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Re[98]: つれづれなるままに
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□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/04/20(Sat) 17:54:13)
| No37152のつづきね。
前にも書いたと思うけど、 中島義道さんのからなんだけど、
・・・・・・・・・ 「純粋」は、カントの場合、経験的(empirisch)ではないという否定的意味が基本であるが、積極的に理性だけからという意味を担って「根源的」と言い換えられることもある。例えば「純粋統覚」とはいかなる経験的なものも含まない統覚であるが、「超越論的統覚」とは「経験を可能にする諸条件」を含むような統覚である。「純粋総合」とは経験的な混入物を洗い流した純粋な線にょうな総合であるが、「超越論的総合」とは「経験を可能にする諸条件」を含む「時間」という特有の線のような総合である。
「ア・プリオリ」(a priori)は「ア・ポステリオリ」に対する言葉であるが、カントの場合、同じように「経験的」に対立する言葉として「純粋」と重なる。しかし、違いが強調される場合もあり、「すべて変化は原因をもつ」という判断は経験に由来しないという意味「a priori」であっても「変化」という物質に関する判断だから、経験的なものが混入しており「純粋」ではないとされる。一方、「7+5=12」のような数学的判断は経験的なものが混入していなから、ア・プリオリであってかつ純粋な判断ということになる。
だが、この用語法が常に守られているわけではない。そして、再確認すれば、「超越論的」とは単に「経験的な混入物がない」ことではなく、「経験的な混入物がない」にもかかわらず経験に適用されるのはなぜか、という問いの全体にかかわることである。
「超越論的」という言葉(カントの原意)は「相互主観的」(intersubjektiv)とは相容れない。…‥ ・・・・・・
って言うことみたい。
ひとまず、カントのはこういうのって、しとくね。 あ、これ、出どころ忘れちゃったから、 パニさん、著作権法でダメだったら削除しといてね。
101になっちゃたので、このつづきはつれづれ14でする。
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