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Re[49]: つれづれなるままに 14
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□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/06/02(Sun) 18:42:43)
| No37415に関連して、 「付帯現前化」と「準現前化」とは異なる、みたいなのが書いてあったのでちょっと書いとくことにする。
No37109の(3)、「他我構成論の概略」の中に、 @〔‥‥他者は、まず原初的領域のうちに物体として現出するが、超越論的自我は「ここ」にある私の身体と「そこ」にある物体との間で類似にもとづいた「対化(Paarung)」を生じる。…‥しかし他我はあくまでも「そこ」における物体の現前化に結びついて、間接的に共に現前するだけである。この「そこ」にある物体の現前化結びつきつつ、私ではない他の自我を「共に現前させる作用」をフッサールは「付帯現前化(Apprasentation)」と呼ぶ。この意識の働きは、想起や想像といった「準現在化(Vergegenwartigung)」の作用とは異なり、私が直接的には充実することができない「他者経験に特有の準現在化」の働きを意味する。他者の他者性ともいうべき「根源的な到達不可能性」は、この付帯現前化の間接性によって保証される。こうして「そこ」に現れる物体は、対化という「連合の意味付与の過程全体に応じて、(私がそこにいるかのように)そこという様態において、今共に現に存在する自我として付帯現前される」のである。 しかしここで批判されるのは、上述した仕方で構成される他者が、真に他者足り得るものとして構成されているかということである。そこで次にヘルトによる批判の検討を通じて、フッサールの他我構成論の問題点を探ることにしたい。・・・・〕 で、 No37233とか、 No37314へとなるんだけど。
もう一つ、 【「現象学事典」弘文堂2014】の「間主観性」のなかに、 A〔‥‥フッサールの諸説のなかには確かにそのような議論もあるが、それにしても彼は、われわれが他人の経験を直接的に体験するということは認めない。他人の経験はあくまでも「付帯現前化」されているにすぎず、もしそれが直接的にあたえられるとすれば、他人と私の区別がなくなってしまう、とさえフッサールは言っている。そして「付帯現前化」(Apprasentation)という語は、彼の場合、想像の作用的特徴性を表す「準現在化」(Vergegenwartigung)と同義の語として使われるので、そうした他人の与えられ方といわゆる「想像」(Pantasie)との区別もかなり曖昧であり、いかにしてわれわれが「他人を見る」と言えるのはあまり明確ではないのである。‥‥〕(アキュートアクセントは省略) ってあった。 あと、 〔‥‥たとえばヴィトゲンシュタインならば、われわれはあくまでも「他人」(another person)を見るのであって、決して「他我」ないしその一部を見るのではない、というであろう。「私の彼(他人)に対する態度は、魂に対する態度である。私は、彼が魂をもっているという意見をもつものではない」[『哲学探究』U,iv]〕 とも書いてあった。
@の、〔超越論的自我〕っていうのは「純粋自我」でもいいんだと思う(わたしのでは〈純粋な思考する自〉ってなるんだけど)。これはいいとしても、〔「付帯現前化」は「準現在化」とは異なり「他者経験に特有の準現在化」〕っていうところがわたしに問題だったのね。 たぶんだけど、「準現在化」は、現前するものが「人」以外のものも含まれて言ってるんじゃかいかしら?って。たとえば、(私に)現前するものが「犬」だったり「椅子」のようなばあいも「準現在化」っていうのあって、みたいに。「他者経験に特有の準現在化」の「他者」は「人」のことで、ようするに、(私に)現前するものが〈人のばあいに限っての準現前化〉を「付帯現前化」って言ってる、こんな感じで。
長くなっちゃたので、これについては、こんな感じまでにしとく。
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