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No36826 の記事


■36826 / )  Re[37]: エピクテトス
□投稿者/ パニチェ -(2024/03/16(Sat) 15:53:04)
    akaimiさん、こちらこそ丁寧な返信をありがとうございます。

    No36821に返信(akaimiさんの記事)

    >>「人生で起こることは必然であり、それらには意味や価値がある」や、上記の「出来事が起こるように起こることを望みたまえ」という台詞の背後には神への信仰があるように思うのです。
    >>または苦難を乗り越えることができた勝者の言葉。

    > ストア派の哲学者たち、とりわけエピクテトスが「神」についてどのような考えでいたのか、についての明確なものを私はまだ掴めていません。
    > 少し調べたものによると、ストア派ではキリスト教的神とは違う汎神論的な神、宇宙の総体としての神を考えていたようです。
    > 引用したエピクテトスの言葉が神への信仰によるものなのか、またそれとは違うところから出ているものなのかについても明確なところは今はわかりません。
    > そのあたりについて私も知りたいと思い、別な本を読んでみようと思っているところです。

    もし何か分かりましたら、また教えて下さい。
    先のレスに関してはストア派やエピクテトス、また戦後の文脈からも切り離して、あの手の言説から思うところを述べさせてもらいました。

    >>最悪の状態で死を迎えた人、例えば一方的に無残な殺され方をした人たちにも同じことが言えるのか疑問です。
    >>死後世界や輪廻転生を認めれば、この価値観もひっくり返るかもしれませんが、死後や転生を無記としている(生を哲学の中心とする実存主義)私にはどうもそのように思えないんですねぇ〜。

    > 『提要』の残されているエピクテトスの言葉は、教え子が後に師の言葉としてまとめたもので、いわば前途と志あるおそらく若い人たちに向けて私塾で教えていた際に説かれたものだと思うのです。
    > 若い人たちだけに向けたかどうかは定かではなく壮年もいたかもしれませんが、志を持ち学びに集まってきた人たちに向けて語られた言葉なのはたしかだと思います。
    > そうしたことから考えるに、不幸の最中にいて心が弱っている人々や拒否反応だけが先に立つ人々には惨く感じられる言葉でしょうし、すべての人々に対して強要されるものではないはずです。

    同意です。

    > 「我々次第であるもの」と「我々次第ではないもの」。
    > つまり、自分の裁量でコントロールできることと出来ないことを分け、「我々次第であるもの」だけを欲望の対象とする、ことをストア派では説いています。
    > また事実と評価を区別した上で、評価は「我々次第であるもの」であるとし、善用することを勧めています。
    > 個人的に感じるのは、ニーチェの運命愛の考え方ともそう遠くないように感じるのですが、パニチェさんはどんな印象を持たれますか?

    少し調べました。

    『エピクテトスは、ちょうど彼が影響を受けたソクラテスや犬儒派と同じく、自らは著作を残さず、門弟のアリアノスの伝える言行録によってのみその活動と教説が知られる(これはコイネーで書かれている)。主人の暴力に対して、身体は衣服として見なして耐えたと伝えられているように、解放奴隷としての彼の前歴は、運命を受け入れ、感情に左右されない不動心(アパテイア)を保つ、ストア派の賢者にふさわしい逸話を提供している。(岩波『哲学・思想事典』よりの引用)』

    まさしく運命愛の先駆けですね。
    あと。。。。

    No36736に返信(akaimiさんの記事)

    > ■No36729に返信(akaimiさんの記事)
    >>===
    >>記憶しておくがよい。君を侮辱するのは、君のことを口汚く罵る者や君を殴る者などではなく、彼らが君を侮辱していると見なす、君の考え方なのである。
    >>誰かが君を怒らせるならば、その時は君自身の判断こそが君を怒らせたのだと知るがよい。
    >>だからこそ、まず何よりも心像によって拉致されないように努めよ。
    >>というのも、一度でよいから自分で考えてみる時間と余裕とを得るならば、君自身に打ち勝つのは簡単なことだろうから。

    >>(『提要』20)
    >>===
    >>『奴隷の哲学者エピクテトス 人生の授業 この生きづらい世の中で「よく生きる」ために』荻野弘之 著 p93より引用

    > ブッダの言葉で、このエピクテトスの言葉と共通すると思われるものがあったのを思い出しました。
    > 以下、以前に買って読んだ別の本から引用してみます。

    > ===
    > もし罵る者に罵りを、怒る者に怒りを、言い争う者に言い争いを返したならば、その人は相手からの食事を受け取り、同じものを食べたことになる。
    > わたしはあなたが差し出すものを受け取らない。
    > あなたの言葉は、あなただけのものになる。そのまま持って帰るがよい。

    > ─ 罵倒するバラモンとの対峙 サンユッタ・二カーヤ

    > ===『反応しない練習』草薙龍瞬 著 p99〜p100より引用

    akaimiさんが引用された言説から、私は以下のニーチェの言葉が思い浮かびました。

    『さらにこういう比喩を、わたしはきみたちに述べておく。自分たちの悪魔を追い払おいとして、かえって、みずからブタの群れの中へ入りこんだ者たちが、少なくないのだ。(ツァラトゥストラ 純潔について13−13)』

    『おまえはわたしのサルと呼ばれている。おまえ、口からあわをふいている阿呆よ。しかし、わたしはおまえをわたしのぶうぶうブタと呼ぼう、──ぶうぶうと不平を鳴らすことによって、おまえは私の痴愚礼賛までも、だいなしにしてしまうのだ。最初おまえにぶうぶう不平を鳴らせたゆえのものは、いったい何であったか?誰も充分追従してくれなかったということだ。──おまえがこんな汚物のもとに腰をすえるのは、大いにぶうぶうと不平を鳴らすための根拠を得んがためなのだ。──大いに復讐するための根拠を得んがためなのだ!つまり、おまえ、虚栄心の強い阿呆よ、おまえが口からあわを吹いているのは、すべての復讐なのだ。わたしはおまえの正体を見事に察知したのだ! … 中略 … だが、おまえ、阿呆よ、別れに際して、わたしはおまえにこういう教えを与えよう。もはや愛することのできない場合、とるべき態度は──通りすぎることだ!──ツァラトゥストラはこのように語って、阿呆と大都市のそばを通り過ぎた。(ツァラトゥストラ 通り過ぎることについて7−32)』

    『怪物と闘う者は、その過程で自分自身も怪物になることがないよう、気をつけねばならない。深淵をのぞきこむとき、その深淵もこちらを見つめているのだ。(善悪の彼岸 箴言と間奏第146番)』

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