TOP HELP 新着記事 ツリー表示 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

ツリー一括表示

Nomal つれづれなるままに 14 /パニチェ (24/04/13(Sat) 21:32) #37111
Nomal Re[1]: つれづれなるままに 14 /悪魔ちゃん (24/04/20(Sat) 18:01) #37155
  └Nomal Re[2]: つれづれなるままに 14 /悪魔ちゃん (24/04/20(Sat) 19:34) #37157
    └Nomal Re[3]: つれづれなるままに 14 /悪魔ちゃん (24/04/26(Fri) 19:15) #37183
      └Nomal Re[4]: つれづれなるままに 14 /悪魔ちゃん (24/04/26(Fri) 21:21) #37185
        └Nomal Re[5]: つれづれなるままに 14 /悪魔ちゃん (24/04/27(Sat) 17:28) #37187
          └Nomal Re[6]: つれづれなるままに 14 /悪魔ちゃん (24/04/27(Sat) 17:33) #37188
            └Nomal Re[7]: つれづれなるままに 14 /悪魔ちゃん (24/04/27(Sat) 18:14) #37189
              └Nomal Re[8]: つれづれなるままに 14 /悪魔ちゃん (24/04/27(Sat) 18:29) #37190
                └Nomal Re[9]: つれづれなるままに 14 /悪魔ちゃん (24/04/28(Sun) 12:57) #37199
                  └Nomal Re[10]: つれづれなるままに 14 /悪魔ちゃん (24/04/28(Sun) 16:42) #37202
                    └Nomal Re[11]: つれづれなるままに 14 /悪魔ちゃん (24/04/28(Sun) 19:22) #37205
                      └Nomal Re[12]: つれづれなるままに 14 /悪魔ちゃん (24/04/29(Mon) 09:31) #37209
                        └Nomal Re[13]: つれづれなるままに 14 /悪魔ちゃん (24/04/29(Mon) 10:59) #37210
                          └Nomal Re[14]: つれづれなるままに 14 /悪魔ちゃん (24/04/29(Mon) 12:05) #37211
                            └Nomal Re[15]: つれづれなるままに 14 /悪魔ちゃん (24/04/29(Mon) 13:37) #37212
                              └Nomal Re[16]: つれづれなるままに 14 /悪魔ちゃん (24/04/30(Tue) 19:01) #37217
                                └Nomal Re[17]: つれづれなるままに 14 /悪魔ちゃん (24/05/03(Fri) 17:21) #37231
                                  └Nomal Re[18]: つれづれなるままに 14 /悪魔ちゃん (24/05/03(Fri) 20:00) #37232
                                    └Nomal Re[19]: つれづれなるままに 14 /悪魔ちゃん (24/05/03(Fri) 20:08) #37233
                                      └Nomal Re[20]: つれづれなるままに 14 /悪魔ちゃん (24/05/04(Sat) 10:41) #37236
                                        └Nomal Re[21]: つれづれなるままに 14 /悪魔ちゃん (24/05/04(Sat) 14:17) #37237
                                          └Nomal Re[22]: つれづれなるままに 14 /悪魔ちゃん (24/05/04(Sat) 15:54) #37238
                                            └Nomal Re[23]: つれづれなるままに 14 /悪魔ちゃん (24/05/04(Sat) 18:43) #37239
                                              └New Re[24]: つれづれなるままに 14 /悪魔ちゃん (24/05/10(Fri) 18:33) #37276
                                                └New Re[25]: つれづれなるままに 14 /悪魔ちゃん (24/05/10(Fri) 20:11) #37278
                                                  └New Re[26]: つれづれなるままに 14 /悪魔ちゃん (24/05/11(Sat) 15:55) #37281
                                                    └New Re[27]: つれづれなるままに 14 /悪魔ちゃん (24/05/11(Sat) 16:04) #37282
                                                      └New Re[28]: つれづれなるままに 14 /悪魔ちゃん (24/05/12(Sun) 09:09) #37286
                                                        └New Re[29]: つれづれなるままに 14 /悪魔ちゃん (24/05/12(Sun) 09:17) #37287
                                                          └New Re[30]: つれづれなるままに 14 /悪魔ちゃん (24/05/12(Sun) 11:00) #37289
                                                            └New Re[31]: つれづれなるままに 14 /悪魔ちゃん (24/05/14(Tue) 19:44) #37298
                                                              └New Re[32]: つれづれなるままに 14 /悪魔ちゃん (24/05/16(Thu) 18:50) #37310


親記事 / ▼[ 37155 ]
■37111 / 親階層)  つれづれなるままに 14
□投稿者/ パニチェ -(2024/04/13(Sat) 21:32:50)
    トピ主:悪魔ちゃん



    引き続きよろしくお願いします
[ □ Tree ] 返信/引用返信 削除キー/

▲[ 37111 ] / ▼[ 37157 ]
■37155 / 1階層)  Re[1]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/04/20(Sat) 18:01:06)
    パニさん、ありがとございま〜す。

    わたしまだお喋りしたいことあるみたいなので、またここ使わせてもらいま〜す。
[ 親 37111 / □ Tree ] 返信/引用返信 削除キー/

▲[ 37155 ] / ▼[ 37183 ]
■37157 / 2階層)  Re[2]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/04/20(Sat) 19:34:01)
    きょうは切りのいいところまで書いとこっと。

    いま、フッサールが使う用語とその意味を分かろうとしてるところ(もっとも日訳ので、だけど)。
    哲学者によってその用語の使い方(意味)が異なってる感じしてるから。

    No37154、カントの、なんか、めんどくさそう(pipitさまやうましかさんが“沼”って言ってるの、なんかわかるわ〜)なんだけど、
    カントの用語を簡単に見ちゃうと、
    ・@「純粋」≒「経験的ではない」≒「アプリオリ」
    ・A「経験的なもの」≒「アポステリオリ」
    ・B「超越論的」=「経験的な混入物がない」ことではなく、「経験的な混入物がない」にもかかわらず経験に適用されるのはなぜか、という問いの全体にかかわること。
    こういう感じになるかな。

    こういうのをふまえて、フッサールのを見て見た。

    【フッサール著『デカルト的省察』1931浜渦辰二訳岩波書店2001】の中に、
    (a)『すべての推論の過程には必然的に、純粋な我に内在的で「生まれつき備わっている」原理を手引きにして行われることになる。』(p21)
    ってあって、この「生まれつき備わっている」っていうのを「アプリオリ」ってして、わたし見た。
    「誰かに教わったわけじゃないのに自然と」みたいな?
    ほら、1歳ぐらいになると、“自然と”立てるようになるじゃん、これって誰かに立ち方を教わったわけじゃないのに。
    こんな感じの。
    でね、
    フッサールの、
    ・C「超越論的」=「純粋」=「アプリオリ」=「経験的ではない」=「生まれつき備わっている」
    ってして見した。
    中島さんが言うような、カントのBのような「超越論的」の意味じゃなくて。

    フッサールの言う「超越論的」っていうのはこんな感じので使ってる、って見とくことにした。

    あと、(a)に、「推論」ってあるけど、これ、〈考知性(思考)〉の領域で行われてること、ってわたし見てる。
    No15221の(FD-7)あるような、
    【それは或る種の類似にもとづく統覚という把握の働きであろうが、だからと言って、それは類推〔類比推理〕なのではない。ここで言う統覚とは推理ではないし、思考作用でもない。…】
    みたいなのから。

    Cのような、「生まれつき備わっている」ものを見ようとするとき、
    No27553にあるような、
    【モーリス・メルロ=ポンティ著 『知覚の現象学』1945中島盛夫訳法政大学出版局2009】にあった、
    【言葉のざわめきの下の原初的な沈黙を再発見しない限り、そしてその沈黙をやぶる身振りを描き出さない限り、われわれの人間考察はいつまでたっても表面的なものにとどまるだろう。】(p305)
    っていう、「幼少の頃に遡ってそのうちで(外からじゃなくて)見る」のが現象学的還元っていう方法なのかも。

[ 親 37111 / □ Tree ] 返信/引用返信 削除キー/

▲[ 37157 ] / ▼[ 37185 ]
■37183 / 3階層)  Re[3]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/04/26(Fri) 19:15:42)
    No37151のつづき、
    わたしがわかんなかった、フッサールの言う「モナド」ね。これってライプニッツが使ってたみたいで、前にネットでいろいろ見たんだけどよく分かんなかったんだけど、

    No37109の(4)に、
    フッサールの「モナド」概念、ってあって、その中から簡単に書き出して見ると、
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    ・@フッサールによれば、「モナド」とは「全き具体化において受け取られたエゴ」(Hua T,102)、「具体的で純粋な主観性」(Hua\,216)である。つまり「モナド」とは、最も具体的な自我を表す概念である。「具体的」とはどういうことか。それは「繋がりのあったものを抽象的に切り取ることはしない」ということである。
    ・Aフッサールは「主観的」と呼ばれる経験が、そのまま「客観的」と呼ばれる「対象そのもの」と地続きであると、考えている。
    ・Bそこで「モナド」という語は、ある種の媒介的な相関そのものを言い表す語として用いられている。主体的な働きだけでなもなく、対象的な収斂点だけでもなく、それらが不可分に媒介し合う相関の出来事そのものが、「モナド」と呼ばれるのである。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    ってあった。(4)からはここんとこだけ抽出。

    「媒介」って言うのをネットで調べてら、実用日本語表現辞典に
    〔媒介(ばいかい)とは、二つ以上の事物や現象が互いに関連付けられるための中間的な存在を指す言葉である。〕
    ってあった。

    簡単に見て、
    フッサールの言う「モナド」っていうの、〈具体的な、生まれつき備わってる、ななかだちする場〉、ってひとまず見ることにした。
    この〈場〉っていうのは意識のなかにあるもののことを言ってるんだとわたし見てるから、〈領域〉とか〈領分〉って言ってもいいかな。

[ 親 37111 / □ Tree ] 返信/引用返信 削除キー/

▲[ 37183 ] / ▼[ 37187 ]
■37185 / 4階層)  Re[4]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/04/26(Fri) 21:21:36)
    〈考知性〉に価値を持ってる人は〈感知性〉には志向しないのかも?
    たとえそれに志向したとしても、マジで知ろうとはしないのかも?
    どうしてか、っていうと、自分の〈考知性〉への価値がカオスになるって、無意識的に”感じてる”からかも?

    こんなことすら思い出せない知性の持ち主となって生きる人たちの知識は、プアーとしか言いようがないかも?

    ん〜ん、典型的な例としては、日本の国会議員ちゃんたちや、そのフンのマスちゃんたちなかな?

    こんな無能な人たちによって「この私」の生の在り方を決められるのは、な〜んか、不快。

    日本国では自殺者が多いみたいだけど、なんか分かる気がする。
[ 親 37111 / □ Tree ] 返信/引用返信 削除キー/

▲[ 37185 ] / ▼[ 37188 ]
■37187 / 5階層)  Re[5]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/04/27(Sat) 17:28:42)
    国会議員ちゃんやマスちゃんをめっちゃ褒めてみたんだけど‥‥
    わたしの言ってること理解できる頭もってないと思うから、
    なんかつまんないこと書いちゃったみたい。

    わたしの物語りつづけよっと。

    しばらく今回の資料、何言ってるかずーっと読んで見てた。
    なんかお喋りできそうになったので。
[ 親 37111 / □ Tree ] 返信/引用返信 削除キー/

▲[ 37187 ] / ▼[ 37189 ]
■37188 / 6階層)  Re[6]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/04/27(Sat) 17:33:49)
    No37157で、フッサールの言う「超越論的」っていうの、わたしのなかで、こんな感じの、っていうのができたんだけど、

    たとえば、【フッサール著『デカルト的省察』1931浜渦辰二訳岩波書店2001】の第50節の書き始めに、

    『原初的な領分の定義と分節化という、超越論的には非常に重要な前段階がすでに片付いてしまったので、次には、客観的な世界の構成に向かう前途の歩みのうちの第一の歩み、すなわち「他者」への歩みに進むことになるが、ここでの本来の、しかも実際に少なからぬ困難とぶつかることになる。その困難とは、他者がまだ人間という意味を獲得していない意味での他者経験を、超越論的に解明することにある。』(p195)

    ってあるけど、ここに出て来る『超越論的』を、わたしのばあい、
    〈生まれつき備わってる〉っていうふうに言いかえて見ることにしたのね。

    『他者がまだ人間という意味を獲得していない意味での』
    っていうの、
    「現象学的還元」してるなかで、ってわたし見たのね。
    現象学でいう還元っていうの、〈乳幼のころに遡って、そのうちで見る〉、って、メルポンの言う『言葉のざわめきの下』ね。

    こういうなかでは、まだ、「他者」とか「人間」とかいう“語が使えない”(獲得してない)から、それをどう言葉で表現したらいいか、が難しところよね〜。

    この節のなかでは、「私自身」のことを「唯一性をもった心理物理的統一体」とか言い表してたり、
    No15221にあるように、「或る物体」とか「そこにある物体」っていうふうに言い表してて、これ、〈他者の身体〉のことを言ってるんだとわたし見てるんだけど、まだ「他者」とか「身体」っていう語が使えないからこういう言い方になってるんだと思う。

    あと、
    「原初的領分」ってあるけど、たぶん〈意識の〉だと思う。
    ちなみにわたしのばあい、このような領分が意識にはある、って想定して見てて、〈意識の原初自然的な固有領域〉ってして、〈自〉って名づけてる。

[ 親 37111 / □ Tree ] 返信/引用返信 削除キー/

▲[ 37188 ] / ▼[ 37190 ]
■37189 / 7階層)  Re[7]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/04/27(Sat) 18:14:45)
    わたしの物語り、感想文なんだな〜って、思う。わたしの感性による想像の文ね。

    No37157
    No37188で、ちょっと触れた、
    「現象学的還元」っていうの、メルポンの言う『言葉のざわめきの下』、〈乳幼のころに遡って、そのうちで見る〉っていう方法、フッサールもそういうの見てたみたいなのね。っていうか〜、それに倣ってなのかもだけど。

    たとえばね、
    No11393の@の中に、
    【・・・すでに物が見えている子供は、例えばハサミの使い方を初めて理解した後では、一目で直ちにハサミをハサミとして見るようになる。・・・】
    みたいに、子どものころの、を見てたりしてる。

    No37109の資料の(6)の中にも乳幼のころに遡って見てる、みたいなのあったのでその部分を書き出して見るね。
    ・・・・・・・・・・・・・
    「…例えば、乳幼児における受動的キネステーゼの充実連関は、…」
    「…この乳幼児の未分化な差異化以前の共感覚からの、視覚野、聴覚野、キネステーゼの野等々の個々の感覚野の分岐派生による形成ないし、差異化のプロセスは、フッサールにおいて発生現象学で定題化されている。…」
    「…フッサールの発生的現象学では、衝動志向性を通しての母と子の間身体的原コミュニケーションが、周到に分析され、現象学的に根拠づけることは、十分に可能なのである。そこでは、身体中心化の分析が二段階に分けて考察されている。…」
    「…このプロセスは、幼児の喃語と母親のその模倣の事例において、…」
    ・・・・・・・・・・・・・

    やっぱ、現象学ではあのころに遡って見てるじゃないかな〜?って。こういうのって、「私」の発生につながってくる気がしてる。

    ちなみに「キネステーゼ」っていうの、【「現象学事典」弘文堂2014】に、
    ・・・・・・・・・
    キネステーゼ[〔独〕Kinästhese] (p89)
    「キネステーゼ」は、ギリシャ語のキネーシス〔運動〕(κίνησις)とアイステーシス〔感覚〕(αΐσθησις)とから合成された述語で、それを直訳してドイツ語でBewegungsempfindungと表示されることもある。フッサールでは、1907年のいわゆる「物」講義(『物よ空間』)や『受動的綜合の分析』、『危機』などで論じられているもので、通常その言葉から想像されるような「運動の感覚」を意味するのではなくて、むしろ運動と感覚との不可分な結合、ないしは運動としての知覚を意味する。・・・
    ・・・・・・・・・
    ってあったよ。

[ 親 37111 / □ Tree ] 返信/引用返信 削除キー/

▲[ 37189 ] / ▼[ 37199 ]
■37190 / 8階層)  Re[8]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/04/27(Sat) 18:29:13)
    日本的には連休に入ったよ。
    わたしもその一人。
[ 親 37111 / □ Tree ] 返信/引用返信 削除キー/

▲[ 37190 ] / ▼[ 37202 ]
■37199 / 9階層)  Re[9]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/04/28(Sun) 12:57:24)
    【フッサール著『デカルト的省察』1931浜渦辰二訳岩波書店2001】読んでて分かんなかったフッサールの言う「超越論的」とか「モナド」っていうの、
    No37157と、
    No37183で、
    だいたい感じがつかめてきた感じ。
    あと、
    No37189で、「現象学的還元」の意味、わたしに確認できた。

    なんか、わたしの今の物語り、pipitさまの「純粋理性批判を読んでみる」みたいに、「フッサール現象学を読んで見る」みたいになってるかな。

    この連休中に、
    No37109の、
    資料(3)(5)(6)のを見ながら、(1)、わたしに思われたの、感想文、できるだけ書き留めとくことにする。

[ 親 37111 / □ Tree ] 返信/引用返信 削除キー/

▲[ 37199 ] / ▼[ 37205 ]
■37202 / 10階層)  Re[10]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/04/28(Sun) 16:42:29)
    なんか気になった語があって、

    No36141の日本大百科全書の中に、「覚知」、
    No15273の「連合」の中に、「覚起」、
    って言うのあった。
    そして、いま読んでる、
    No37109の(5)(6)の中にも「覚起」っていうのあったり、あと「自覚」、「覚醒」って言うのもあったのね。

    これらの語、ネットで調べたら、

    (a)「覚知」
    精選版 日本国語大辞典
    迷いを脱して真理をつかむこと。また、事情をよく理解すること。気がつかなかったことに気づくこと。

    (b)「覚起」
    (5)と(6)が出てきたんだけど、事典的なのが見つからなかった。

    (c)「自覚」
    精選版 日本国語大辞典
    @ 仏語。三覚(さんかく)の一つ。自ら迷いを断って悟りをひらくこと。⇔覚他。〔性霊集‐七(835頃)〕
    A 哲学、心理学で、自我や自分の行為を意識すること。自分のもっている知識が真理かどうかを反省し、吟味すること。自分をはっきりつかむこと。また、一般に、自分自身の置かれている状態や、能力、価値、使命などを認識すること。自己意識。〔哲学字彙(1881)〕 〔新唐書‐魏徴〕
    B 自分の知覚でとらえること。

    (d)「覚醒」
    小学館デジタル大辞泉
    1 目を覚ますこと。目が覚めること。「昏睡状態から覚醒する」
    2 迷いからさめ、過ちに気づくこと。

    みたい。

    つづく

[ 親 37111 / □ Tree ] 返信/引用返信 削除キー/

▲[ 37202 ] / ▼[ 37209 ]
■37205 / 11階層)  Re[11]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/04/28(Sun) 19:22:25)
    そこはかとなく、

    仏教とかキリスト教って、

    むか〜しむか〜し、生きていたある人によって〈”考え”られたもの〉のひとつなんじゃないかしら?って。


[ 親 37111 / □ Tree ] 返信/引用返信 削除キー/

▲[ 37205 ] / ▼[ 37210 ]
■37209 / 12階層)  Re[12]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/04/29(Mon) 09:31:38)
    きょうもわたしんとこいい天気、気分もいい。この季節がいちばんいいのかも。

    No37202 のつづき

    フッサールは、意識の綜合の働きを「受動的総合」(a)と「能動的総合」(b)に分けて見てるんだと思う。
    わたしのばあい、(a)は、感覚-知覚、最近は想像もここに入れてる。(b)は思考の領域って見て、(a)を〈感知性〉(b)を〈考知性〉って呼んでる。

    「自覚」、「覚知」、「覚起」、「覚醒」って、〈感知性〉の「感覚」とか「知覚」みたいに、み〜んな「覚」っていう語が使われてる。
    (これって、日本語で見てるから、外人さんには関係ない話しだけど)
    で、
    〈感性〉における〈知〉のばあい、こういう語を使うことにしよっかな、って。
    逆に、現象学ののについて書かれてあるのを読むとき、「覚」っていう語が使われてるときには、〈感知性〉の領域について話ししてるんかな、って見るようにして見る、っていうこと。

    これと区別するために、〈考知性(思考)〉での〈知〉のことを〈認知〉ってしようかな〜、って思ったりもしてる。
    〈認知〉の〈認〉は〈認識=物事を正しく理解し判断する〉っていう意味でね。
    No36141の日本大百科全書の中では「知解」って呼んでるのかな?

    (a)について話してるのか、(b)について話してるのか、分かりやすくするために、「用語」で区別して見た、っていうことね。

[ 親 37111 / □ Tree ] 返信/引用返信 削除キー/

▲[ 37209 ] / ▼[ 37211 ]
■37210 / 13階層)  Re[13]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/04/29(Mon) 10:59:11)
    No37209は、
    No37109の(3)(5)(6)を読んでて、ちょっと思ったの。

    ここからは資料(3)(5)(6)を読んでての感想になるかな。

    フッサール現象学の研究者たちの「論」なのかな。なんかわたしには難しく書かれてる感じ。
    わたしのお喋りは「論」じゃなくて、〈こんな感じ〜〉っていうの。
    で、わたしに思われた全体的な感じを書いて見ると、

    フッサールの『イデーンT』『イデーンU』『ベルナウ草稿』っていうのが出て来るんだけど、わたしこれ読んでないからよく分かんなかった。いまのところこれ読む予定ないけどね。わたしがフッサールので読んでるのは【フッサール著『デカルト的省察』1931浜渦辰二訳岩波書店2001】だけ。

    フッサールの「他我経験」とか「発生的現象学」を問題としてるのかな?
    フッサールの思考の過程を辿りながら、「受動的綜合」や、「純粋自我」、その「発生」についてなのかな?
    なんか雰囲気的に、『ベルナウ草稿』あたりからフッサールはフッサールの「能動的総合」〈省察する私〉とか〈現象学する自我〉から「受動的総合」の方に志向していった、みたいなことが書かれてある感じ。

[ 親 37111 / □ Tree ] 返信/引用返信 削除キー/

▲[ 37210 ] / ▼[ 37212 ]
■37211 / 14階層)  Re[14]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/04/29(Mon) 12:05:53)
    No37210 のつづき、

    特にわたしに関心があったのが(3)。
    (3)について、とりあえず思いつくままに書くね。

    〔はじめに
    他我経験の解明にあたり、フッサールが他者に対置されるべき「私」をどのように理解していたのかを明らかにし、他者経験の問題を受動的綜合の問題として再提起し直すこと、これが本論の目的である。〕
    ってある。

    「他者」とか「他我」を問題とする前に「私」が問題じゃん、っていってるのかな?
    わたしのばあい、単純な語で、〈他〉と〈自〉ってしてる。
    あ、ここでのは、〈人〉のばあいの〈他〉と〈自〉ね。

    (3)に、「ヘルト」っていうのがでてくるんだけど、
    No15252 の「対化」(あ、これ、「ついか」って読むんだと思う、たぶん。何かと何かが「対(つい)になる」っていうこと)の中に、
    @〔フッサールを内在的に超えてゆく道として、他者経験をむしろ非対象化的・非主題的な次元で捉えるというK.ヘルトの構想に沿って、この対化の現象を手掛かりにして他者経験を受動的総合と発生的現象学において解明しようとする試みもある。〕
    ってあるんだけど、この〔K.ヘルトの構想〕っていうの、たぶんそう。
    あと、
    No36191の(w)「現在化/準現在化/共現在化」の、〔・・・・〕で省略したなかに、
    A〔時間講義では原印象とともに現在を形づくる把持や予持は、厳密には現在化ではないが準現在化とも区別されており、共現前化と規定されうる(ヘルト)。〕
    っていうのもあって、たぶんこの(ヘルト)、っていうのもそうだと思う。

    ヘルトがなに言ってるんかはわたしにはよく分かんなかったんだけど、
    (3)では、
    〔ヘルトの批判は他者についての本源的意識を、他者を直接的に主題とする意識から、他者についての非主題的意識へと変更する。それによって〈省察する私〉の反省が直接及ばない段階、すなわち受動的構成の段階に共同主観の構成を位置づけるのである。しかしフッサールの他者経験の解明は静態的分析だけでなく、発生的分析を含むものであった。〕
    って小林さんは言ってる。
    あと、
    (6)にもヘルトが登場してて、
    〔ヘルトの主張する、フッサールにおける隠れた形而上学的前提としての「自我極と対象極」という批判は、妥当しない解釈であり、自我と対象の極化を定題化しうる発生的現象学の射程に注視せず、それを見落としした解釈である。〕
    って山口さんは言ってる。

    わたし、〔非対象化的・非主題的な次元で捉える〕っていうの、気になってるところ。

[ 親 37111 / □ Tree ] 返信/引用返信 削除キー/

▲[ 37211 ] / ▼[ 37217 ]
■37212 / 15階層)  Re[15]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/04/29(Mon) 13:37:01)
    今日はいっぱいお喋りしちゃう。

    No37211のつづき

    No37109の(3)では、
    〔フッサールが他者に対置されるべき「私」をどのように理解していたのか〕っていう、「私」を問題としてる感で、フッサールの「他我問題」やその発生を見ていく前に、ここんとこちゃんとしとこって。
    でね、
    資料の中かから「私」を探して見たのね。

    いろんな「私」、
    「私自身」(3)
    「この私」(3),(5)
    「自己」(3),(5),(6)
    「自我」(3),(6)
    「純粋自我」(3),(5),(6)
    「先-自我」(5),(6)
    「原-自我」(3),(5)

    カッコ内は資料番号ね(これ、探し出すの大変だったよ)。

    これらの語、どう区別して見とこっかな〜、って。

    つづく

[ 親 37111 / □ Tree ] 返信/引用返信 削除キー/

▲[ 37212 ] / ▼[ 37231 ]
■37217 / 16階層)  Re[16]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/04/30(Tue) 19:01:02)
    昨日はわたしの物語りの原稿、展開について考えてて、疲れちゃて寝ちゃった。

    No37212のつづき
    No37109のなかから、外国語の,あったのを、いくつか抜き出して見るよ。

    資料(3)に、
    @「私・自我(Ich)」
    A「純粋自我(reines Ich)」
    資料(3),(5)に、
    B「原-自我(Ur-Ich)」
    資料(5)に、
    C「先-自我(Vor-Ich)」
    ってあった。
    カッコ内の外国語はドイツ語みたい。

    ネットで調べて見たんだけど、簡単に、

    Aの[reines]、( reines – 日本語への翻訳 – ドイツ語の例文 | Reverso Context)
    (独)reines:純粋な。

    Bの[Ur-]、(プログレッシブ 独和辞典)
    ・非常に… 
    ・((名詞・形容詞と)) 原初の…,根源的な…
    ・((名詞と)) 最初の…
    ・(血縁関係で)一代前の…,一代後の…
    ・古くからの…

    ・Cの[Vor-]、(プログレッシブ独和辞典)
    …より前に,…前に;((順序))…より先に

    ってあった。

    資料(3)では、
    「私」=「自我」=「Ich」って見てるのかな?

    でね、わたしのね。
    日本語で見みるんだけど、

    わたしのばあい、「私」っていうのと「自我」っていうのとは、区別してる。
    「私」っていうのはちょっと置いといて、
    ABCにはぜ〜んぶ、「自我」っていうのあるから、まず、「自我」っていうの中心に見てくことにして、「自我」っていうの、わたしのばあいどうしとこっかな〜、って。
    で、
    「自我」っていうの、「自」と「我」に分けて見て、
    「我」っていうのを、デカルトの「我考える」の「我」ってして見て、
    「自我」って言うのを、〈考えることをする自〉ってする。
    これから、
    「純粋自我」は、〈考えることする純粋な自〉
    「先-自我」は、〈考えることをする前の自〉、
    「原-自我」は、〈考えることをする原初の自〉、
    ってなる。
    こう見ると、「先-自我」も「原-自我」もだいたい同じようなものを指してる、ってして見る。

    これでひとまず「自我」っていうの、わたしのが出来たところで、
    もし、フッサールの「原-自我」って言うのを問題としてるんだとしたら、
    わたしのばあい、この〈自〉っていうのが問題になるのね。

    なんか〈自〉が浮き上がってきた感じしない?

    つづく



[ 親 37111 / □ Tree ] 返信/引用返信 削除キー/

▲[ 37217 ] / ▼[ 37232 ]
■37231 / 17階層)  Re[17]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/03(Fri) 17:21:34)
    連休も再開したことだし、わたしのお喋りも再開〜

    いまは、
    No37109のを読んでて、
    No37212に揚げたようないろんな「私」を見ようとしてるところ。
    あ、わたしのはフッサール現象学を正確に理解することじゃなくて、
    それを手引きとして、わたしのどうしとっこかな〜、っていうの。

    つぎに、「自己」っていうの、どう見とっこっかな、って。

    資料の中で、「自我」と「自己」をどう使い分けてるのか、いくつか探し出して見たよ。

    (3)に、
    「自己移入」「自己統覚」「自我の自己構成」「自己時間化」
    (5)に、
    「反省以前に自己感触が機能していた」「自我の自己感触」
    (6)に、
    「内的時間による自己構成」「自己自身」
    ってあるのね。

    たとえば、(3)の「自我の自己構成」みたいに、「自我」と「自己」は区別されてる。
    日本語で考えて見るんだけど、
    「自我」「自己」の区別は「我」と「己」の違い。
    で、いろいろ考えたんだけど、いまんとこ、
    資料の中での「己」っていうのを〈体〉ってして見て、
    「自己」≒〈自体〉ってして、見ようとしてる。
    こう見たとき、「私自身」となんか似てる感じだから、
    「自己」≒〈自体〉≒「私自身」ってして見ていくことにしたよ。

    「〈意識(精神)〉と〈身体〉」を表す語としてね。

    かなりむりやりな感じするけど‥‥ひとまず。

[ 親 37111 / □ Tree ] 返信/引用返信 削除キー/

▲[ 37231 ] / ▼[ 37233 ]
■37232 / 18階層)  Re[18]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/03(Fri) 20:00:08)
    そこはかとなく

    誰かに作り出された自分の価値っていうのあるかもね。
[ 親 37111 / □ Tree ] 返信/引用返信 削除キー/

▲[ 37232 ] / ▼[ 37236 ]
■37233 / 19階層)  Re[19]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/03(Fri) 20:08:02)
    今日はもうちょっと

    No37217で、「自我」、
    No37231で、「自己」(資料の中では、っていうことでね)、
    わたしの目安が出来たところで、

    資料の中をのぞいていって見る。

    No37109の(3)で、
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・
    〔現象学にとって他者が困難な問題となるのは、他者が他者についての私の経験として、〈省察する私〉の反省の俎上にのせられてしまい、〈省察する私〉そのものとの関係で問われることがないからである。フッサールは、『イデーンT』や『省察』において曖昧であった〈超越論的自我〉と〈省察する自我〉との関係に関して、『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(1954)において、徹底的に首尾一貫した判断中止について言及している。そこでフッサールは、これまで「私の」という人称的意味を密かに冠していた〈超越論的自我〉を「原自我(Ur-Ich)」と呼び、規定し直すのである。フッサールによれば、それは他に呼びようがないので曖昧なまま「私」と呼ばれていたが、それ固有の意味では、「私」という人称的意味をもたない自我極として規定されるものである。〕
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・
    ってある。

    〈超越論的自我〉、この〈超越論的〉っていうの、
    No37157で見たように、〈純粋〉とも言っていいのかな。
    簡単に見て、
    〈超越論的(純粋)自我〉って呼んでいたもの、後で「原自我(Ur-Ich)」って、言い変えた、っていうことなのかな。
    そして、このような「自我(原自我)」っていうの、どうやら、人称的意味の「私」っていうんじゃなくて、って、いうことなのかな。
    ってすると〜、資料(3)の、「私・自我(Ich)」っていうの、じゃないんじゃないの?ってわたし思うけど。

    ここに〈省察する自我〉ってあるけど、わたしの見方では〈省察する考えることをする自〉っていう言い方になるかな。
    そして、その前の(原初の)自、こういうのを、フッサールは「先-自我」とか「原-自我」って呼んだんじゃないかしら?

[ 親 37111 / □ Tree ] 返信/引用返信 削除キー/

▲[ 37233 ] / ▼[ 37237 ]
■37236 / 20階層)  Re[20]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/04(Sat) 10:41:29)
    きょうもお喋りしちゃうよ〜

    No37233のつづき

    いまの話題は、フッサールの言う「原-自我(Ur-Ich)」っていうの、どういうかな?ね。

    No37109の(5)のを少し。

    〔一般にフッサールの発生的現象学は、1920/21年に始まる「超越論的論理学」講義をもってその成立とされる。他方、発生的現象学という方法論の発見あるいは自覚と連動して、「自我」をめぐる思索もまた新たな深まりを見せた。『ベルナウ草稿』は「純粋自我」についての比較的まとまった新たな分析を含むことになった。〕
    ってある。
    わたしのばあい、
    ここにある「自覚」っていうのを、〈自に目覚める〉ってして見るのね。
    「自我」っていうのを、〈考えることする自〉ってして見るのね。
    「純粋自我」は、〈考えることする純粋な自〉ってして見る。
    こうみたとき、『ベルナウ草稿』あたりからフッサールの自我は、〈自〉への思索へ、って見ちゃったりして?

    〔純粋自我に関する限り、その原初的発生がそのまま時間的構成であるとは限らなない。〕
    〔以下の論考では、純粋自我の原初的発生と時間的構成が事柄として別ものであるという可能性に立脚しながら、問題を再構成しつつ、‥‥「内的時間意識」と「原-自我」との間の関係を規定し直すことで、フッサールが原-自我の発見とともに辿り着いた境位を明らかにしたい。〕
    っていうことみたいなんだけど、わたしにはよく分かんなかった。
    「内的時間意識」っていうの、【「現象学事典」弘文堂2014】のなかにあったけど、話がごちゃごちゃしてくるからここでは触れないよ。

    わたしがいちばん気になったのは、
    〔自我は「存在者ではなく、むしろ全ての存在者にとって対を成すもの(Gegenstück)」であり、「一つの対象ではなく、全ての対象性にとっての原象(Urstand)」であると言われる(Ibid.,S.277)。このような「原象」としての自我を、フッサールは便宜的に「原-自我(Ur-Ich)」(Ibid.S.286)と呼ぶ。この呼び名が便宜的である理由は、自我は「本来、自我と呼ばれるべきではなく」、「名無し(das Namenlose)」であるからだ(Ibid.S.277f.)。1931年のフッサールの草稿から引用すれば、「機能する自我は、それが機能しているときには匿名的」(Mat.V111,S.53,vgl.auch S.2,7,338)なのである。〕
    っていうところ。
    もうこうなると、「原-自我(Ur-Ich)」、「私(Ich)」、「自我(Ich)」――「私」、「自我」、「Ich」、もうごちゃごちゃになってる感じ。
    もし、「原-自我」っていうのが、人称的な「私(Ich?)」って言うのもでもなく、「自我」って言うでもないんだったら、こういう語を使わず、なんか“そのようなもの”に、別の名前をつけた方がいいんじゃない?って、わたし思うけどね。
    フッサールは、デカルトのやカントのをひきずっていたからかも?ね。

    資料(5)には、「原-自我(Ur-Ich)」、他にもっと書いてあったけどなんかめんどくさくなってきたから書き出すのやめとく。

    (5)からのはひとまずこれだけにしとく。

[ 親 37111 / □ Tree ] 返信/引用返信 削除キー/

▲[ 37236 ] / ▼[ 37238 ]
■37237 / 21階層)  Re[21]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/04(Sat) 14:17:12)
    No37109の資料のから見てるんだけど、
    No37236で(5)からのを少し書いたから、つぎに資料(6)のからのを少し書いとく。

    〔フッサールの発生現象学は、20年代からのフッサール現象学の展開を決定づけているが、その内容と方法は、いまだ明確になっていない。この領域は、次第に明らかになっていったという領域そのものの開示のプロセスをもつ。その際、最も重要な契機となったのが、時間構成の分析と、時間内容に重点を置いて深化した時間分析でもある、20年来展開した「受動的綜合の分析」である。この展開に関して興味深いことの一つに、最近公刊された、『時間意識についてのベルナウ草稿』執筆期である1917/18年に、受動的総合の分析の端緒が見出されうることである。〕

    って言うことみたい。

    これもフッサール現象学を研究している人の論みたいなんだけど、やっぱわたしには難しくてよく分かんなかった。

    (6)の中には「原-自我(Ur-Ich)」って言う語は出てきてないんだけど、「先-自我」っていうのが出てきてるところを書き出して見ると、

    ・・・・・・・・・・
    (a)〔間モナド的共同化の能動的な感情移入において、ある人格が他の人格に人格全体で向かうことによって「我と汝の合致」
    が生じうる。しかし、そこでは、自分自身の行動を客観視し、対象化する理論的で反省的態度は、決定的な役割をはたしてはいない。能動的間主観性を基づける受動的で先−自我的な間モナド的原コミュニケーションにおいては、いまだ自我極もそれに相関的な対象極も形成されてはいない。しかも、重要なのは、この能動的相互主観性の頂点に位置する「我と汝の合致」においては、形成ずみの自我極と対象極としての汝が消滅し、融合する、ということである。〕

    (b)〔原初的な流れる先−自我的で先−対象的な時間化において、形式と内容が不可分離に生じているのと同様に、主観的形式と客観的形式の不可分離性は、我と汝の合致にも妥当するのであり、そこでは他者性に帰属する具体的内容が、非対象的な他者性へと転化しているのである。〕

    (c)〔我と汝の合致の超越論的可能性は、対象化する主観と対象化された客観の亀裂の克服である。〕

    (d)〔我と汝の合致が、発生的現象学による、無意識的に働き、先−反省的で、先−言語的に働く自己中心化と身体中心化の発生の解明なしには、その達成が難しいのも当然であるといえよう。〕
    ・・・・・・・・・・

    これについてのわたしの感想は後で。

[ 親 37111 / □ Tree ] 返信/引用返信 削除キー/

▲[ 37237 ] / ▼[ 37239 ]
■37238 / 22階層)  Re[22]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/04(Sat) 15:54:52)
    No37237の感想ね。

    「先-自我的」、「間モナド的」、「先-対象的」、「先-反省的」、「先-言語的」ってあるんだけど、

    (a)の「先-自我的」っていうの、わたしのばあい、〈考えることする前の自〉って見るし、「先-反省的」の「反省」っていうのはたぶんデカルトのだと思うから、だいたい同じようなことなんだと思う。

    (b)にある、
    「間モナド的」は、
    No37183で見たように
    〈間にある、具体的な、生まれつき備わってる、ななかだちする領域的〉、ってなるんだけど、なんか分かりにくい。
    〔受動的で先-自我的な間モナド的原コミュニケーション〕ってあるから、
    〈受動的の領域で、考えることする前の自のような、なかだちする領域での原コミュニケーション、って見たらいいのかな?

    あと、「先-対象的」っていうの「非対象的な他者性」と関連してるようにも見えてて、これ、
    No37211で見たような、「対化」、「非対象化的・非主題化的」を想い出す。

    (d)の「先-言語的」からは、
    No35001の、
    〔フッサールは、この世界を前述語的と名づけ、それを現象学的記述の対象としている。〕みたいなのを想い出してる。

    「受動的総合」ってあるけど、次にちょっと書いとくことにする。

[ 親 37111 / □ Tree ] 返信/引用返信 削除キー/

▲[ 37238 ] / ▼[ 37276 ]
■37239 / 23階層)  Re[23]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/04(Sat) 18:43:55)
    No37238のつづき、
    【「現象学事典」弘文堂2014】にあったの、前にも一部書いたと思うけど、今回は全部書いとく。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    受動的総合/能動的総合 [(独)passive Synthesis/aktive Synthesis]
    フッサールにおいて総合は意識の原形式であり、その特徴は「流れ去る多様の統一」と規定される。サイコロという統一的対象の知覚は、どの側面から、どの距離で、どの光のもとで、見るか(さらには、どのように触れるかなど)に応じて変化する多様な現れ方を通して、その総合として成立する。この知覚したサイコロをのちに想起するときにも、かつて知覚したサイコロと同一のサイコロの想起であるという同一性の意識は総合にとってつくり出される。こうした個別的意識体験の総合が可能になのは、もともと意識生の全体が総合的に統一化されているからである。この普遍的総合の根本形式はすべてを包括する内的時間意識である。「能動的/受動的」という発生的現象学の基本概念は、以前から使用されていた「顕在的/潜在的」「主題/背景(地平)」などの対概念を力動化したものである。自我はいま見えているサイコロの面前を主題として顕在的に意識していると同時に、裏面を背景として潜在的に意識している。この区別の根拠は自我の関わり方の相違にある。「能動的/受動的」の区別も同様であり、能動的総合はとくに自我的な作用であるに対して、受動的総合は自我の関与なしにおのずから生じる。その点で、無意識の働きにも比せられる。
    能動的総合はすべて受動的総合を土台にして行われる。受動的総合の基底をなすのは内的時間意識による時間構成であり、キネステーゼによる空間構成とともに総合の形式条件を形成する。実質的条件をなすのは連合法則に従う布置形成である。布置形成によって図と地が分化し、地から浮き上がった図が自我を触発する。自我は図に注目して把握的に対向する。それが触発の受容であり、能動性の最低段階をなす。受動的総合と能動的総合の境界線はここに引かれる。把握する、解明する、関係づけるなどの低次の能動的総合を超えた、数える、述定するなどの高次の能動的総合においては、数や述定的事態がなどのイデア的対象が産出される。能動的総合は作用としてはまもなく過ぎ去るが、その成果は自我極に沈殿し、習慣として妥当しつづける。習慣は第二の受動性として、より高度の能動的総合の土台となる。したがって、すべての能動性に先立つ受動性と能動性に由来する受動性が区別される。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    ってある。

    わたしのばあい、
    「自我」を〈考えることする自〉ってしてて、「能動的総合」を〈考知性〉、「受動的総合」を〈感知性〉って言うことにしてるから、

    〔能動的総合はとくに自我的な作用であるに対して、受動的総合は自我の関与なしにおのずから生じる。その点で、無意識の働きにも比せられる。能動的総合はすべて受動的総合を土台にして行われる。〕
    の部分、わたし的に言うと、
    《〈考知性〉はとくに〈考えることする自〉的な作用であるに対して、〈感知性〉は〈考えることする自〉の関与なしに〈自ずから〉生じる。その点で、無意識の働きにも比せられる。〈考知性〉はすべて〈感知性〉を土台にして行われる。》
    ってなる。
    〔おのずから〕を〈自ずから〉ってして見たよ。

    ここに出てくる、「内的時間意識」、「触発」、「自我極」っていうの、今回の資料にも出てくるんだけど。
    「キネステーゼ」っていうのは、
    No37189でちょっと書いた。

    現象学に関心がに人にはどうでもいい話しなんだけどね。

[ 親 37111 / □ Tree ] 返信/引用返信 削除キー/

▲[ 37239 ] / ▼[ 37278 ]
■37276 / 24階層)  Re[24]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/10(Fri) 18:33:11)
    No37239は後でわたしのお喋りのなかで、またでてくるかも、っていうことで書いとくことにしたのね。

    フッサールが見てるような、
    〔能動的総合はすべて受動的総合を土台にして行われる。〕
    ここ、問題となるとこかも?

    わたしのつぎの話題、「他者経験」についてなんだけど、しばらく『デカルト的省察』を読み返してて、わたしの見方がだいたいできてきから、後で書くね。

[ 親 37111 / □ Tree ] 返信/引用返信 削除キー/

▲[ 37276 ] / ▼[ 37281 ]
■37278 / 25階層)  Re[25]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/10(Fri) 20:11:21)
    「既存」ってあるよね。
    その既存のなかで「生きのびる」っていうのあるよね。

[ 親 37111 / □ Tree ] 返信/引用返信 削除キー/

▲[ 37278 ] / ▼[ 37282 ]
■37281 / 26階層)  Re[26]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/11(Sat) 15:55:29)
    な〜んかいろいろお喋りしてきたけど、
    No37109の資料の中に出て来る「私」にまつわる語についての、わたしのだいたいできたところで、

    つぎに、フッサールの言う「他者経験」について見てくことにするよ。

    あ、その前に、わたしの、ちょっと書いとく。
    「私」っていう語に対しては、「他者」って言う語を使うことにした。
    「他人」でもいいんだけど、そうすると「私人」ってしなくちゃだから、ひょっとヘンな感じだし。
    あと、「他者」って言うの、一般には「私」に対して「他の人」のこと、だから、「人」のことを指す語ね。
    「他者」は、広い意味で、私の外にあるものすべてのもの、たとえば、「ヒト科」に対して「他の動植物(たとえばイヌやネコや草木)」や、「物体(たとえば石や包丁)」っていうのも指すばあいも考えられるんだけど、これはそういうのはちょっと横に置いとくことにする。

    「他我」っていうのあるけど、これ〈他者の考える我〉ってしわたし見るから、ようするに他者の意識のなかのことを言い表している、ってして見てる。だからわたしのばあい、「他者」と「他我」はちょっと違うく見てる。
    「私」とか「他者」っていう語は、〈意識(精神)〉と〈身体〉の両方を指していて、「他我」っていうのは、意識(とくに考えることする意識の領域)の方だけを指してる、ってして見てる。

    「他我問題」って言うのあるみたい。
    改訂新版 世界大百科事典 からのをちょっと書いて見るね。
    ・・・・・・・・・・・・・・・
    〈他人の心〉をいかにしてわれわれは知りうるかという哲学的問題。例えば,友人と赤の交通信号を見る。そのとき私と友人の赤の感覚は同じだろうか違うだろうか。あるいは,友人はそもそも何かの色を感じているのだろうか。それを直接にテストする方法はありえない。私は友人ではないからである。しかし間接的方法ならある,というのがこの〈他我問題〉での類推説である。・・・・
    ・・・・・・・・・・・・・・・
    ってある。なんか難しそうだけど、わたし見たのは、
    私の心や〈他人の心〉は存在する、これ前提となってて、でも、それを知ることができるの?とか、「それ」の私の感じと他人の感じは同じ?みたな問題なんだと思う。

    「独我論」っていうのあるみたい。
    精選版 日本国語大辞典 に、
    ・・・・・・・・・・・・・・・
    〘名〙 (solipsism の訳語) 自我とその意識だけが実在し、いっさいのものは、自我の意識のなかに存在するにすぎないとする立場。独在論。唯我論。
    ・・・・・・・・・・・・・・・
    ってあった。
    「独我主義」、これって人によってその捉え方が違うのかもしれないけど、この解説からだでけで見たわたしのは、
    「自我」を〈考えることする自〉ってしてるから、
    〈考えることする自〉とその意識(考えることする領域の意識)だけがが実在し、いっさいのものは、〈考えることする自〉の領域という意識のなかに存在するにすぎないとする立場。〉
    っていうことになるのね。

    いづれにしても、「他我問題」や「独我論」は、意識についてのお話しだと思うんだけど、フッサールの「他者経験」っていうのは意識だけじゃなくて身体も含めて「他者」って言うふうにわたし見てる。

[ 親 37111 / □ Tree ] 返信/引用返信 削除キー/

▲[ 37281 ] / ▼[ 37286 ]
■37282 / 27階層)  Re[27]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/11(Sat) 16:04:46)
    No37281で見たように、
    わたしの語の使い分けや、フッサールの言う「他者経験」と「他我問題」や「独我論」とをごちゃまぜにしないように、気をつけたところ。
    で、
    「他者経験」について、なんだけど、
    これについては、【フッサール著『デカルト的省察』1931浜渦辰二訳岩波書店2001】の、第50節、第51節、第52節のところを読み返していた。

    次からは、ここんところからわたしが抜粋したところをまず書いて、そのあと、それらのわたしの見方を書いてくことにするね。

    ちなみに、ちょっと書いとくと、
    第五省察 超越論的な存在の場をモナドの間主観性としてあらわにする(p161〜)
    は、
    第42節 独我論という非難に対抗して、他者経験の問題を呈示する
    から始まってて、そのなかに、
    『さて、新しい省察を始めるにあたって、一見すると重大であるように見える一つの非難を手がかりにすることにしよう。・・・・
    省察する自我である私が、現象学的な判断停止(エポケー)によって、絶対的で超越論的な我(エゴ)へと還元される時、わたしは独我(ソルス・イプセ)になってしまうのではないだろうか。現象学という標題のもとで一貫した自己解明を行っている限り、私は独我(ソルス・イプセ)に留まるのではないだろうか。それゆえ、客観的な存在の問題を解決したつもりになって、もう哲学として登場しようとしている現象学は、超越論的な独我論という烙印を押されるべきではないだろうか。〔こう非難されるわけである。〕・・・』
    ってある。(〔 〕内は訳者による補足説明ね)

    フッサールのいう「超越論的」っていうの、
    No37157で見たように、わたしのばあい「純粋」ってして見てるから、
    〈現象学は、純粋な独我論という非難があった〉――のかな?って。 
    わたしここらへんよく知らないけど。

    つづく

[ 親 37111 / □ Tree ] 返信/引用返信 削除キー/

▲[ 37282 ] / ▼[ 37287 ]
■37286 / 28階層)  Re[28]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/12(Sun) 09:09:31)
    No37282のつづき、
    今日は、まず、抜粋部分を書いてくことにするよ。

    第50節 他者経験は、「共現前」(類比による統覚)として、間接的な志向性をもつ(p195〜)
    から、わたし抜粋したところは
    No15221
    で書いたから、今回は書かないけど、第50節での本文の抜粋部分を(A)ってしとく。

    つづく


[ 親 37111 / □ Tree ] 返信/引用返信 削除キー/

▲[ 37286 ] / ▼[ 37289 ]
■37287 / 29階層)  Re[29]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/12(Sun) 09:17:04)
    No37286のつづきね

    【フッサール著『デカルト的省察』1931浜渦辰二訳岩波書店2001】の、
    第51節 他者経験には、連合によって構成するものとして、「対になる」という契機が含まれている(p201〜)
    から、わたしが抜粋したところは、

    本文(B)
    ***************
    私の原初的な領分の内部で、一つの物体が私固有の身体(ライプ)=物体(ケルパー)(34)に類似するものとして、〔私の身体と〕同様に身体として捉えられるのは、類比によってであった。
    ここでの類比による把握に特有なことを特徴づけようとする時、まず最初に出会うのは、ここでは根源的に創設する原本が常に生き生きと現在しており、それゆえ原創設そのものが常に生き生きと動いたままだ、という特徴である。そして第二に出会うのは、この類比によって共現前するものは決して現実には至ることはできず、それゆえ、本来的な知覚に至ることはできないという、すでにその必然性において知られるようになった特性である。第一の特性と密接に関連することだが、我(エゴ)と他我(アルター・エゴ)は常にそして必然的に、根源的な「対(ペア)になる(35)」という仕方で与えられる。・・・・・(p201)
    ***************

    訳注(アキュートアクセントは省略するよ)
    ・・・・・・・・・・・・・
    (34)Leib-Korper:注(17)に述べた、「身体」と「物体」の区別を踏まえながらも、その両面をもつと捉えられているものをこう呼んでいる。

    (35)Paarung:「対(Paar)にすること/なること」を指す。後にのべられるように、フッサールはこれを「受動的綜合の一つの根源的形式」として考えており、その意味で、「対にする」より「対になる」としたほうが適切と思われる。また、このあと、「対になること」は「連合と呼ばれる受動的綜合の一つの根源的形式」とされるが、「連合は受動的発生の原理である」(本書第39節)とも言われており、フッサール自身ここで論じているのは「静態的な分析」(本書第48節)であると断りながらも、発生的現象学に属する問題圏に踏み込んでしまっている。
    ・・・・・・・・・・・・・

    本文(C)
    ***************
    ・・・・・いま私の原初的な領分のうちに一つの物体が際立って現れ、それが私の身体と似ている、すなわち、それが私の身体と現象的に対になるに違いないという状態である場合、その物体は意味がおしかぶせられることによって、直ちに私の身体から身体という意味を受け取るにちがいない。・・・・・(p203)
    ***************

    できるだけ少しだけ抜粋することにしてる。

    つづく

[ 親 37111 / □ Tree ] 返信/引用返信 削除キー/

▲[ 37287 ] / ▼[ 37298 ]
■37289 / 30階層)  Re[30]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/12(Sun) 11:00:25)
    No37287のつづき、

    【フッサール著『デカルト的省察』1931浜渦辰二訳岩波書店2001】の
    第52節 共現前は、独自の確認する様式をもった経験である(p204〜)
    のなかからわたしがの抜粋したところは、

    本文(D)
    ***************
    ・・・・・「異なるもの(フレムト)〔他者〕」は、自分固有のものの類似物(アナロゴン)としてのみ考えることができる。それは必然的に、その意味の構成ゆえに、私の最初に客観化された自我と私の原初的世界との「志向的変様(37)」として現れる。つまり、他者は、現象学的には自己の「変様」として現れるのだ(私の自己が「私の」というこの性格を受け取る(38)のは、ここで対になることが必然的に現れて、対比が行われることによってである)。したがって、類比による変様において、この自我の具体性はまずその原初的世界として、次に十分に具体的な我(エゴ)として属するものすべてが共現前する、ということは明らかである。言い換えれば、共現前によって、私のモナドにおいて別のモナドが構成されるのである。・・・・(p206)
    ***************

    訳注
    ・・・・・・・・・・・・・
    (37)
    intentionale Modifikation:「変様」とは、フッサールが『論理学研究』以来、よく使ってきた用語で、本書でもこれまで目立たない仕方ですでに使われてきている。しかし、ここでは特に、「現在させる働き」と「準現在させる働き」の間に、また、「現前」と「共現前」の間にも、後者は前者の「志向的変様」という関係がある、それゆえ、「自分固有のもの」と「異なるもの」の間にも、同様な「志向的変様」の関係がある、という点が強調されている。しかし、このような主張は、その後、フィンクによって、「現様態の優位」を主張する「思弁的思考(形而上学)」として批判されることになった。

    (38)
    「他者は、現象学的には私の自己の「変様」だとすると「私」というのが先にあるのでなければならないだろう。ところが、この括弧内では、「対になること」によって初めて「私の」という性格を受け取るのだとすると、それに先立って「私の」という性格がるわけではないことになる。「対になること」によって初めて、「私の」と「他者の」が言わば同時に生成してくるわけである。「我は汝と対比のなかで初めて構成される」(『間主観性の現象学』第一巻)という言い方も、この脈略で理解されよう。
    ・・・・・・・・・・・・・

    これでわたしが抜粋したところはひとまずこれでおしまい〜、だけど、

    つづくよ。

[ 親 37111 / □ Tree ] 返信/引用返信 削除キー/

▲[ 37289 ] / ▼[ 37310 ]
■37298 / 31階層)  Re[31]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/14(Tue) 19:44:26)
[ 親 37111 / □ Tree ] 返信/引用返信 削除キー/

▲[ 37298 ] / 返信無し
■37310 / 32階層)  Re[32]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/16(Thu) 18:50:24)
    【フッサール著『デカルト的省察』1931浜渦辰二訳岩波書店2001】の中の第50,51,52節からのわたしの抜粋が書けたんだけど、いまのわたしが想定しているのを先に書いとくと、
    No37289の訳注(38)にある、

    〔「対になること」によって初めて、「私の」と「他者の」が言わば同時に生成してくる〕

    っていう見方ね。

    ってすると〜、
    何と何が対(つい)になるのかしら?
    これが今回のわたしの物語りのテーマになるのかな?

[ 親 37111 / □ Tree ] 返信/引用返信 削除キー/


Mode/  Pass/

TOP HELP 新着記事 ツリー表示 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -