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Re[19]: つれづれなるままに 14
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□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/03(Fri) 20:08:02)
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No37217で、「自我」、 No37231で、「自己」(資料の中では、っていうことでね)、 わたしの目安が出来たところで、
資料の中をのぞいていって見る。
No37109の(3)で、 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 〔現象学にとって他者が困難な問題となるのは、他者が他者についての私の経験として、〈省察する私〉の反省の俎上にのせられてしまい、〈省察する私〉そのものとの関係で問われることがないからである。フッサールは、『イデーンT』や『省察』において曖昧であった〈超越論的自我〉と〈省察する自我〉との関係に関して、『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(1954)において、徹底的に首尾一貫した判断中止について言及している。そこでフッサールは、これまで「私の」という人称的意味を密かに冠していた〈超越論的自我〉を「原自我(Ur-Ich)」と呼び、規定し直すのである。フッサールによれば、それは他に呼びようがないので曖昧なまま「私」と呼ばれていたが、それ固有の意味では、「私」という人称的意味をもたない自我極として規定されるものである。〕 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ ってある。
〈超越論的自我〉、この〈超越論的〉っていうの、 No37157で見たように、〈純粋〉とも言っていいのかな。 簡単に見て、 〈超越論的(純粋)自我〉って呼んでいたもの、後で「原自我(Ur-Ich)」って、言い変えた、っていうことなのかな。 そして、このような「自我(原自我)」っていうの、どうやら、人称的意味の「私」っていうんじゃなくて、って、いうことなのかな。 ってすると〜、資料(3)の、「私・自我(Ich)」っていうの、じゃないんじゃないの?ってわたし思うけど。
ここに〈省察する自我〉ってあるけど、わたしの見方では〈省察する考えることをする自〉っていう言い方になるかな。 そして、その前の(原初の)自、こういうのを、フッサールは「先-自我」とか「原-自我」って呼んだんじゃないかしら?
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