TOP HELP 新着記事 ツリー表示 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

No37289 の記事


■37289 / )  Re[30]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/12(Sun) 11:00:25)
    No37287のつづき、

    【フッサール著『デカルト的省察』1931浜渦辰二訳岩波書店2001】の
    第52節 共現前は、独自の確認する様式をもった経験である(p204〜)
    のなかからわたしがの抜粋したところは、

    本文(D)
    ***************
    ・・・・・「異なるもの(フレムト)〔他者〕」は、自分固有のものの類似物(アナロゴン)としてのみ考えることができる。それは必然的に、その意味の構成ゆえに、私の最初に客観化された自我と私の原初的世界との「志向的変様(37)」として現れる。つまり、他者は、現象学的には自己の「変様」として現れるのだ(私の自己が「私の」というこの性格を受け取る(38)のは、ここで対になることが必然的に現れて、対比が行われることによってである)。したがって、類比による変様において、この自我の具体性はまずその原初的世界として、次に十分に具体的な我(エゴ)として属するものすべてが共現前する、ということは明らかである。言い換えれば、共現前によって、私のモナドにおいて別のモナドが構成されるのである。・・・・(p206)
    ***************

    訳注
    ・・・・・・・・・・・・・
    (37)
    intentionale Modifikation:「変様」とは、フッサールが『論理学研究』以来、よく使ってきた用語で、本書でもこれまで目立たない仕方ですでに使われてきている。しかし、ここでは特に、「現在させる働き」と「準現在させる働き」の間に、また、「現前」と「共現前」の間にも、後者は前者の「志向的変様」という関係がある、それゆえ、「自分固有のもの」と「異なるもの」の間にも、同様な「志向的変様」の関係がある、という点が強調されている。しかし、このような主張は、その後、フィンクによって、「現様態の優位」を主張する「思弁的思考(形而上学)」として批判されることになった。

    (38)
    「他者は、現象学的には私の自己の「変様」だとすると「私」というのが先にあるのでなければならないだろう。ところが、この括弧内では、「対になること」によって初めて「私の」という性格を受け取るのだとすると、それに先立って「私の」という性格がるわけではないことになる。「対になること」によって初めて、「私の」と「他者の」が言わば同時に生成してくるわけである。「我は汝と対比のなかで初めて構成される」(『間主観性の現象学』第一巻)という言い方も、この脈略で理解されよう。
    ・・・・・・・・・・・・・

    これでわたしが抜粋したところはひとまずこれでおしまい〜、だけど、

    つづくよ。

返信/引用返信 削除キー/


Mode/  Pass/

TOP HELP 新着記事 ツリー表示 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -