〔想像を…知覚と並び知覚にどこまでも近いひとつの表象、つまり像あるいはイメージと見なし〕てるなかで、わたしのなかでは「想像」と「知覚」の区別がいまいちはっきりしなくなっちゃから、現象学の「知覚」っていうの、〈端的な知覚〉ってしてわたし区別して見ることにしてる。

    ・Bの〔さまざまな把握を取りまとめて統一的に知覚することを「統覚」と呼んでいる〕
    〔‥‥知覚することを「統覚」〕ってなってるけど、@のように、「統覚」ap-perceptionを、「知覚」perceptonに[ap-]がくっついてるものとして見て、この知覚を〈端的な知覚〉として見て、
    結局、
    「統覚」ap-perception=perception(端的な知覚)+ap
    ってして見た。

    ちなみに、
    (2)「統覚」と「統握」
    No11393で見たように、フッサールは2種類の統覚を見てるようなんだけど、
    〈感性〉における統一的なものを「統覚Apperzeption」、
    〈思考〉における統一的なものを「統握Auffassung」
    ってしてわたし区別してる。

    (3)「統覚」と「現在化/準現在化/共現在化」
    なんだけど、
    〈統覚ap-perception=perception(端的な知覚)+ap〉ってして見たかなで、「現在化/準現在化/共現在化」を見て見たのね。
    「現在化/準現在化/共現在化」は、
    No36191の(w)のね。
    〔知覚対象は単なる現前(Prasenz)ではなくつねに付帯現前(Apprasenz)なのである〕
    のうように現象学では見てるみたいで、
    No36984で、
    「付帯現前化」≒「共現在化」≒「統覚」ってして見たんだけど、
    ・(1)で見たように、〈ap-〉を〈付帯されるもの〉ってして見て、これ「準現在化」とも見たのね。これ、〈記憶や想像によるもの〉で、これ〈思い込み〉ともあった。

    ちょっとまとめると、
    (a)「統覚」≒「共現在化」≒「付帯現前化」ってして見て、
    (p-ap)「統覚」ap-perception=perception(端的な知覚)+ap
    ってして、
    (G-V)「共現在化(付帯現前化)」=現在化(端的な知覚)+準現在化(付帯されるもの)
    ってして、
    〈ap〉=〈準現在化〉 〈付帯されるもの〉 ←(思い込み) (記憶や想像によるもの)
    ってしてわたし見ることにした。

引用返信/返信 削除キー/
■37414 / inTopicNo.28)  Re[47]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/06/02(Sun) 15:31:49)
    No37413 のつづき
    No37412の、 (a-Da)で、

    何かと何かが対(ペア)になって、次に、何かと何かが対比される、

    って言ってるんだと見たんだけど、この4つの何かはなあに?って、わたしなったのね。

    対(ペア)になる、って、
    「私と他者が対になる」でもいいのかもだけど、乳幼の頃では自他未分化の状態、ってして見たとき、そして、そのうちで見ようとするとき、「これ」言えないんじゃないかしら、って。だってこの見方はすでに「私」と「他者」の区別ができてる大人の見方になっちゃう気がしてる。

    「知覚」「統覚」「現在化/準現在化/共現在化」っていうの、おさらいしながら、いろいろ考えたんね。

    つづく

引用返信/返信 削除キー/
■37413 / inTopicNo.29)  Re[46]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/06/02(Sun) 15:03:44)
    No37412のつづき

    訳注(38)の
    〔「対になること」によって初めて、「私の」と「他者の」が言わば同時に生成してくるわけである。〕
    っていうことは、
    いまは、乳幼の頃に遡ってそのなかで見ようとしてるなかかで、

    前にラカンの鏡像段階のときに見た、
    No30710の、(3)-@の、
    〔幼児が自他未分化の「癒合的社会性」を生きているところから、どのようにして自己と他者との境界線が引かれるようになるのか?〕
    こいうふうに、乳幼の頃は自他未分化とか自他融合の状態で、「私の」と「他者の」っていう区別がまだはっきりと分かってない、っていうことが前提となってるんだと思う。
    で、
    この状態から(a-Da)っていうことになる、ってフッサールは考えているんだと思う。

    「発生的現象学」っていうの、たぶん、自他未分化の状態からどのようにして「私の」と「他者の」が(私)において覚起されてくる?これを考えてるんだと思う。

    「私の」と「他者の」の区別がなされる以前のことの話しだから、これからのわたしの喋りのなかでは(私の)とか(他者の)ってして、括弧に入れて書いてくことにする。

    つづく

引用返信/返信 削除キー/
■37412 / inTopicNo.30)  Re[45]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/06/02(Sun) 09:42:32)
    今日は、書きつくれば、しよっかな。

    No37396 のつづきね。
    その部分っていうのは、
    No37392の(a-D)ので書くと、
    (a-Da)「他者は、現象学的には自己《自と体》の「変様」として現れるのだ(私の自己《自と体》が「私の」というこの性格を受け取る(38)のは、ここで対になることが必然的に現れて、対比が行われることによってである)。」
    と、
    訳注(38)の
    (D-38)〔この括弧内では、「対になること」によって初めて「私の」という性格を受け取るのだとすると、それに先立って「私の」という性格がるわけではないことになる。「対になること」によって初めて、「私の」と「他者の」が言わば同時に生成してくるわけである。〕
    のところね。

    ここんところを手がかりにして、

    つづく

引用返信/返信 削除キー/
■37402 / inTopicNo.31)  Re[44]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/06/01(Sat) 17:40:41)
    No37396 の〔はじめに〕のところについて、ちょっと書いとく。

    〔フッサールが他者に対置されるべき「私」をどのように理解していたのかを明らかにし、〕とか、
    〔そもそも他者に対置されるべき「私」あるいは「自我」の位置づけが、曖昧なままになっている。〕
    にある「私」とか「自我」なんだけど、
    小林さんは、「私・自我(Ich)」って書いてあるから、たぶん「Ich」を、「私」とか「自我」って見てて、ようするに「私」と「自我」っていうのを同じ意味としてるのかも? わたしのばあい、「私」と「自我」っていうのは区別してる。

    〔受動的総合〕については、
    No37239で書いた。
    〔類比化的統覚〕については、
    No15252のなかに出てきてる。
    〔自己移入〕については、
    No37109の(3)の中に、
    〔ヘルトはフッサールの「私がそこにいるかのように」という記述に注目し、この理論が、他者についての定立的な意識に到達しておらず、「自我の疑似的二重化」にしか行き着かないとして、類比化的統覚の理論に含まれている問題点を見事に析出している。〕
    ってあるんだけど、たぶん「私がそこにいるかのように」っていうのが「自己移入」を表しているんじゃないかな?って。わたしにはなんかわかりやすい表現。でもこの「私」っていうのをどういうふうに見るかによってこの見方は変わってくる気がしてる。

    そこはかとなく、ね。

引用返信/返信 削除キー/
■37396 / inTopicNo.32)  Re[43]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/31(Fri) 19:50:30)
    No37392 で、第50,51,52節からわたしが抜粋したところの、わたしの見方でのが書けたんだけど、

    なんかちょっと、わたし何を分かろうとしてるのか? なんか分かんなくなってきた感じ。
    今回の物語りの、わたしの、知りたい、の始まりね。
    いま、【フッサール著『デカルト的省察』1931浜渦辰二訳岩波書店2001】の第五省察の第50、51,52節を読み返してもう一度考えて見てるんだけど、そうすることになった、きっかけね。
    ほら、お喋りいっぱいしてて、ふと、“あれ?何からこの話になったんだっけ?”っていうこと、たまにあるよね。そんな感じの。
    でね、
    振り返って見て、たぶん、
    No37109の(3)の中の、
    …‥‥‥‥‥‥‥
    はじめに
    他者経験の解明にあたり、フッサールが他者に対置されるべき「私」をどのように理解していたのかを明らかにし、他者経験の問題を受動的総合の問題として再提起し直すこと、それが本論の目的である。
     周知のように超越論的相互主観性を構成するために、フッサールは他者経験そのものの現象学的解明を重視し、『デカルト的省察』(1931)(以下『省察』)の第五省察においてその課題に取り組んでいる。しかしフッサールによる他者経験の解明は、K・ヘルトに顕著に代表されるように、まず自己移入による類比化的統覚の理論として、その妥当性について批判される。このフッサールの他我構成論に対する批判には、妥当な面が少なからず認められよう。だがそこで指摘される批判以前に、他我構成論においては、そもそも他者に対置されるべき「私」あるいは「自我」の位置づけが、曖昧なままになっている。この曖昧さは、フッサールの他我構成論全体を貫いており、第五省察の理解にとって重要な焦点となっていると言える。‥‥
    …‥‥‥‥‥‥‥
    から、だったような気がする。
    わたし前に『デカルト的省察』読んだから、それを、わたしので捉えるのに参考になりそう、って思ったのからかも。

    このような始まりからの始まりは、
    No37314のところのような気がする。

    後でその部分をも一度書き出して見るね。


引用返信/返信 削除キー/
■37392 / inTopicNo.33)  Re[42]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/30(Thu) 18:34:42)
    No37384のつぎに、
    No37289のを見てく。
    わたしが抜粋したところは短いから、それも含めて書いて見るよ。

    本文(D)
    **********
    第52節 共現前は、独自の確認する様式をもった経験である 
    ‥‥「異なるもの(フレムト)〔他者〕」は、自分固有のものの類似物(アナロゴン)としてのみ考えることができる。それは必然的に、その意味の構成ゆえに、私の最初に客観化された自我と私の原初的世界との「志向的変様」として現れる。つまり、他者は、現象学的には自己の「変様」として現れるのだ(私の自己が「私の」というこの性格を受け取る(38)のは、ここで対になることが必然的に現れて、対比が行われることによってである)。したがって、類比による変様において、この自我の具体性はまずその原初的世界として、次に十分に具体的な我(エゴ)として属するものすべてが共現前する、ということは明らかである。言い換えれば、共現前によって、私のモナドにおいて別のモナドが構成されるのである。‥‥(p206)
    **********

    訳注(38)は、
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    「他者は、現象学的には私の自己の「変様」だとすると「私」というのが先にあるのでなければならないだろう。ところが、この括弧内では、「対になること」によって初めて「私の」という性格を受け取るのだとすると、それに先立って「私の」という性格がるわけではないことになる。「対になること」によって初めて、「私の」と「他者の」が言わば同時に生成してくるわけである。「我は汝と対比のなかで初めて構成される」(『間主観性の現象学』第一巻)という言い方も、この脈略で理解されよう。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    本文にある『自分固有のもの』を、
    No37367で見たように、
    「自分」→〈分化した自〉として、「〈分化した自〉固有のもの」ってなるんだけど、
    わたしの言う〈自〉っていうの、〈意識の原初自然な固有領域〉ってしてしてるから、すでに〈自〉が固有のものなのね。
    〈分化した自〉だから、、その基になってる〈自〉も固有のもの、そして、〈自〉に固有のもの、これを〈体〉ってして見るね。
    フッサールは、(私の)「身体は絶対的なこの」って言ってるし。
    こういうのから、
    『自分固有もの』→〈自と体〉
    ってして見た。
    で、
    ‥‥‥‥
    (a-D) 異なる(フレムト)もの〔他者〕」は、自分固有のもの《自と体》の類似物(アナロゴン)としてのみ考えることができる。それは必然的に、その意味の構成ゆえに、私の最初に客観化された自我《思考する自》と私の原初《乳幼の頃》的世界との「志向的変様(37)」として現れる。つまり、他者は、現象学的には自己《自と体》の「変様」として現れるのだ(私の自己《自と体》が「私の」というこの性格を受け取る(38)のは、ここで対になることが必然的に現れて、対比が行われることによってである)。したがって、類比による変様において、この自我《思考する自》の具体性はまずその原初《乳幼の頃》的世界として、次に十分に具体的な我《思考する我》(エゴ)として属するものすべてが共現前する、ということは明らかである。言い換えれば、共現前によって、私のモナド《自》において別のモナド《自》が構成されるのである。
    ‥‥‥‥
    ってして見た。

    ここんところはい〜ぱい考えたので、このつづきは後にする。

    やっぱ、お喋りはわかりやすい言葉で簡単に、がいいよね。

引用返信/返信 削除キー/
■37384 / inTopicNo.34)  Re[41]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/28(Tue) 19:05:41)
    つぎに
    No37287の、第51節 他者経験には、連合によって構成するものとして、「対になる」という契機が含まれている
    から抜粋した(B)(C)のわたしの見方ね。

    No37372で、『原初的な領分』を〈自〉ってわたし見て、
    『私の原初的な領分』→「私の《乳幼の頃》的な領分」→〈(私の)自〉
    っていまはなってる。(私の)ってカッコでくくったのは、まだ「私の」って言えない頃だから。
    あと、
    『本来的な知覚』を〈端的な知覚〉、ってして見たから、それでも見て見ると、

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    (a-B)私の原初《乳幼の頃》的な領分《(私の)自》の内部で、一つの物体《(他者の)「体」》が私固有の身体《〈体〉》(ライプ)=物体《「体」》(ケルパー)に類似するものとして、〔私の身体と〕同様に身体《〈体〉》として捉えられるのは、類比《類似と対比》によってであった。
    ここでの類比《類似と対比》による把握に特有なことを特徴づけようとする時、
    まず最初に出会うのは、ここでは根源的に創設する原本が常に生き生きと現在しており、それゆえ原創設そのものが常に生き生きと動いたままだ、という特徴である。そして第二に出会うのは、この類比《類似と対比》によって共現前するものは決して現実には至ることはできず、それゆえ、本来的な知覚《端的な知覚》に至ることはできないという、すでにその必然性において知られるようになった特性である。
    第一の特性と密接に関連することだが、我《(私の)〈思考する我〉》(エゴ)と他我《(他者の)〈思考する我〉》(アルター・エゴ)は常にそして必然的に、根源的な「対(ペア)になる」という仕方で与えられる。

    (a-C)いま私の原初《乳幼の頃》的な領分のうちに一つの物体《(他者の)「体」》が際立って現れ、それが私の身体《〈体〉》と似ている、すなわち、それが私の身体《〈体〉》と現象的に対になるに違いないという状態である場合、その物体《(他者の)「体」》は意味がおしかぶせられることによって、直ちに私の身体《〈体〉》から身体《〈体〉》という意味を受け取るにちがいない。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    ってなる。《 》内がわたしの見方で書いたところ。

    (B)の、
    『私の原初的な領分の内部で、一つの物体が私固有の身体(ライプ)=物体(ケルパー)に類似するものとして、〔私の身体と〕同様に身体として捉えられるのは、類比によってであった。』の、「私固有の(ライプ)=(ケルパー)」、これ長いから、訳注(34)に「Leib-Korper」(アキュートアクセントは省略)ってあるから「身体-物体」、これを簡単にまとめちゃって、〈体〉ってするよ。
    で、この部分、わたしの見方だけで書くと、
    「〈(私の)自〉の内部で、〈(他者の)体〉が私固有の〈体〉に類似するものとして、〔私の身体と〕同様に〈体〉として捉えられるのは、〈類似と対比〉によってであった。」
    これと、
    No37372で、
    「(他者)は、(私の)志向性において、類比による統覚によって、間接的に共現前(ともに現前するものとして意識させる)してる」
    ってわたしして見たのをまとめて見て、
    「共現前する(他者の)体は、(私の)体と対比して見たとき、類似している、と間接的に統覚される」
    ってなって、これ、もっとわたしにわかりやすくすると、
    (a-ABa)〈(私の)前にあるこの(他者の)体(ある物体/fremd)は、(私の)体と比べて見たら、なんか似てる、って感じる。〉
    こういうふうに見ちゃったりしてる。 なんかふつうだけど。

    (a-B)の、
    『ここでは根源的に創設する原本が常に生き生きと現在しており、それゆえ原創設そのものが常に生き生きと動いたままだ』
    っていうところ、
    わたし、〈自〉が分化して〈自分〉になるってして見てるんだけど、『原本』っていうのを〈自〉ってして見て、大きくなって、〈自分〉になっても〈自〉は『常に生き生きと現存して』る、っていうふうに見てる。

    『本来的な知覚』を〈端的な知覚〉ってわたし見たんだけど、
    No36191の「現在化/準現在化/共現在化」に、
    〔知覚対象は単なる現前(Prasenz)ではなくつねに付帯現前(Apprasenz)なのである。〕
    〔他者は私にとって永遠に思い込みとして以外に近づきえないと言うのである。〕
    って見てるみたいなフッサールは、
    そして、
    No36130にあるように、
    〔想像は対象を非定立のまま保持しつづける。また対象が現前しないがゆえに、想像は知覚の特色である内容充足を成就することができない。〕 
    そういうふうに、
    現前するそれ〈(他者の)体〉は、〈想像されるもの〉や〈記憶〉がつねに付帯されてるため、
    「共現前するものは決して現実には至ることはできず、それゆえ、本来的な知覚〈端的な知覚〉に至ることはできない」みたいなことを言ってるんじゃないかしら?

    (a-B)で、
    『我』を《考える我》、『他我』を《他者の考える我》ってしてわたし見てるんだけど、これって「自我」とは書いてないから、
    No37367でみたような「自我」〈思考する自〉(原初自然な固有領域での思考)のこと言ってるんじゃないような気がしてる。
    『第二に出会うのは』ってあるし、ひとまずここで言ってるのは〈考知性〉のうちでの話として見るけど、『「対(ペア)になる」という仕方で与えられる』ってある。
    何と何がペアになって、何が与えられるの?みたいなのをいろいろ考えたんだけど、
    たとえば、わたし、メルポンに考えられたもの(M)を読んで、わたしそれについて考えて(A)見てみて、わたしのうちになんか浮かんでくる(C)のね。こういうなかで、(M)と(A)が対(ペア)になるという仕方によって(C)がわたしに与えられる、みたいな感じのことなのかも?って。だからわたしのうちに浮かんできた(C)は、(M)と(A)によって間(相互)主観的に構成されている、って見れるかも。
    こんなふうに見た。


    (a-C)は、
    No37372で見た(a-A-a)のところと似てる。

    な〜んか、そこはかとなくで、長くなっちゃてる。まだわたし簡単に見ることができないでいるからかな。



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■37372 / inTopicNo.35)  Re[40]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/26(Sun) 17:59:59)
    さ〜てと、

    No37367ってして見たところで、

    No15221の本文(FD-7)は、わたしの見方では次のようになるのね。
    今回は(FD-7)を、(A)ってするね。

    第50節からの抜粋部分、わたしの見方は、
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    (a-A)
    ここで次のように仮定してみよう。
    私たちの知覚の場に他の人間が一人現れる。このことを原初《乳幼の頃》的に還元して言えば、私の原初《乳幼の頃》的自然の知覚の場に或る物体《(他者の)「体」》(ケルパー)が現れ、それは原初《乳幼の頃》的な物体《「体」》としてもちろん、単に私自身《私の自と体》を規定するものの部分(「内在的超越」)にすぎない。この自然と世界のうちでは、私の身体《〈体〉》(ライプ)が、身体《〈体〉》(機能している器官)として根源的に構成されている。また構成されることができる唯一の物体《「体」》(ケルパー)である。だから、そこにある物体《(他者の)「体」》〔他の人間〕はなるほど身体《〈体〉》として捉えられているが、それはこの〔身体という〕意味を、私の身体《〈体〉》の把握からの転移によって得るのでなければならない。しかもそれは、それ特有の身体《〈体〉》性という術語を現に直接的に、それゆえ原初《乳幼の頃》的に実証すること、すなわち本来的な知覚によって実証することは排除するような仕方においてである。私の原初《乳幼の頃》的領分の内部での、あそこにある物体《(他者の)「体」》を私の物体《「体」》と結びつける類似性のみが、前者を他の〔他人の〕身体《〈体〉》として「類比《類似と対比》によって」捉えるように動機づけるための基礎を与えることができるということは、初めから明らかである。
    それゆえ、それは或る種の類似にもとづく統覚という把握の働きであろうが、
    だからと言って、それは類推〔類比推理〕なのではない。ここで言う統覚(33)とは推理ではないし、思考作用でもない。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    ってなるのね。
    *《 》内はわたしの見方で書いたところで、〔 〕内は訳者による補足説明ね。

    『ここで次のように仮定してみよう』っていうの、わたし、〈現象学的還元してみよう〉って見て、すなわち〈乳幼の頃に遡ってそのうちで見て見よう〉っていうことだとして見たのね。

    『私の原初的領分』を「私の《乳幼の頃》的領分」ってして見て、
    No37287の(B)にも『私の原初的な領分』ってあるんだけど、
    『原初的な領分』をわたし〈自〉ってして見たのね。
    いまは〈乳幼の頃の「私」〉で見てるから、
    No37367のDで見てる、っていうことね。
    で、
    『私の原初的な領分』→私の《乳幼の頃》的な領分→(私の)〈自〉
    ってして、
    もっとわたし勝手にして見ると、
    (a-A-a)「私の《自》の内部での、あそこにある《(他者の)「体」》を私の《「体」》と結びつける類似性のみが、前者を他の〔他人の〕《〈体〉》として「《類似と対比》によって」捉えるように動機づけるための基礎を与えることができるということは、初めから明らかである。」
    ってして見ちゃうのね。もっとも『初めから明らかである』かどうかは別としてもよ。

    『それは或る種の類似にもとづく統覚という把握の働きであろうが、だからと言って、それは類推〔類比推理〕なのではない。ここで言う統覚とは推理ではないし、思考作用でもない。』
    ここんところ、第50節のところに書いてあったんだけど、
    No11393で見たように、
    フッサールは二種類の「統覚」っていうのを見てるみたい。わたしのばあい、〈感知性〉の領域でのを「統覚Apperzeption」、〈考知性〉の領域でのを「統握Auffassung」(思考作用による類推・推理によるもの)っていう語で区別することにしてる。
    あと、
    No15252のなかの、
    〔フッサールが他者論において用いた用語で、固有領野によって対(Paar)をなすこと、そこからさらに私の身体からの意味の移譲にとよって他(他者)の身体という意味を得るようになる現象のことをいう。フッサールは、両身体の類似性にもとづく他者経験を類比化的統覚(analogisierende Apperzeption)と特徴づけるが、それが類比推理(analogieschluß)〔伝統的な「類推説」〕のような思考作用(=能動的・対象化作用)ではないことを強調し、それを「受動的総合の根本形式」と呼ばれる対化の現象として説明しようとした。〕
    っていうところとなんか似てる。
    ってすると、『類似にもとづく統覚』っていうのを「類比化的統覚」って見てもいいのかな?

    あと、『本来的な知覚』ってあるけど、
    No36316で見たように、《端的な知覚》ってして見ようかな、とも思ってる。

    ここでわたしの問題は、『類似にもとづく統覚』なんだけど、これ後にする。

    なんかごちゃごちゃしてるけどひとまずここの部分についてはこんな感じまでにしとく。

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■37367 / inTopicNo.36)  Re[39]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/26(Sun) 12:07:54)
    No37366まで、『デカルト的省察』読んでるなかで、わたしのうちに浮かんできた〈自〉のイメージがだいたい表現できたところで、

    【フッサール著『デカルト的省察』1931浜渦辰二訳岩波書店2001】の、第50、51、52節からわたしが抜粋した、
    No15221 (第50節)
    No37287 (第51節)
    No37289 (第52節)
    をわたしなりに見ていくことにするんだけど、この中に出て来る語、わたし次のようにして見たのね。

    「我(エゴ)」をデカルトの「我思考する」の「我」として見て、
    ・@「我」→〈思考する我〉

    「自我」を「自」と「我」に分けて、@として見て、
    ・A「自我」→〈思考する自〉
    こう見たとき、わたし思ったんだけど、〈自〉のうちに現れるものとして、〈思考する〉ということと、〈感じる〉ということの両方が現れてくるんじゃないかしら?って。記憶もあるけど、これらを“なかだちをする場”があってそれを〈自〉って。
    No37365でわたし見ているように、乳幼の頃の(未分化の)自のうちには〈思考の芽〉みたいなのがすでにあって、それは大きくなってもそういうのあって、それは無意識的なのかもしれないけどあって、そういうのをフッサールは「純粋自我」って言ってるんじゃないかしら?
    No37109の資料(3)(5)で、
    『ベルナウ草稿』あたりから、フッサールの「我」−思考する我(能動的総合)は、「自我」〈思考する自〉から〈感じる自〉(受動的総合)へと志向し始めた、みたいなこと言ってるんじゃないかしら?(3)に〈省察する自我〉、(5)に〔現象学する自我〕ってある。

    資料の中では「自己」っていうのをどういう意味で日訳して区別してるの?これわたし問題だったんだけど、やっぱ日本語で考えて見て、「自」と「己」に分けて、「己」を〈体〉ってして見たらどうかな?って。
    あと、「私自身」を、〈私の自と身体〉として見て、わたし「身体」を簡単な語で〈体〉って言ってるから〈私の自と体〉ね。
    No37314 の(3-d)では「私自身」、(52-D)では「私の自己」って日訳されている。たぶん同じ語をこのように訳してるんだとして見て、
    ・B「自己」→〈自と体〉≒「私自身」→〈私の自と体〉
    ってして見ることにした。

    「自分」っていうの、
    No31867で見たように、わたしのばあい、
    ・C「自分」→〈分化した自〉
    ね。

    わたし、「私」って言うのを〈精神(意識)〉と〈身体〉に分節して見てる。〈身体〉を〈体〉ってするね。
    ・Bのとだいたい同じ意味になって、
    ・C「自己」→〈自と体〉≒「私自身」〈私の自と体〉≒「私」
    ってなるんだけど、Cのように見てるから、
    ・D乳幼の頃の「私」=〈自と体〉あるいは〈自+体〉
    ・E大人になった「私」=〈自分と体〉あるいは〈自分+体〉
    ってして分けて見てる。
    この二つをまとめると、
    「私」=〈自(分)と体〉あるいは〈自(分)+体〉

    No37109の(3)に、
    〔フッサールの現象学的分析は、常に維持される現象学的還元という反省の舞台上で、私の諸経験に関して行われる意識の志向的本質分析である。〕
    ってあった。
    そして、
    No37189で見たように、
    わたし、現象学で言う「還元」というのを、〈乳幼のころに遡ってそのうちで〉ってしてわたし見てる。
    日訳で「原初」っていう語が出てきてるけどこれを、〈乳幼の頃〉ってして見て、
    ・F「原初」→〈乳幼の頃〉
    ってして見た。
    あと、第50節からのでは、現象学的還元してるなかでの話だと思うから、Dの方で見ることにした。

    「物体(ケルパー)」と「身体(ライプ)」と、区別しているから、
    ・G「ケルパーとしての物体」→「体」(これを「カラダ」って読んで) 
    ・H「ライプとしての物体(身体)」→〈体〉(これを「からだ」って読んで)
    って言い表すことにして区別して見た。

    フッサールの言う「モナド」っていうの、
    No37183から、〔主体的な働きだけでもなく、対象でもなく、それらが不可分に媒介的な相関の出来事そのもの〕から、
    〈自〉をモナド的な場――〈間に立ってなかだちをする場〉みたいなのってして見て、
    ・I「モナド」≒〈自〉
    これ、〈間の係(かかり)〉とも呼ぼうかな、とも思ってる(「間係」って言うのネットで調べたんだけどこういう語はないみたいだからわたし勝手に作っちゃたのね)。

    「類比」っていうの、【「現象学事典」弘文堂2014】にあった、
    No15252「対化(ついか)」
    No15273「連合」
    から、簡単に、
    ・J「類比」→〈類似と対比〉
    ってして見ることにした。

    「共現前」っていうの、
    第50節のp192に、
    『共現前(ともに現前するものとして意識させること)』
    ってあったから、こう見とくことにした。

    なんか長くなっちゃたけど、ようするに@〜Jのようにして見ていくよ、っていうことね。

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