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■36859 / inTopicNo.13)  Re[43]: ストア派
  
□投稿者/ 時 -(2024/03/19(Tue) 13:27:17)
    2024/03/19(Tue) 13:34:02 編集(投稿者)

    akaimiさんへ。こんにちは。返信をありがとうございます。

    No36857に返信(akaimiさんの記事)
    > 『ストア派』ジャン=パティスト・グリナ 著 川本 愛 訳を昨日からぱらぱらと読んでみています。
    > 全体の印象としてやはり難しい本です。
    > 第二章に「ストア派の更新」としてエピクテトスについて書かれているので、そこから引用してみますね。

    毎回、ありがとうございます。m(__)m

    > 彼によれば、私たち次第であるたった一つのものこそが、私たち自身の選択なのである。その結果、ブロアイレシスは私自身と同一のものであり、ゼウス自身ですらそれを強制することはできない。(一・一・二三)

    > プロアイレシスというのは選択のこと。
    > 文末の数字は『提要』中の番号のようです。

    > 外的なことは「我々次第ではないもの」だけれど、選択は「我々次第であるもの」だとエピクテトスは考えていたのだろう、と私は現時点では捉えています。

    はい。エピクテトス自身は、事象を内界(我々次第であるもの)と外界(我々次第ではないもの)に分けて、その内界(我々次第であるもの)自体が私自身と同一であり、何者からの束縛やなにがしかの制約等を受けない。そして、その内界(我々次第であるもの)が唯一、私たち自身の選択という内界での行為なのだという事だと解釈しました。

    >>・自由意志は盗人の手のとどかざる財宝なり。

    > 同書p117によると、財産、名誉、身体、健康は選択の外にあるものとエピクテトスはしていたそうです。
    > 外的なものは選択のための素材にすぎず、したがって善でも悪でもなく、伝統的な枠組みにおける無差別なものである。

    はい。そうですよね。彼の思考世界を想像すると、財産、名誉、身体、健康等自体は、内界(我々次第であるもの)での選択のための単なる素材だという事でしょう。当然この考え方では、それらは善でも悪でもないですね。

    > 貧しさは選択の外にあるもので、それは善でも悪でもなく無差別なものである。
    > 私たち次第であるたった一つのものであるプロアイレシス(選択)次第で盗みをするかしないかは決められる。
    > このようにエピクテトスは考えるのじゃないかな、と想像します。

    > 時さんが書いてくださったものによると、
    > >各人の性向(性質の上での傾向。気質)<
    > が両立論としての自由意志に反映される、とするのが前期ストア派の立ち位置で、
    > エピクテトスは、各人の性向というよりどういう「選択」をするかがその人である、と考えたのかなと、そのように私は見ました。

    ありがとうございます。akaimiさんの現時点でのご認識は了解しました。^^

    なるほど。この場合、選択が起こるのではなくて選択するとなるのですね。。そしてその選択を”する”のが、その本人だという事なのでしょうね。

    やはり出てくるんですよね。。同じストア派での前期とか後期とか。。私にとっては、ややこしいのですね(笑)今のところ、メタでの視点で全体像を把握することは私には出来そうにありませんかね。

    そうしますと、エピクテトスの思想では、運命論では無くなるような気がしましたが、下記(運命論 wiki)の「世の中の出来事はすべて」が彼の言う外界(我々次第ではないもの)に当てはまるのであれば、運命論と言ってもよいのかもしれませんね。その運命での出来事を外界(我々次第ではないもの)として、それとは無関係に内界(我々次第であるもの)は、本来的にはその影響を受けないのだという事でしょう。

    ・運命論(wiki)
    > 宿命論(しゅくめいろん)あるいは運命論(うんめいろん、英: fatalism)とは、世の中の出来事はすべて、あらかじめそうなるように定められていて、人間の努力ではそれを変更できない、とする考え方[1][2]。宿命論の考え方をする人を宿命論者と言う。

    一方、あらゆる出来事は、その出来事に先行する出来事のみによって決定しているとする決定論(wiki)は、仏教の十二支縁起に示されるような、因果の関係を言うのでしょうか。この場合も、内面に沸き起こる心の状態を平安に導くべく教えだと思いますので、その内面にも関係してくるように思いますね。

    ・決定論(wiki)
    > 決定論(けっていろん、英: determinism、羅: determinare)とは、あらゆる出来事は、その出来事に先行する出来事のみによって決定している、とする哲学的な立場。

    ここまでで、ストア派のエピクテトスは、運命論でのよりよく生きるための教えであり、仏教は、決定論での心を平安に至らすための教えと言えるでしょうか。(勿論、この辺りのお話は、仏教では無記とされますが)

    下記の定義で考えますと、アドヴァイタは汎神論ですね。これが仏教以外では、私には、一番しっくりときそうです。

    ・汎神論(wiki)
    > 汎神論(はんしんろん、英: pantheism)または万有神論とは、現実は神性と同一である[1]、あるいは、すべてのものはすべてを包含する内在的な神を構成しているという信条[2]。神を擬人化した人格神を認めず[3]、一切全てを神と同一視する神学的・宗教的・哲学的立場[4]。

    > といったところでまたぼちぼちと可能な範囲で最初から読んでいこうと思います。

    教えていただいてありがとうございました。お陰様でざっくりとした外観は理解できるように感じましたが、お話の脱線および読書のお邪魔をしてしまったようで、すみません。m(__)m

    では、ぼちぼちと読書にお戻りくださいませ。(^^)
引用返信/返信 削除キー/
■36857 / inTopicNo.14)  Re[42]: ストア派
□投稿者/ akaimi -(2024/03/19(Tue) 10:28:03)
    時さん、おはようございます。
    レスありがとうございます。


    No36856に返信(時さんの記事)

    > https://todays-list.com/i/?q=/%E3%82%A8%E3%83%94%E3%82%AF%E3%83%86%E3%83%88%E3%82%B9%E3%80%8E%E8%AA%9E%E9%8C%B2%E3%80%8F/1/1/
    >
    > 上記リンク先の「エピクテトス『語録』」というところに
    >
    > ・自由意志は盗人の手のとどかざる財宝なり。
    >
    > とういう一文があるのですね。
    >
    > このエピクテトス語録の中の「自由意志」が何を示しているのか?なのですね。。
    >
    > No36837 
    >>それならば、運命においては何を行為しても無駄(宿命論)になるという事に帰結する議論が生じ、それに対してクリュシッポスにより、運命論によっても自由意志の存在は否定されず、両者は問題なく両立するとみなす立場(両立論)が主張されました。
    >
    >>ここでは、例え運命論であっても自由意志の存在は否定されないと言う両立論が展開されました。そしてその内容は、人間の行為(ないし同意・意欲)の決定的な原因は、各人の性向(性質の上での傾向。気質)にある点に自由意志を担保しようとしたものでした。
    >
    > と、私は論文に書かれていた内容について考察したのですが、だとすると、クリュシッポスの主張した両立論における、各人の性向にある点に自由意志を担保しようとしたという事になりそうなのですが、、はたしてストア派においてのエピクテトスの立ち位置で、この意味をもって「自由意志は盗人の手のとどかざる財宝なり。」という言葉を残したものなのかが私には分からなのですね。。
    >
    > ストア派は、基本的には運命論で、しかし自由意志の存在をも担保するために両立論が主張されという・・・
    >
    > 私の誤読かもしれませんので、これはこの辺で(笑)

    『ストア派』ジャン=パティスト・グリナ 著 川本 愛 訳を昨日からぱらぱらと読んでみています。
    全体の印象としてやはり難しい本です。
    第二章に「ストア派の更新」としてエピクテトスについて書かれているので、そこから引用してみますね。

    ===
    彼によれば、私たち次第であるたった一つのものこそが、私たち自身の選択なのである。その結果、ブロアイレシスは私自身と同一のものであり、ゼウス自身ですらそれを強制することはできない。(一・一・二三)
    ===
    同書p121より引用

    プロアイレシスというのは選択のこと。
    文末の数字は『提要』中の番号のようです。

    外的なことは「我々次第ではないもの」だけれど、選択は「我々次第であるもの」だとエピクテトスは考えていたのだろう、と私は現時点では捉えています。


    > ・自由意志は盗人の手のとどかざる財宝なり。

    同書p117によると、財産、名誉、身体、健康は選択の外にあるものとエピクテトスはしていたそうです。
    外的なものは選択のための素材にすぎず、したがって善でも悪でもなく、伝統的な枠組みにおける無差別なものである。


    貧しさは選択の外にあるもので、それは善でも悪でもなく無差別なものである。
    私たち次第であるたった一つのものであるプロアイレシス(選択)次第で盗みをするかしないかは決められる。
    このようにエピクテトスは考えるのじゃないかな、と想像します。

    時さんが書いてくださったものによると、
    >各人の性向(性質の上での傾向。気質)<
    が両立論としての自由意志に反映される、とするのが前期ストア派の立ち位置で、
    エピクテトスは、各人の性向というよりどういう「選択」をするかがその人である、と考えたのかなと、そのように私は見ました。

    といったところでまたぼちぼちと可能な範囲で最初から読んでいこうと思います。

引用返信/返信 削除キー/
■36856 / inTopicNo.15)  Re[41]: ストア派
□投稿者/ 時 -(2024/03/18(Mon) 21:07:47)
    akaimiさんへ。こんばんは。

    No36847に返信(akaimiさんの記事)
    > >akaimiさん、パニチェさんへ。こんにちは。今回も少し、ストア派についての考察を書きたいと思いますが、もしも会話の流れ的にお邪魔なようでしたら、他に移しますので、仰っていただければと思います。

    > これからもどうぞ自由に投稿してくださいね。

    ありがとうございます。^^

    https://todays-list.com/i/?q=/%E3%82%A8%E3%83%94%E3%82%AF%E3%83%86%E3%83%88%E3%82%B9%E3%80%8E%E8%AA%9E%E9%8C%B2%E3%80%8F/1/1/

    上記リンク先の「エピクテトス『語録』」というところに

    ・自由意志は盗人の手のとどかざる財宝なり。

    とういう一文があるのですね。

    このエピクテトス語録の中の「自由意志」が何を示しているのか?なのですね。。

    No36837 
    > それならば、運命においては何を行為しても無駄(宿命論)になるという事に帰結する議論が生じ、それに対してクリュシッポスにより、運命論によっても自由意志の存在は否定されず、両者は問題なく両立するとみなす立場(両立論)が主張されました。

    > ここでは、例え運命論であっても自由意志の存在は否定されないと言う両立論が展開されました。そしてその内容は、人間の行為(ないし同意・意欲)の決定的な原因は、各人の性向(性質の上での傾向。気質)にある点に自由意志を担保しようとしたものでした。

    と、私は論文に書かれていた内容について考察したのですが、だとすると、クリュシッポスの主張した両立論における、各人の性向にある点に自由意志を担保しようとしたという事になりそうなのですが、、はたしてストア派においてのエピクテトスの立ち位置で、この意味をもって「自由意志は盗人の手のとどかざる財宝なり。」という言葉を残したものなのかが私には分からなのですね。。

    ストア派は、基本的には運命論で、しかし自由意志の存在をも担保するために両立論が主張されという・・・

    私の誤読かもしれませんので、これはこの辺で(笑)

    > ストア派についての本が来たので少しずつ読んでみます。
    > エピクテトスの言葉についての本とは違い今度のは難しいと思うので、手こずりそうです。
    > マイペース&能力の範囲で読んでみます。^^

    この辺りの事が、もしもストア派の書籍に何か記載がありましたら、また教えていただければ幸いです。^^ しかし、、直感ですが、なかなか簡単ではなさそうな感じがしますね。

    では、また、ご感想を楽しみにしています。^^ ご返信は不要です。
引用返信/返信 削除キー/
■36847 / inTopicNo.16)  Re[40]: ストア派
□投稿者/ akaimi -(2024/03/18(Mon) 08:23:29)
    時さん、おはようございます。

    >akaimiさん、パニチェさんへ。こんにちは。今回も少し、ストア派についての考察を書きたいと思いますが、もしも会話の流れ的にお邪魔なようでしたら、他に移しますので、仰っていただければと思います。

    これからもどうぞ自由に投稿してくださいね。

    ストア派についての本が来たので少しずつ読んでみます。
    エピクテトスの言葉についての本とは違い今度のは難しいと思うので、手こずりそうです。
    マイペース&能力の範囲で読んでみます。^^

引用返信/返信 削除キー/
■36845 / inTopicNo.17)  Re[38]: エピクテトス
□投稿者/ akaimi -(2024/03/18(Mon) 08:13:11)
    パニチェさん、レスありがとうございます。

    No36826に返信(パニチェさんの記事)


    >>「我々次第であるもの」と「我々次第ではないもの」。
    >>つまり、自分の裁量でコントロールできることと出来ないことを分け、「我々次第であるもの」だけを欲望の対象とする、ことをストア派では説いています。
    >>また事実と評価を区別した上で、評価は「我々次第であるもの」であるとし、善用することを勧めています。
    >>個人的に感じるのは、ニーチェの運命愛の考え方ともそう遠くないように感じるのですが、パニチェさんはどんな印象を持たれますか?
    >
    > 少し調べました。
    >
    > 『エピクテトスは、ちょうど彼が影響を受けたソクラテスや犬儒派と同じく、自らは著作を残さず、門弟のアリアノスの伝える言行録によってのみその活動と教説が知られる(これはコイネーで書かれている)。主人の暴力に対して、身体は衣服として見なして耐えたと伝えられているように、解放奴隷としての彼の前歴は、運命を受け入れ、感情に左右されない不動心(アパテイア)を保つ、ストア派の賢者にふさわしい逸話を提供している。(岩波『哲学・思想事典』よりの引用)』
    >
    > まさしく運命愛の先駆けですね。

    病に苦しみながらも自らの意志を強く持ち哲学に希望を見出したニーチェ。
    雇い主からの暴行によるもの、リューマチによるものとの説がありますがエピクテトスも足が不自由でした。
    病気であっても意志は外的なものに妨げられるものではない、という言葉を残しています。


    > akaimiさんが引用された言説から、私は以下のニーチェの言葉が思い浮かびました。
    >
    > 『さらにこういう比喩を、わたしはきみたちに述べておく。自分たちの悪魔を追い払おいとして、かえって、みずからブタの群れの中へ入りこんだ者たちが、少なくないのだ。(ツァラトゥストラ 純潔について13−13)』
    >
    > 『おまえはわたしのサルと呼ばれている。おまえ、口からあわをふいている阿呆よ。しかし、わたしはおまえをわたしのぶうぶうブタと呼ぼう、──ぶうぶうと不平を鳴らすことによって、おまえは私の痴愚礼賛までも、だいなしにしてしまうのだ。最初おまえにぶうぶう不平を鳴らせたゆえのものは、いったい何であったか?誰も充分追従してくれなかったということだ。──おまえがこんな汚物のもとに腰をすえるのは、大いにぶうぶうと不平を鳴らすための根拠を得んがためなのだ。──大いに復讐するための根拠を得んがためなのだ!つまり、おまえ、虚栄心の強い阿呆よ、おまえが口からあわを吹いているのは、すべての復讐なのだ。わたしはおまえの正体を見事に察知したのだ! … 中略 … だが、おまえ、阿呆よ、別れに際して、わたしはおまえにこういう教えを与えよう。もはや愛することのできない場合、とるべき態度は──通りすぎることだ!──ツァラトゥストラはこのように語って、阿呆と大都市のそばを通り過ぎた。(ツァラトゥストラ 通り過ぎることについて7−32)』
    >
    > 『怪物と闘う者は、その過程で自分自身も怪物になることがないよう、気をつけねばならない。深淵をのぞきこむとき、その深淵もこちらを見つめているのだ。(善悪の彼岸 箴言と間奏第146番)』

    久しぶりのニーチェの言葉。やはり刺激的でいいですね。
    そこには周りに振り回されないで自分を大切に、という願いを感じます。

    ストア派の本が来ましたので、読んでみてまとめられそうでしたらまた投稿させてください。


引用返信/返信 削除キー/
■36837 / inTopicNo.18)  ストア派
□投稿者/ 時 -(2024/03/17(Sun) 15:32:54)
    2024/03/18(Mon) 07:31:10 編集(投稿者)

    akaimiさん、パニチェさんへ。こんにちは。今回も少し、ストア派についての考察を書きたいと思いますが、もしも会話の流れ的にお邪魔なようでしたら、他に移しますので、仰っていただければと思います。

    https://www.l.u-tokyo.ac.jp/postgraduate/database/2008/597.html

    上記、論文をもとにした考察です。

    ストア派は、運命( 定義は、宇宙全体に行き渡り個々の事物を造り出す ロゴス=神 )論を説いたようですね。この場合、自由意志を否定するのではないか?という疑問が生じます。

    それならば、運命においては何を行為しても無駄(宿命論)になるという事に帰結する議論が生じ、それに対してクリュシッポスにより、運命論によっても自由意志の存在は否定されず、両者は問題なく両立するとみなす立場(両立論)が主張されました。

    ここでは、例え運命論であっても自由意志の存在は否定されないと言う両立論が展開されました。そしてその内容は、人間の行為(ないし同意・意欲)の決定的な原因は、各人の性向(性質の上での傾向。気質)にある点に自由意志を担保しようとしたものでした。

    つまりは、この性向こそが「本当の自分」だということですが、これは世界の一部であるとする世界観や人間観があると考えられるという事でしょう。

    一方、アカデメイア派のカルネアデスは、人間の心やその意志を「超自然的」なものとして捉えていましたが、一般的理解として少し無理があるでしょうか。一方、ストア派は、それらも「自然」の一部であるとみなしていましたので、こちらの方が理にかなってはいそうです。

    そして本来のアリストテレスの立場は、行為がそれぞれの人間の性向のあり方によって決定されるという点に「自由意志」の在り処を見る点でストア派に近いものだそうですが、それに反して、アレクサンドロスは、性向からも自由であるような選択可能性にこそ理性的な存在(運命論批判)としての人間の本質が存在すると考えました。

    しかし、はたして自己の性向からも自由であるような選択可能性はあるのでしょうか。

    自由意志による選択では、他の方法も選択できたという「選択可能性原理」は自明なように思われますが、近年では、決定論と自由意志の問題の根幹は、選択可能性原理の是非にあるのではなく、むしろ「自己」の捉え方の相違にあるという見方を提案されているようです。

    ・自己を「性向」と捉えると両立論の理解は可能になります。
    ・性向を「本当の自分」の外的なものであるとみなして、それからも自由であるという「自己」を求めるのであれば、非両立論になります。

    最後に、これがこの論文の哲学史的かつ哲学的な診断です。と締め括られています。

    ストア派よりに想いを書くと、自己が性向(性質の上での傾向。気質)という最終的な定義をもって終了するのならば、それはそれで問題ではありません。しかしその定義で言うのであれば、そこに自由な選択肢はありません。つまりは、自由意志による選択時の選択肢は、1つですね。なぜならば、自己選択がその性向によって決定していくのであれば、その選択肢は一つだからです。その選択肢が結果的にでも1つだけしかなかった場合、それは選択とは表現しません。つまりは、選択する自由は存在しませんね。個々人で過去を振り返ると、人生の岐路等において多くの選択肢があったように頭に浮かびますが、それらは妄想でしょう。なぜならば、実際に選ばれてきた道は一つなのですから。それを自覚なき運命と、私は呼んでいます。

    アレクサンドロスよりに想いを書くと、仏教でいうところの解脱や涅槃の境地に至った状態だと思います。ここでは「本当の自分・自己・私」等の一人称から解放されています。表現するのであれば、一切の繋縛のない自由な境地です。

    そして、ストア派の言うように、自己が性向(性質の上での傾向。気質)ならば、その性向自体は何に起因しているのか?、私は各人の遺伝子だと考えます。様々な遺伝子が、外界のその時々の様々な環境に反応して、選択肢のない一つの道を進んでいきます。そこに選択の自由はあるように思えても、実際にはないはずです。そしてその遺伝子は何に起因してるのか?私はそれこそ自然=神だと考えます。ここでいう神の定義は、全てです。

    しかし、私とは性向ですは、おかしな表現ですね。一方、私とは性向以外の存在ですも、おかしな表現です。私というのは、実生活上での便宜上の表現としての存在だけで、実在しません。ですからそれを知るものは、平安な境地での沈黙が保てます。
引用返信/返信 削除キー/
■36830 / inTopicNo.19)  Re[38]: エピクテトス
□投稿者/ 時 -(2024/03/16(Sat) 18:54:50)
    2024/03/16(Sat) 19:38:46 編集(投稿者)

    パニチェさんへ。返信をありがとうございます。

    No36827に返信(パニチェさんの記事)

    >>浅学での現在での私の理解では、ストア派は、基本的には汎神論的な思想であるが、同時に、人間は自由意志を持つという思想だろうと感じました。
    >>ですので、人格神ではない、神への信仰がなかったとは言えないように思いますね。ただ、、それを信仰心と彼らが表現していたのかは疑問です。

    > 調べてみました。

    > 『ストア派の基本的な知見は、世界はロゴスと質料からできているとの主張に認められる。ロゴスが存在するすべての性質を規定し、質料はロゴスによる規定を受けとる。個々の存在するものの質料は世界全体の質料の一部であり、性質はロゴスによる規定の一部である。存在するものはすべて性質をともなった質料、すなわち物体である。物体はその性質によって他の物体に働きかけ、その働きかけに見合った結果を生ずる。外延において有限であるとともに、空虚を含んでいないこの世界の因果関係は必然的である。したがってロゴスは現にある世界を規定しているだけでなく、およそ時間的に実現する世界のあり方のすべてを因果的に規定していることになる。現にある世界に内在しつつ、将来起こるであろうことまで可能的に含んでいるこのようなロゴスのあり方が〈種子としてのロゴス〉(spermatikos logos)と言われる。ロゴスの内容がすべて実現し終えたとき、世界は一つの周期を終え、ふたたび初めから、寸分違わぬ世界を実現していく。(岩波『哲学・思想事典』よりの引用)』

    > 自由意志を認めているかどうかは不明ですが、基本的には時さんのご明察通りです!

    ありがとうございます。。と、お伝えしてよいものかどうですか。。私には、その手の哲学用語の知識等がありませんので、なにやらむず痒い想いです。(笑)

    > それにしてもニーチェの永劫回帰が上記のパクリか(笑)、それとも好意的に考えれば、ある精神状態で体得される共通の智慧(インスピレーション)なのか、私にはよく分かりません。
    > 以下はニーチェが破棄し死後に刊行された『力への意志』からの引用ですが、あまりにも似すぎです(笑)。

    > 『世界を、一定の力として、また一定数の力の中心として考えることが許されるとすれば──そしてあらゆるその他の考えはあくまで疑わしく、したがって役立ちえないとすれば──、このことから結論されるのは、世界は、その大々的なさいころ遊びをつづけながらも、算定しうる一定数の結合関係を通過しなければならないということである。無限の時間のうちではあらゆる可能な結合関係がいつかは達成されていたはずである。それのみではない、それらは無限回達成されていたはずである。しかも、あらゆる結語関係とその直後の回帰との間には総じてなお可能なその他すべての結合関係が経過したにちがいなく、これらの結合関係のいずれもが同一系列のうちで生ずる諸結合関係の全継起を条件づけているのであるから、このことで、絶対的に同一な諸系列の円環運動が証明されているはずである。すなわち、それは、すでに無限にしばしば反復された、また、無限にその戯れをたわむれる円環運動としての世界にほかならない。──こうした構想はただちに一つの機械論的構想ではない。なぜなら、もしそうであるとすれば、この構想が条件づけるのは、まったく同一の場合の無限の回帰ではなく、一つの終局状態となるからである。世界はそうした終局状態に達したことはかつてなかったという理由から、私たちは機械論を、不完全な、たんに暫定的にすぎない仮設とみなさざるをえないのである。(力への意志 第1066番)』

    多分ですが、哲学者や宗教家と呼ばれて現代にもその名が残っているような人達は、人の幸せやその世界について深く深く考察していたのではないでしょうか。そして行きつく先の世界観が、同じようなものにたどり着いていたのではないでしょうか。そこで洋の東西での思想という形での表現が少し違うだけのように思います。同じ西洋の哲学においても、また、東洋の哲学においても、結局は、行きつく先は同じ事なんだろうなぁと感じてます。それを専門にされている先生方からは、お叱りを受けるかもしれませんが。

    > >>最悪の状態で死を迎えた人、例えば一方的に無残な殺され方をした人たちにも同じことが言えるのか疑問です。

    >>悲しみに暮れる親族に対して、通常は言わないでしょうし、言えないでしょう。ですが、仮にその親族が本当に何が原因でという事を真剣に知りたいと思われたのであれば、そしてそれを伝えるという運命にあるのであれば、賢者、聖者は、伝えると思います。
    >>命に価値など無いのだという事も含めてです。そして、その時その命が消えることも運命なのだという事をですが。

    > 理屈的には同意できます。
    > 以前にYahoo!掲示板で愚さんが(惨殺された少女の事件も含めて)全ては因果応報と語ったことに対して、複数の投稿者から猛烈な批判が出ていたことがあります。
    > 私は愚さんの言うところの因果応報というのは個々を超えたところの全体運動のことであって、個別の悪因苦果とか善因楽果のようなものではないと投稿しました。

    はい。そうだと思います。通常は、その投稿者の方(パニチェさんが解釈される愚さんの発言)の想いとは別に、それを見た各人が個別に持つその言葉のイメージの違いにより、割り切れない感情が生起し、怒りに代わると思います。私ならばどうでしょうか。。それは必然です。と書いたでしょうか。。よほどでない限りは、書かないと思いますが。

    個別でのお話になりますが、原始で、因果応報と言う表現がされているという記憶はありません。ですが、アングリマーラ経という経典には、村人から石や棒切れを投げつけられて血だらけになった彼に、忍従なさい。それは、将来何百年に渡って受けるであろう業を現世で受けているのですから。と言う一節があります。業とは、思念や想念の事なのですね。つまりは、現世での古い業(事の善悪の判断ができない想念)から梵行により新しい業(事の善悪の判断ができる想念)に変わり、やがてはその業自体が消滅して、この場合においての、彼の梵行の終了だったのだろうと考えています。

    > そういう次元では同意できますが、いざ自分の身内がそのような死に方をした時にもそのように割り切れるかと自問自答した時には、正直言って今のところ割り切れる自信がありません。

    はい。そうですね。私自身も身内がそのような目にあったのであればという事をよく自問自答していた時が過去にはありましたが、原始においては、五つの煩悩である五蓋のうちの一つである疑蓋(過去・現在・未来の各種の自己について思考(邪思推)する事)という事が書かれてるのですね。ですので、限界直前までは自問自答しますが、それ以上は、今は疑である邪思惟することを意図的に遮断しています。

    返信は、お気遣いありませんように。特別何もないようでしたら、スルーという事でお願いします。
引用返信/返信 削除キー/
■36827 / inTopicNo.20)  Re[37]: エピクテトス
□投稿者/ パニチェ -(2024/03/16(Sat) 16:42:59)
    2024/03/16(Sat) 16:54:54 編集(投稿者)

    時さん、返信ありがとうございます。

    No36822に返信(時さんの記事)
    > パニチェさんへ。こんにちは。意見の交換という事で、有意義です。^^

    そう言っていただけると有難いです。^^

    > ■No36819に返信(パニチェさんの記事)

    > >>===
    > >>出来事が、君の望むように起こることを求めてはならない。
    > >>むしろ、出来事が起こるように起こることを望みたまえ。
    > >>そうすれば君は穏やかで幸福な生活を送れるだろう。

    >>「人生で起こることは必然であり、それらには意味や価値がある」や、上記の「出来事が起こるように起こることを望みたまえ」という台詞の背後には神への信仰があるように思うのです。
    >>または苦難を乗り越えることができた勝者の言葉。

    > 過去のakaimiさんのご投稿より

    > No36430
    > >自らに降りかかる苦難などの運命をいかに克服してゆくかを説く哲学を提唱した
    > >ストア派が関心を抱いていたのは、宇宙論的決定論と人間の自由意思との関係
    > >ストア派は自らの哲学を生活の方法として表し、個々人の哲学を最もよく示すものは発言内容よりも行動内容であると考えた

    > エピクテトスの属していたストア派の関心事は、宇宙論的決定論と人間の自由意思との関係であり、それは自らへ降りかかる苦難などの運命をどのように降伏していくかの哲学であり、それを生活の方法として表していると解釈しました。

    同意です。

    > 浅学での現在での私の理解では、ストア派は、基本的には汎神論的な思想であるが、同時に、人間は自由意志を持つという思想だろうと感じました。
    > ですので、人格神ではない、神への信仰がなかったとは言えないように思いますね。ただ、、それを信仰心と彼らが表現していたのかは疑問です。

    調べてみました。

    『ストア派の基本的な知見は、世界はロゴスと質料からできているとの主張に認められる。ロゴスが存在するすべての性質を規定し、質料はロゴスによる規定を受けとる。個々の存在するものの質料は世界全体の質料の一部であり、性質はロゴスによる規定の一部である。存在するものはすべて性質をともなった質料、すなわち物体である。物体はその性質によって他の物体に働きかけ、その働きかけに見合った結果を生ずる。外延において有限であるとともに、空虚を含んでいないこの世界の因果関係は必然的である。したがってロゴスは現にある世界を規定しているだけでなく、およそ時間的に実現する世界のあり方のすべてを因果的に規定していることになる。現にある世界に内在しつつ、将来起こるであろうことまで可能的に含んでいるこのようなロゴスのあり方が〈種子としてのロゴス〉(spermatikos logos)と言われる。ロゴスの内容がすべて実現し終えたとき、世界は一つの周期を終え、ふたたび初めから、寸分違わぬ世界を実現していく。(岩波『哲学・思想事典』よりの引用)』

    自由意志を認めているかどうかは不明ですが、基本的には時さんのご明察通りです!
    それにしてもニーチェの永劫回帰が上記のパクリか(笑)、それとも好意的に考えれば、ある精神状態で体得される共通の智慧(インスピレーション)なのか、私にはよく分かりません。
    以下はニーチェが破棄し死後に刊行された『力への意志』からの引用ですが、あまりにも似すぎです(笑)。

    『世界を、一定の力として、また一定数の力の中心として考えることが許されるとすれば──そしてあらゆるその他の考えはあくまで疑わしく、したがって役立ちえないとすれば──、このことから結論されるのは、世界は、その大々的なさいころ遊びをつづけながらも、算定しうる一定数の結合関係を通過しなければならないということである。無限の時間のうちではあらゆる可能な結合関係がいつかは達成されていたはずである。それのみではない、それらは無限回達成されていたはずである。しかも、あらゆる結語関係とその直後の回帰との間には総じてなお可能なその他すべての結合関係が経過したにちがいなく、これらの結合関係のいずれもが同一系列のうちで生ずる諸結合関係の全継起を条件づけているのであるから、このことで、絶対的に同一な諸系列の円環運動が証明されているはずである。すなわち、それは、すでに無限にしばしば反復された、また、無限にその戯れをたわむれる円環運動としての世界にほかならない。──こうした構想はただちに一つの機械論的構想ではない。なぜなら、もしそうであるとすれば、この構想が条件づけるのは、まったく同一の場合の無限の回帰ではなく、一つの終局状態となるからである。世界はそうした終局状態に達したことはかつてなかったという理由から、私たちは機械論を、不完全な、たんに暫定的にすぎない仮設とみなさざるをえないのである。(力への意志 第1066番)』


    > 一方で、私の学びましたアドヴァイタでの理解は、神のみが実在するという最終理解となりますので、現代で表現すると汎神論のみですので、そこに現代で表現される人間の自由意志は認められません。アドヴァイタでの理解が起これば、この世の一切の問題は消滅しますが、ストア派での思想では、そこに問題が残ります。なぜならば、そこに自由意志の存在を認めるからです。そして自由意志により必然的に起こった問題を、その自由意志で解決する方法(考え方)を説いていたのではないでしょうか。

    なるほど。

    > >>出来事が、君の望むように起こることを求めてはならない。
    > あなた都合での良い事ばかりを期待してはいけません。なぜならば、あなた都合での悪い事も起こるからです。

    > >>むしろ、出来事が起こるように起こることを望みたまえ。
    > そのようなことよりも、何かを望むのであれば、ありのままで起こる事象は、起こるべくして起こるのだという事を望みなさい。なぜならば、宇宙論的決定論で事は起こるのですから。

    > >>そうすれば君は穏やかで幸福な生活を送れるだろう。
    > 宇宙論的決定論で起こる事を理解できたのであれば、あなたは穏やかで幸せな生活を送れるでしょう。

    >>最悪の状態で死を迎えた人、例えば一方的に無残な殺され方をした人たちにも同じことが言えるのか疑問です。

    > 悲しみに暮れる親族に対して、通常は言わないでしょうし、言えないでしょう。ですが、仮にその親族が本当に何が原因でという事を真剣に知りたいと思われたのであれば、そしてそれを伝えるという運命にあるのであれば、賢者、聖者は、伝えると思います。
    > 命に価値など無いのだという事も含めてです。そして、その時その命が消えることも運命なのだという事をですが。

    理屈的には同意できます。
    以前にYahoo!掲示板で愚さんが(惨殺された少女の事件も含めて)全ては因果応報と語ったことに対して、複数の投稿者から猛烈な批判が出ていたことがあります。
    私は愚さんの言うところの因果応報というのは個々を超えたところの全体運動のことであって、個別の悪因苦果とか善因楽果のようなものではないと投稿しました。
    そういう次元では同意できますが、いざ自分の身内がそのような死に方をした時にもそのように割り切れるかと自問自答した時には、正直言って今のところ割り切れる自信がありません。

    > ですので、分類するのであれば、苦難を乗り越えることができた勝者の言葉。となるでしょうか。

    はい、これも同意です。

引用返信/返信 削除キー/
■36826 / inTopicNo.21)  Re[37]: エピクテトス
□投稿者/ パニチェ -(2024/03/16(Sat) 15:53:04)
    akaimiさん、こちらこそ丁寧な返信をありがとうございます。

    No36821に返信(akaimiさんの記事)

    >>「人生で起こることは必然であり、それらには意味や価値がある」や、上記の「出来事が起こるように起こることを望みたまえ」という台詞の背後には神への信仰があるように思うのです。
    >>または苦難を乗り越えることができた勝者の言葉。

    > ストア派の哲学者たち、とりわけエピクテトスが「神」についてどのような考えでいたのか、についての明確なものを私はまだ掴めていません。
    > 少し調べたものによると、ストア派ではキリスト教的神とは違う汎神論的な神、宇宙の総体としての神を考えていたようです。
    > 引用したエピクテトスの言葉が神への信仰によるものなのか、またそれとは違うところから出ているものなのかについても明確なところは今はわかりません。
    > そのあたりについて私も知りたいと思い、別な本を読んでみようと思っているところです。

    もし何か分かりましたら、また教えて下さい。
    先のレスに関してはストア派やエピクテトス、また戦後の文脈からも切り離して、あの手の言説から思うところを述べさせてもらいました。

    >>最悪の状態で死を迎えた人、例えば一方的に無残な殺され方をした人たちにも同じことが言えるのか疑問です。
    >>死後世界や輪廻転生を認めれば、この価値観もひっくり返るかもしれませんが、死後や転生を無記としている(生を哲学の中心とする実存主義)私にはどうもそのように思えないんですねぇ〜。

    > 『提要』の残されているエピクテトスの言葉は、教え子が後に師の言葉としてまとめたもので、いわば前途と志あるおそらく若い人たちに向けて私塾で教えていた際に説かれたものだと思うのです。
    > 若い人たちだけに向けたかどうかは定かではなく壮年もいたかもしれませんが、志を持ち学びに集まってきた人たちに向けて語られた言葉なのはたしかだと思います。
    > そうしたことから考えるに、不幸の最中にいて心が弱っている人々や拒否反応だけが先に立つ人々には惨く感じられる言葉でしょうし、すべての人々に対して強要されるものではないはずです。

    同意です。

    > 「我々次第であるもの」と「我々次第ではないもの」。
    > つまり、自分の裁量でコントロールできることと出来ないことを分け、「我々次第であるもの」だけを欲望の対象とする、ことをストア派では説いています。
    > また事実と評価を区別した上で、評価は「我々次第であるもの」であるとし、善用することを勧めています。
    > 個人的に感じるのは、ニーチェの運命愛の考え方ともそう遠くないように感じるのですが、パニチェさんはどんな印象を持たれますか?

    少し調べました。

    『エピクテトスは、ちょうど彼が影響を受けたソクラテスや犬儒派と同じく、自らは著作を残さず、門弟のアリアノスの伝える言行録によってのみその活動と教説が知られる(これはコイネーで書かれている)。主人の暴力に対して、身体は衣服として見なして耐えたと伝えられているように、解放奴隷としての彼の前歴は、運命を受け入れ、感情に左右されない不動心(アパテイア)を保つ、ストア派の賢者にふさわしい逸話を提供している。(岩波『哲学・思想事典』よりの引用)』

    まさしく運命愛の先駆けですね。
    あと。。。。

    No36736に返信(akaimiさんの記事)

    > ■No36729に返信(akaimiさんの記事)
    >>===
    >>記憶しておくがよい。君を侮辱するのは、君のことを口汚く罵る者や君を殴る者などではなく、彼らが君を侮辱していると見なす、君の考え方なのである。
    >>誰かが君を怒らせるならば、その時は君自身の判断こそが君を怒らせたのだと知るがよい。
    >>だからこそ、まず何よりも心像によって拉致されないように努めよ。
    >>というのも、一度でよいから自分で考えてみる時間と余裕とを得るならば、君自身に打ち勝つのは簡単なことだろうから。

    >>(『提要』20)
    >>===
    >>『奴隷の哲学者エピクテトス 人生の授業 この生きづらい世の中で「よく生きる」ために』荻野弘之 著 p93より引用

    > ブッダの言葉で、このエピクテトスの言葉と共通すると思われるものがあったのを思い出しました。
    > 以下、以前に買って読んだ別の本から引用してみます。

    > ===
    > もし罵る者に罵りを、怒る者に怒りを、言い争う者に言い争いを返したならば、その人は相手からの食事を受け取り、同じものを食べたことになる。
    > わたしはあなたが差し出すものを受け取らない。
    > あなたの言葉は、あなただけのものになる。そのまま持って帰るがよい。

    > ─ 罵倒するバラモンとの対峙 サンユッタ・二カーヤ

    > ===『反応しない練習』草薙龍瞬 著 p99〜p100より引用

    akaimiさんが引用された言説から、私は以下のニーチェの言葉が思い浮かびました。

    『さらにこういう比喩を、わたしはきみたちに述べておく。自分たちの悪魔を追い払おいとして、かえって、みずからブタの群れの中へ入りこんだ者たちが、少なくないのだ。(ツァラトゥストラ 純潔について13−13)』

    『おまえはわたしのサルと呼ばれている。おまえ、口からあわをふいている阿呆よ。しかし、わたしはおまえをわたしのぶうぶうブタと呼ぼう、──ぶうぶうと不平を鳴らすことによって、おまえは私の痴愚礼賛までも、だいなしにしてしまうのだ。最初おまえにぶうぶう不平を鳴らせたゆえのものは、いったい何であったか?誰も充分追従してくれなかったということだ。──おまえがこんな汚物のもとに腰をすえるのは、大いにぶうぶうと不平を鳴らすための根拠を得んがためなのだ。──大いに復讐するための根拠を得んがためなのだ!つまり、おまえ、虚栄心の強い阿呆よ、おまえが口からあわを吹いているのは、すべての復讐なのだ。わたしはおまえの正体を見事に察知したのだ! … 中略 … だが、おまえ、阿呆よ、別れに際して、わたしはおまえにこういう教えを与えよう。もはや愛することのできない場合、とるべき態度は──通りすぎることだ!──ツァラトゥストラはこのように語って、阿呆と大都市のそばを通り過ぎた。(ツァラトゥストラ 通り過ぎることについて7−32)』

    『怪物と闘う者は、その過程で自分自身も怪物になることがないよう、気をつけねばならない。深淵をのぞきこむとき、その深淵もこちらを見つめているのだ。(善悪の彼岸 箴言と間奏第146番)』

引用返信/返信 削除キー/
■36823 / inTopicNo.22)  Re[39]: 投稿ありがとうございました。
□投稿者/ akaimi -(2024/03/16(Sat) 12:11:03)
    時さん、お手数をおかけしてすみませんでした。
    丁寧にありがとうございました。


    >>トラブルになっている場面を無断で撮影して投稿する、という行為は現在のSNS世界では問題ではないのかな。
    >>Xで削除にならず閲覧できたということは問題視されるものではないということなのですね。
    >
    > SNSを見ていると、削除依頼が多かった場合、タイムラグはあるものの削除されているようですね。これは、その内容等には無関係の様に見えます。トラブルになっている場面を無断で撮影して投稿されたものに関しても、削除されたりされなかったりのようです。個人の意見として真っ当なことを言っていても、削除依頼が多ければ削除されているように見えます。しかし、その削除等の基準は、はっきりとは明らかにされていないようですよ。

    内容そのものではなく、削除依頼が多いと運営によって削除されるということなのですね。
    スマホで誰でもが簡単に動画撮影ができる時代、扱いは慎重にしたいですね。

    >>時さん、すみません。 ここから加筆追伸です。
    >
    >>>Xでのポストで流れてきた動画で、バスの中で座っている若い女性の斜め後ろで老人が立っていました。その老人の後ろにいた人が座っている若い女性に対して「席を譲ってあげなさい」と言い、無言のまま若い女性が立ち上がって席を変わってあげましたが、女性の片足が義足でした。結果、その場の空気が何とも言えないものに包まれました。
    >
    >>ここに書かれているのは実際にXに投稿されていた動画ですか?
    >>それとも、時さんが考えられた例え話?
    >>実際にあった投稿だと思い読んできたのですが、もしかしたら例え話なのかなとも今更ながらに思ったのです。
    >
    > このお話の内容は、過去に実際にXで投稿されたものを見たものです。
    >
    > 設定は、恐らくは外国のバスの中であること。(結果的に義足だと判明した)若い女性が、前方から見て通路の右の通路側に座っていたこと。女性の少し後ろの通路に老人(女性)が立っていたこと。その老人(女性)の直後ろに男性(初老)が立っていたこと。その男性が、何か短い言葉をかけつつ座っている女性の右肩に軽く手をやる仕草をしたこと。やや振り返った女性が、次の瞬間、無表情かつ無言で立ち上がり、直後に、後ろの男性が困惑した表情を浮かべたこと。(実際には、立っていた老人(女性)は、その席には座っていません。)そして、その場が微妙な空気に包まれたという事。
    >
    > このような記憶ですが、今朝、akaimiさんの投稿を拝見してから過去の閲覧履歴を探してみましたが見つかりませんでした。

    閲覧履歴まで見てくださったのですね。ほんとお手数をおかけしてしまいすみませんでした。

    席を譲るように若い女性に伝えた人物も、女性に対して静かに伝えていたようですね。
    となると一体何を言いたい動画だったのだろう?というのが気になってきたりもしますが、それはそれで置いておきます。(;^_^A

    > そして、私はX等を見るときには、通常は音声をオフにしていますので、言葉としてのやり取りは(多分、英語?)分かりません。エピクテトスの投稿を拝見した時に、エピソード記憶でのそのシーン(絵面)が頭によぎりましたので、こういう事かな?という事での投稿となりました。
    >
    > 一瞬ですが、あまりにも的確な映画のワンシーンのような切り取り方のようにも感じましたので、海外の方の”やらせ”の可能性(通常は、公共のバスの中をスマホ撮影していて、偶然にそのシーンが的確に映りこむというのは、少し考えにくいかもですしね)も感じましたが、あまり深読みはせず、今回の投稿としました。
    >
    > ですので、今回のお話は、実際にXに動画として投稿されたものであり、その内容を、私の理解したエピクテトスの考え方に当てはめての私の例え話としてのものでした。^^

    わかりました。 丁寧なご説明をありがとうございました。_(._.)_
引用返信/返信 削除キー/
■36822 / inTopicNo.23)  Re[36]: エピクテトス
□投稿者/ 時 -(2024/03/16(Sat) 12:07:10)
    パニチェさんへ。こんにちは。意見の交換という事で、有意義です。^^

    No36819に返信(パニチェさんの記事)

    > akaimiさんや時さんの意見を聞ければ有難いですが、もちろんスルーでも結構です。

    >>===
    >>出来事が、君の望むように起こることを求めてはならない。
    >>むしろ、出来事が起こるように起こることを望みたまえ。
    >>そうすれば君は穏やかで幸福な生活を送れるだろう。

    > 「人生で起こることは必然であり、それらには意味や価値がある」や、上記の「出来事が起こるように起こることを望みたまえ」という台詞の背後には神への信仰があるように思うのです。
    > または苦難を乗り越えることができた勝者の言葉。

    過去のakaimiさんのご投稿より

    No36430
    >自らに降りかかる苦難などの運命をいかに克服してゆくかを説く哲学を提唱した
    >ストア派が関心を抱いていたのは、宇宙論的決定論と人間の自由意思との関係
    >ストア派は自らの哲学を生活の方法として表し、個々人の哲学を最もよく示すものは発言内容よりも行動内容であると考えた

    エピクテトスの属していたストア派の関心事は、宇宙論的決定論と人間の自由意思との関係であり、それは自らへ降りかかる苦難などの運命をどのように降伏していくかの哲学であり、それを生活の方法として表していると解釈しました。

    浅学での現在での私の理解では、ストア派は、基本的には汎神論的な思想であるが、同時に、人間は自由意志を持つという思想だろうと感じました。

    ですので、人格神ではない、神への信仰がなかったとは言えないように思いますね。ただ、、それを信仰心と彼らが表現していたのかは疑問です。

    一方で、私の学びましたアドヴァイタでの理解は、神のみが実在するという最終理解となりますので、現代で表現すると汎神論のみですので、そこに現代で表現される人間の自由意志は認められません。アドヴァイタでの理解が起これば、この世の一切の問題は消滅しますが、ストア派での思想では、そこに問題が残ります。なぜならば、そこに自由意志の存在を認めるからです。そして自由意志により必然的に起こった問題を、その自由意志で解決する方法(考え方)を説いていたのではないでしょうか。

    >>出来事が、君の望むように起こることを求めてはならない。

    あなた都合での良い事ばかりを期待してはいけません。なぜならば、あなた都合での悪い事も起こるからです。

    >>むしろ、出来事が起こるように起こることを望みたまえ。

    そのようなことよりも、何かを望むのであれば、ありのままで起こる事象は、起こるべくして起こるのだという事を望みなさい。なぜならば、宇宙論的決定論で事は起こるのですから。

    >>そうすれば君は穏やかで幸福な生活を送れるだろう。

    宇宙論的決定論で起こる事を理解できたのであれば、あなたは穏やかで幸せな生活を送れるでしょう。

    > 最悪の状態で死を迎えた人、例えば一方的に無残な殺され方をした人たちにも同じことが言えるのか疑問です。

    悲しみに暮れる親族に対して、通常は言わないでしょうし、言えないでしょう。ですが、仮にその親族が本当に何が原因でという事を真剣に知りたいと思われたのであれば、そしてそれを伝えるという運命にあるのであれば、賢者、聖者は、伝えると思います。

    命に価値など無いのだという事も含めてです。そして、その時その命が消えることも運命なのだという事をですが。

    ですので、分類するのであれば、苦難を乗り越えることができた勝者の言葉。となるでしょうか。
引用返信/返信 削除キー/
■36821 / inTopicNo.24)  Re[36]: エピクテトス
□投稿者/ akaimi -(2024/03/16(Sat) 11:52:31)
    パニチェさん、こんにちは!
    投稿ありがとうございます。


    No36819に返信(パニチェさんの記事)
    > 2024/03/16(Sat) 08:57:04 編集(投稿者)
    >
    > おはようございます、akaimiさん。横レス失礼します。
    > 以下は反論というものではないのですが時々思うことを(動画や他の言説とは切り離し、以下の言説だけに限って)書いてみます。
    > akaimiさんや時さんの意見を聞ければ有難いですが、もちろんスルーでも結構です。
    >
    >>===
    >>出来事が、君の望むように起こることを求めてはならない。
    >>むしろ、出来事が起こるように起こることを望みたまえ。
    >>そうすれば君は穏やかで幸福な生活を送れるだろう。
    >
    >>(『提要』8)
    >>===
    >>『奴隷の哲学者エピクテトス 人生の授業 この生きづらい世の中で「よく生きる」ために』荻野弘之 著 p61より引用
    >
    > 「人生で起こることは必然であり、それらには意味や価値がある」や、上記の「出来事が起こるように起こることを望みたまえ」という台詞の背後には神への信仰があるように思うのです。
    > または苦難を乗り越えることができた勝者の言葉。

    ストア派の哲学者たち、とりわけエピクテトスが「神」についてどのような考えでいたのか、についての明確なものを私はまだ掴めていません。
    少し調べたものによると、ストア派ではキリスト教的神とは違う汎神論的な神、宇宙の総体としての神を考えていたようです。
    引用したエピクテトスの言葉が神への信仰によるものなのか、またそれとは違うところから出ているものなのかについても明確なところは今はわかりません。
    そのあたりについて私も知りたいと思い、別な本を読んでみようと思っているところです。


    > 最悪の状態で死を迎えた人、例えば一方的に無残な殺され方をした人たちにも同じことが言えるのか疑問です。
    > 死後世界や輪廻転生を認めれば、この価値観もひっくり返るかもしれませんが、死後や転生を無記としている(生を哲学の中心とする実存主義)私にはどうもそのように思えないんですねぇ〜。


    『提要』の残されているエピクテトスの言葉は、教え子が後に師の言葉としてまとめたもので、いわば前途と志あるおそらく若い人たちに向けて私塾で教えていた際に説かれたものだと思うのです。
    若い人たちだけに向けたかどうかは定かではなく壮年もいたかもしれませんが、志を持ち学びに集まってきた人たちに向けて語られた言葉なのはたしかだと思います。
    そうしたことから考えるに、不幸の最中にいて心が弱っている人々や拒否反応だけが先に立つ人々には惨く感じられる言葉でしょうし、すべての人々に対して強要されるものではないはずです。

    「我々次第であるもの」と「我々次第ではないもの」。
    つまり、自分の裁量でコントロールできることと出来ないことを分け、「我々次第であるもの」だけを欲望の対象とする、ことをストア派では説いています。
    また事実と評価を区別した上で、評価は「我々次第であるもの」であるとし、善用することを勧めています。

    個人的に感じるのは、ニーチェの運命愛の考え方ともそう遠くないように感じるのですが、パニチェさんはどんな印象を持たれますか?
引用返信/返信 削除キー/

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