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No37396 の記事


■37396 / )  Re[43]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/31(Fri) 19:50:30)
    No37392 で、第50,51,52節からわたしが抜粋したところの、わたしの見方でのが書けたんだけど、

    なんかちょっと、わたし何を分かろうとしてるのか? なんか分かんなくなってきた感じ。
    今回の物語りの、わたしの、知りたい、の始まりね。
    いま、【フッサール著『デカルト的省察』1931浜渦辰二訳岩波書店2001】の第五省察の第50、51,52節を読み返してもう一度考えて見てるんだけど、そうすることになった、きっかけね。
    ほら、お喋りいっぱいしてて、ふと、“あれ?何からこの話になったんだっけ?”っていうこと、たまにあるよね。そんな感じの。
    でね、
    振り返って見て、たぶん、
    No37109の(3)の中の、
    …‥‥‥‥‥‥‥
    はじめに
    他者経験の解明にあたり、フッサールが他者に対置されるべき「私」をどのように理解していたのかを明らかにし、他者経験の問題を受動的総合の問題として再提起し直すこと、それが本論の目的である。
     周知のように超越論的相互主観性を構成するために、フッサールは他者経験そのものの現象学的解明を重視し、『デカルト的省察』(1931)(以下『省察』)の第五省察においてその課題に取り組んでいる。しかしフッサールによる他者経験の解明は、K・ヘルトに顕著に代表されるように、まず自己移入による類比化的統覚の理論として、その妥当性について批判される。このフッサールの他我構成論に対する批判には、妥当な面が少なからず認められよう。だがそこで指摘される批判以前に、他我構成論においては、そもそも他者に対置されるべき「私」あるいは「自我」の位置づけが、曖昧なままになっている。この曖昧さは、フッサールの他我構成論全体を貫いており、第五省察の理解にとって重要な焦点となっていると言える。‥‥
    …‥‥‥‥‥‥‥
    から、だったような気がする。
    わたし前に『デカルト的省察』読んだから、それを、わたしので捉えるのに参考になりそう、って思ったのからかも。

    このような始まりからの始まりは、
    No37314のところのような気がする。

    後でその部分をも一度書き出して見るね。


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