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No36837 の記事


■36837 / )  ストア派
□投稿者/ 時 -(2024/03/17(Sun) 15:32:54)
    2024/03/18(Mon) 07:31:10 編集(投稿者)

    akaimiさん、パニチェさんへ。こんにちは。今回も少し、ストア派についての考察を書きたいと思いますが、もしも会話の流れ的にお邪魔なようでしたら、他に移しますので、仰っていただければと思います。

    https://www.l.u-tokyo.ac.jp/postgraduate/database/2008/597.html

    上記、論文をもとにした考察です。

    ストア派は、運命( 定義は、宇宙全体に行き渡り個々の事物を造り出す ロゴス=神 )論を説いたようですね。この場合、自由意志を否定するのではないか?という疑問が生じます。

    それならば、運命においては何を行為しても無駄(宿命論)になるという事に帰結する議論が生じ、それに対してクリュシッポスにより、運命論によっても自由意志の存在は否定されず、両者は問題なく両立するとみなす立場(両立論)が主張されました。

    ここでは、例え運命論であっても自由意志の存在は否定されないと言う両立論が展開されました。そしてその内容は、人間の行為(ないし同意・意欲)の決定的な原因は、各人の性向(性質の上での傾向。気質)にある点に自由意志を担保しようとしたものでした。

    つまりは、この性向こそが「本当の自分」だということですが、これは世界の一部であるとする世界観や人間観があると考えられるという事でしょう。

    一方、アカデメイア派のカルネアデスは、人間の心やその意志を「超自然的」なものとして捉えていましたが、一般的理解として少し無理があるでしょうか。一方、ストア派は、それらも「自然」の一部であるとみなしていましたので、こちらの方が理にかなってはいそうです。

    そして本来のアリストテレスの立場は、行為がそれぞれの人間の性向のあり方によって決定されるという点に「自由意志」の在り処を見る点でストア派に近いものだそうですが、それに反して、アレクサンドロスは、性向からも自由であるような選択可能性にこそ理性的な存在(運命論批判)としての人間の本質が存在すると考えました。

    しかし、はたして自己の性向からも自由であるような選択可能性はあるのでしょうか。

    自由意志による選択では、他の方法も選択できたという「選択可能性原理」は自明なように思われますが、近年では、決定論と自由意志の問題の根幹は、選択可能性原理の是非にあるのではなく、むしろ「自己」の捉え方の相違にあるという見方を提案されているようです。

    ・自己を「性向」と捉えると両立論の理解は可能になります。
    ・性向を「本当の自分」の外的なものであるとみなして、それからも自由であるという「自己」を求めるのであれば、非両立論になります。

    最後に、これがこの論文の哲学史的かつ哲学的な診断です。と締め括られています。

    ストア派よりに想いを書くと、自己が性向(性質の上での傾向。気質)という最終的な定義をもって終了するのならば、それはそれで問題ではありません。しかしその定義で言うのであれば、そこに自由な選択肢はありません。つまりは、自由意志による選択時の選択肢は、1つですね。なぜならば、自己選択がその性向によって決定していくのであれば、その選択肢は一つだからです。その選択肢が結果的にでも1つだけしかなかった場合、それは選択とは表現しません。つまりは、選択する自由は存在しませんね。個々人で過去を振り返ると、人生の岐路等において多くの選択肢があったように頭に浮かびますが、それらは妄想でしょう。なぜならば、実際に選ばれてきた道は一つなのですから。それを自覚なき運命と、私は呼んでいます。

    アレクサンドロスよりに想いを書くと、仏教でいうところの解脱や涅槃の境地に至った状態だと思います。ここでは「本当の自分・自己・私」等の一人称から解放されています。表現するのであれば、一切の繋縛のない自由な境地です。

    そして、ストア派の言うように、自己が性向(性質の上での傾向。気質)ならば、その性向自体は何に起因しているのか?、私は各人の遺伝子だと考えます。様々な遺伝子が、外界のその時々の様々な環境に反応して、選択肢のない一つの道を進んでいきます。そこに選択の自由はあるように思えても、実際にはないはずです。そしてその遺伝子は何に起因してるのか?私はそれこそ自然=神だと考えます。ここでいう神の定義は、全てです。

    しかし、私とは性向ですは、おかしな表現ですね。一方、私とは性向以外の存在ですも、おかしな表現です。私というのは、実生活上での便宜上の表現としての存在だけで、実在しません。ですからそれを知るものは、平安な境地での沈黙が保てます。
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