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■37236 / inTopicNo.13)  Re[20]: つれづれなるままに 14
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/04(Sat) 10:41:29)
    きょうもお喋りしちゃうよ〜

    No37233のつづき

    いまの話題は、フッサールの言う「原-自我(Ur-Ich)」っていうの、どういうかな?ね。

    No37109の(5)のを少し。

    〔一般にフッサールの発生的現象学は、1920/21年に始まる「超越論的論理学」講義をもってその成立とされる。他方、発生的現象学という方法論の発見あるいは自覚と連動して、「自我」をめぐる思索もまた新たな深まりを見せた。『ベルナウ草稿』は「純粋自我」についての比較的まとまった新たな分析を含むことになった。〕
    ってある。
    わたしのばあい、
    ここにある「自覚」っていうのを、〈自に目覚める〉ってして見るのね。
    「自我」っていうのを、〈考えることする自〉ってして見るのね。
    「純粋自我」は、〈考えることする純粋な自〉ってして見る。
    こうみたとき、『ベルナウ草稿』あたりからフッサールの自我は、〈自〉への思索へ、って見ちゃったりして?

    〔純粋自我に関する限り、その原初的発生がそのまま時間的構成であるとは限らなない。〕
    〔以下の論考では、純粋自我の原初的発生と時間的構成が事柄として別ものであるという可能性に立脚しながら、問題を再構成しつつ、‥‥「内的時間意識」と「原-自我」との間の関係を規定し直すことで、フッサールが原-自我の発見とともに辿り着いた境位を明らかにしたい。〕
    っていうことみたいなんだけど、わたしにはよく分かんなかった。
    「内的時間意識」っていうの、【「現象学事典」弘文堂2014】のなかにあったけど、話がごちゃごちゃしてくるからここでは触れないよ。

    わたしがいちばん気になったのは、
    〔自我は「存在者ではなく、むしろ全ての存在者にとって対を成すもの(Gegenstück)」であり、「一つの対象ではなく、全ての対象性にとっての原象(Urstand)」であると言われる(Ibid.,S.277)。このような「原象」としての自我を、フッサールは便宜的に「原-自我(Ur-Ich)」(Ibid.S.286)と呼ぶ。この呼び名が便宜的である理由は、自我は「本来、自我と呼ばれるべきではなく」、「名無し(das Namenlose)」であるからだ(Ibid.S.277f.)。1931年のフッサールの草稿から引用すれば、「機能する自我は、それが機能しているときには匿名的」(Mat.V111,S.53,vgl.auch S.2,7,338)なのである。〕
    っていうところ。
    もうこうなると、「原-自我(Ur-Ich)」、「私(Ich)」、「自我(Ich)」――「私」、「自我」、「Ich」、もうごちゃごちゃになってる感じ。
    もし、「原-自我」っていうのが、人称的な「私(Ich?)」って言うのもでもなく、「自我」って言うでもないんだったら、こういう語を使わず、なんか“そのようなもの”に、別の名前をつけた方がいいんじゃない?って、わたし思うけどね。
    フッサールは、デカルトのやカントのをひきずっていたからかも?ね。

    資料(5)には、「原-自我(Ur-Ich)」、他にもっと書いてあったけどなんかめんどくさくなってきたから書き出すのやめとく。

    (5)からのはひとまずこれだけにしとく。

引用返信/返信 削除キー/
■37233 / inTopicNo.14)  Re[19]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/03(Fri) 20:08:02)
    今日はもうちょっと

    No37217で、「自我」、
    No37231で、「自己」(資料の中では、っていうことでね)、
    わたしの目安が出来たところで、

    資料の中をのぞいていって見る。

    No37109の(3)で、
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・
    〔現象学にとって他者が困難な問題となるのは、他者が他者についての私の経験として、〈省察する私〉の反省の俎上にのせられてしまい、〈省察する私〉そのものとの関係で問われることがないからである。フッサールは、『イデーンT』や『省察』において曖昧であった〈超越論的自我〉と〈省察する自我〉との関係に関して、『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(1954)において、徹底的に首尾一貫した判断中止について言及している。そこでフッサールは、これまで「私の」という人称的意味を密かに冠していた〈超越論的自我〉を「原自我(Ur-Ich)」と呼び、規定し直すのである。フッサールによれば、それは他に呼びようがないので曖昧なまま「私」と呼ばれていたが、それ固有の意味では、「私」という人称的意味をもたない自我極として規定されるものである。〕
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・
    ってある。

    〈超越論的自我〉、この〈超越論的〉っていうの、
    No37157で見たように、〈純粋〉とも言っていいのかな。
    簡単に見て、
    〈超越論的(純粋)自我〉って呼んでいたもの、後で「原自我(Ur-Ich)」って、言い変えた、っていうことなのかな。
    そして、このような「自我(原自我)」っていうの、どうやら、人称的意味の「私」っていうんじゃなくて、って、いうことなのかな。
    ってすると〜、資料(3)の、「私・自我(Ich)」っていうの、じゃないんじゃないの?ってわたし思うけど。

    ここに〈省察する自我〉ってあるけど、わたしの見方では〈省察する考えることをする自〉っていう言い方になるかな。
    そして、その前の(原初の)自、こういうのを、フッサールは「先-自我」とか「原-自我」って呼んだんじゃないかしら?

引用返信/返信 削除キー/
■37232 / inTopicNo.15)  Re[18]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/03(Fri) 20:00:08)
    そこはかとなく

    誰かに作り出された自分の価値っていうのあるかもね。
引用返信/返信 削除キー/
■37231 / inTopicNo.16)  Re[17]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/03(Fri) 17:21:34)
    連休も再開したことだし、わたしのお喋りも再開〜

    いまは、
    No37109のを読んでて、
    No37212に揚げたようないろんな「私」を見ようとしてるところ。
    あ、わたしのはフッサール現象学を正確に理解することじゃなくて、
    それを手引きとして、わたしのどうしとっこかな〜、っていうの。

    つぎに、「自己」っていうの、どう見とっこっかな、って。

    資料の中で、「自我」と「自己」をどう使い分けてるのか、いくつか探し出して見たよ。

    (3)に、
    「自己移入」「自己統覚」「自我の自己構成」「自己時間化」
    (5)に、
    「反省以前に自己感触が機能していた」「自我の自己感触」
    (6)に、
    「内的時間による自己構成」「自己自身」
    ってあるのね。

    たとえば、(3)の「自我の自己構成」みたいに、「自我」と「自己」は区別されてる。
    日本語で考えて見るんだけど、
    「自我」「自己」の区別は「我」と「己」の違い。
    で、いろいろ考えたんだけど、いまんとこ、
    資料の中での「己」っていうのを〈体〉ってして見て、
    「自己」≒〈自体〉ってして、見ようとしてる。
    こう見たとき、「私自身」となんか似てる感じだから、
    「自己」≒〈自体〉≒「私自身」ってして見ていくことにしたよ。

    「〈意識(精神)〉と〈身体〉」を表す語としてね。

    かなりむりやりな感じするけど‥‥ひとまず。

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■37217 / inTopicNo.17)  Re[16]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/04/30(Tue) 19:01:02)
    昨日はわたしの物語りの原稿、展開について考えてて、疲れちゃて寝ちゃった。

    No37212のつづき
    No37109のなかから、外国語の,あったのを、いくつか抜き出して見るよ。

    資料(3)に、
    @「私・自我(Ich)」
    A「純粋自我(reines Ich)」
    資料(3),(5)に、
    B「原-自我(Ur-Ich)」
    資料(5)に、
    C「先-自我(Vor-Ich)」
    ってあった。
    カッコ内の外国語はドイツ語みたい。

    ネットで調べて見たんだけど、簡単に、

    Aの[reines]、( reines – 日本語への翻訳 – ドイツ語の例文 | Reverso Context)
    (独)reines:純粋な。

    Bの[Ur-]、(プログレッシブ 独和辞典)
    ・非常に… 
    ・((名詞・形容詞と)) 原初の…,根源的な…
    ・((名詞と)) 最初の…
    ・(血縁関係で)一代前の…,一代後の…
    ・古くからの…

    ・Cの[Vor-]、(プログレッシブ独和辞典)
    …より前に,…前に;((順序))…より先に

    ってあった。

    資料(3)では、
    「私」=「自我」=「Ich」って見てるのかな?

    でね、わたしのね。
    日本語で見みるんだけど、

    わたしのばあい、「私」っていうのと「自我」っていうのとは、区別してる。
    「私」っていうのはちょっと置いといて、
    ABCにはぜ〜んぶ、「自我」っていうのあるから、まず、「自我」っていうの中心に見てくことにして、「自我」っていうの、わたしのばあいどうしとこっかな〜、って。
    で、
    「自我」っていうの、「自」と「我」に分けて見て、
    「我」っていうのを、デカルトの「我考える」の「我」ってして見て、
    「自我」って言うのを、〈考えることをする自〉ってする。
    これから、
    「純粋自我」は、〈考えることする純粋な自〉
    「先-自我」は、〈考えることをする前の自〉、
    「原-自我」は、〈考えることをする原初の自〉、
    ってなる。
    こう見ると、「先-自我」も「原-自我」もだいたい同じようなものを指してる、ってして見る。

    これでひとまず「自我」っていうの、わたしのが出来たところで、
    もし、フッサールの「原-自我」って言うのを問題としてるんだとしたら、
    わたしのばあい、この〈自〉っていうのが問題になるのね。

    なんか〈自〉が浮き上がってきた感じしない?

    つづく



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■37212 / inTopicNo.18)  Re[15]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/04/29(Mon) 13:37:01)
    今日はいっぱいお喋りしちゃう。

    No37211のつづき

    No37109の(3)では、
    〔フッサールが他者に対置されるべき「私」をどのように理解していたのか〕っていう、「私」を問題としてる感で、フッサールの「他我問題」やその発生を見ていく前に、ここんとこちゃんとしとこって。
    でね、
    資料の中かから「私」を探して見たのね。

    いろんな「私」、
    「私自身」(3)
    「この私」(3),(5)
    「自己」(3),(5),(6)
    「自我」(3),(6)
    「純粋自我」(3),(5),(6)
    「先-自我」(5),(6)
    「原-自我」(3),(5)

    カッコ内は資料番号ね(これ、探し出すの大変だったよ)。

    これらの語、どう区別して見とこっかな〜、って。

    つづく

引用返信/返信 削除キー/
■37211 / inTopicNo.19)  Re[14]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/04/29(Mon) 12:05:53)
    No37210 のつづき、

    特にわたしに関心があったのが(3)。
    (3)について、とりあえず思いつくままに書くね。

    〔はじめに
    他我経験の解明にあたり、フッサールが他者に対置されるべき「私」をどのように理解していたのかを明らかにし、他者経験の問題を受動的綜合の問題として再提起し直すこと、これが本論の目的である。〕
    ってある。

    「他者」とか「他我」を問題とする前に「私」が問題じゃん、っていってるのかな?
    わたしのばあい、単純な語で、〈他〉と〈自〉ってしてる。
    あ、ここでのは、〈人〉のばあいの〈他〉と〈自〉ね。

    (3)に、「ヘルト」っていうのがでてくるんだけど、
    No15252 の「対化」(あ、これ、「ついか」って読むんだと思う、たぶん。何かと何かが「対(つい)になる」っていうこと)の中に、
    @〔フッサールを内在的に超えてゆく道として、他者経験をむしろ非対象化的・非主題的な次元で捉えるというK.ヘルトの構想に沿って、この対化の現象を手掛かりにして他者経験を受動的総合と発生的現象学において解明しようとする試みもある。〕
    ってあるんだけど、この〔K.ヘルトの構想〕っていうの、たぶんそう。
    あと、
    No36191の(w)「現在化/準現在化/共現在化」の、〔・・・・〕で省略したなかに、
    A〔時間講義では原印象とともに現在を形づくる把持や予持は、厳密には現在化ではないが準現在化とも区別されており、共現前化と規定されうる(ヘルト)。〕
    っていうのもあって、たぶんこの(ヘルト)、っていうのもそうだと思う。

    ヘルトがなに言ってるんかはわたしにはよく分かんなかったんだけど、
    (3)では、
    〔ヘルトの批判は他者についての本源的意識を、他者を直接的に主題とする意識から、他者についての非主題的意識へと変更する。それによって〈省察する私〉の反省が直接及ばない段階、すなわち受動的構成の段階に共同主観の構成を位置づけるのである。しかしフッサールの他者経験の解明は静態的分析だけでなく、発生的分析を含むものであった。〕
    って小林さんは言ってる。
    あと、
    (6)にもヘルトが登場してて、
    〔ヘルトの主張する、フッサールにおける隠れた形而上学的前提としての「自我極と対象極」という批判は、妥当しない解釈であり、自我と対象の極化を定題化しうる発生的現象学の射程に注視せず、それを見落としした解釈である。〕
    って山口さんは言ってる。

    わたし、〔非対象化的・非主題的な次元で捉える〕っていうの、気になってるところ。

引用返信/返信 削除キー/
■37210 / inTopicNo.20)  Re[13]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/04/29(Mon) 10:59:11)
    No37209は、
    No37109の(3)(5)(6)を読んでて、ちょっと思ったの。

    ここからは資料(3)(5)(6)を読んでての感想になるかな。

    フッサール現象学の研究者たちの「論」なのかな。なんかわたしには難しく書かれてる感じ。
    わたしのお喋りは「論」じゃなくて、〈こんな感じ〜〉っていうの。
    で、わたしに思われた全体的な感じを書いて見ると、

    フッサールの『イデーンT』『イデーンU』『ベルナウ草稿』っていうのが出て来るんだけど、わたしこれ読んでないからよく分かんなかった。いまのところこれ読む予定ないけどね。わたしがフッサールので読んでるのは【フッサール著『デカルト的省察』1931浜渦辰二訳岩波書店2001】だけ。

    フッサールの「他我経験」とか「発生的現象学」を問題としてるのかな?
    フッサールの思考の過程を辿りながら、「受動的綜合」や、「純粋自我」、その「発生」についてなのかな?
    なんか雰囲気的に、『ベルナウ草稿』あたりからフッサールはフッサールの「能動的総合」〈省察する私〉とか〈現象学する自我〉から「受動的総合」の方に志向していった、みたいなことが書かれてある感じ。

引用返信/返信 削除キー/
■37209 / inTopicNo.21)  Re[12]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/04/29(Mon) 09:31:38)
    きょうもわたしんとこいい天気、気分もいい。この季節がいちばんいいのかも。

    No37202 のつづき

    フッサールは、意識の綜合の働きを「受動的総合」(a)と「能動的総合」(b)に分けて見てるんだと思う。
    わたしのばあい、(a)は、感覚-知覚、最近は想像もここに入れてる。(b)は思考の領域って見て、(a)を〈感知性〉(b)を〈考知性〉って呼んでる。

    「自覚」、「覚知」、「覚起」、「覚醒」って、〈感知性〉の「感覚」とか「知覚」みたいに、み〜んな「覚」っていう語が使われてる。
    (これって、日本語で見てるから、外人さんには関係ない話しだけど)
    で、
    〈感性〉における〈知〉のばあい、こういう語を使うことにしよっかな、って。
    逆に、現象学ののについて書かれてあるのを読むとき、「覚」っていう語が使われてるときには、〈感知性〉の領域について話ししてるんかな、って見るようにして見る、っていうこと。

    これと区別するために、〈考知性(思考)〉での〈知〉のことを〈認知〉ってしようかな〜、って思ったりもしてる。
    〈認知〉の〈認〉は〈認識=物事を正しく理解し判断する〉っていう意味でね。
    No36141の日本大百科全書の中では「知解」って呼んでるのかな?

    (a)について話してるのか、(b)について話してるのか、分かりやすくするために、「用語」で区別して見た、っていうことね。

引用返信/返信 削除キー/
■37205 / inTopicNo.22)  Re[11]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/04/28(Sun) 19:22:25)
    そこはかとなく、

    仏教とかキリスト教って、

    むか〜しむか〜し、生きていたある人によって〈”考え”られたもの〉のひとつなんじゃないかしら?って。


引用返信/返信 削除キー/
■37202 / inTopicNo.23)  Re[10]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/04/28(Sun) 16:42:29)
    なんか気になった語があって、

    No36141の日本大百科全書の中に、「覚知」、
    No15273の「連合」の中に、「覚起」、
    って言うのあった。
    そして、いま読んでる、
    No37109の(5)(6)の中にも「覚起」っていうのあったり、あと「自覚」、「覚醒」って言うのもあったのね。

    これらの語、ネットで調べたら、

    (a)「覚知」
    精選版 日本国語大辞典
    迷いを脱して真理をつかむこと。また、事情をよく理解すること。気がつかなかったことに気づくこと。

    (b)「覚起」
    (5)と(6)が出てきたんだけど、事典的なのが見つからなかった。

    (c)「自覚」
    精選版 日本国語大辞典
    @ 仏語。三覚(さんかく)の一つ。自ら迷いを断って悟りをひらくこと。⇔覚他。〔性霊集‐七(835頃)〕
    A 哲学、心理学で、自我や自分の行為を意識すること。自分のもっている知識が真理かどうかを反省し、吟味すること。自分をはっきりつかむこと。また、一般に、自分自身の置かれている状態や、能力、価値、使命などを認識すること。自己意識。〔哲学字彙(1881)〕 〔新唐書‐魏徴〕
    B 自分の知覚でとらえること。

    (d)「覚醒」
    小学館デジタル大辞泉
    1 目を覚ますこと。目が覚めること。「昏睡状態から覚醒する」
    2 迷いからさめ、過ちに気づくこと。

    みたい。

    つづく

引用返信/返信 削除キー/
■37199 / inTopicNo.24)  Re[9]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/04/28(Sun) 12:57:24)
    【フッサール著『デカルト的省察』1931浜渦辰二訳岩波書店2001】読んでて分かんなかったフッサールの言う「超越論的」とか「モナド」っていうの、
    No37157と、
    No37183で、
    だいたい感じがつかめてきた感じ。
    あと、
    No37189で、「現象学的還元」の意味、わたしに確認できた。

    なんか、わたしの今の物語り、pipitさまの「純粋理性批判を読んでみる」みたいに、「フッサール現象学を読んで見る」みたいになってるかな。

    この連休中に、
    No37109の、
    資料(3)(5)(6)のを見ながら、(1)、わたしに思われたの、感想文、できるだけ書き留めとくことにする。

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