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No36827 の記事


■36827 / )  Re[37]: エピクテトス
□投稿者/ パニチェ -(2024/03/16(Sat) 16:42:59)
    2024/03/16(Sat) 16:54:54 編集(投稿者)

    時さん、返信ありがとうございます。

    No36822に返信(時さんの記事)
    > パニチェさんへ。こんにちは。意見の交換という事で、有意義です。^^

    そう言っていただけると有難いです。^^

    > ■No36819に返信(パニチェさんの記事)

    > >>===
    > >>出来事が、君の望むように起こることを求めてはならない。
    > >>むしろ、出来事が起こるように起こることを望みたまえ。
    > >>そうすれば君は穏やかで幸福な生活を送れるだろう。

    >>「人生で起こることは必然であり、それらには意味や価値がある」や、上記の「出来事が起こるように起こることを望みたまえ」という台詞の背後には神への信仰があるように思うのです。
    >>または苦難を乗り越えることができた勝者の言葉。

    > 過去のakaimiさんのご投稿より

    > No36430
    > >自らに降りかかる苦難などの運命をいかに克服してゆくかを説く哲学を提唱した
    > >ストア派が関心を抱いていたのは、宇宙論的決定論と人間の自由意思との関係
    > >ストア派は自らの哲学を生活の方法として表し、個々人の哲学を最もよく示すものは発言内容よりも行動内容であると考えた

    > エピクテトスの属していたストア派の関心事は、宇宙論的決定論と人間の自由意思との関係であり、それは自らへ降りかかる苦難などの運命をどのように降伏していくかの哲学であり、それを生活の方法として表していると解釈しました。

    同意です。

    > 浅学での現在での私の理解では、ストア派は、基本的には汎神論的な思想であるが、同時に、人間は自由意志を持つという思想だろうと感じました。
    > ですので、人格神ではない、神への信仰がなかったとは言えないように思いますね。ただ、、それを信仰心と彼らが表現していたのかは疑問です。

    調べてみました。

    『ストア派の基本的な知見は、世界はロゴスと質料からできているとの主張に認められる。ロゴスが存在するすべての性質を規定し、質料はロゴスによる規定を受けとる。個々の存在するものの質料は世界全体の質料の一部であり、性質はロゴスによる規定の一部である。存在するものはすべて性質をともなった質料、すなわち物体である。物体はその性質によって他の物体に働きかけ、その働きかけに見合った結果を生ずる。外延において有限であるとともに、空虚を含んでいないこの世界の因果関係は必然的である。したがってロゴスは現にある世界を規定しているだけでなく、およそ時間的に実現する世界のあり方のすべてを因果的に規定していることになる。現にある世界に内在しつつ、将来起こるであろうことまで可能的に含んでいるこのようなロゴスのあり方が〈種子としてのロゴス〉(spermatikos logos)と言われる。ロゴスの内容がすべて実現し終えたとき、世界は一つの周期を終え、ふたたび初めから、寸分違わぬ世界を実現していく。(岩波『哲学・思想事典』よりの引用)』

    自由意志を認めているかどうかは不明ですが、基本的には時さんのご明察通りです!
    それにしてもニーチェの永劫回帰が上記のパクリか(笑)、それとも好意的に考えれば、ある精神状態で体得される共通の智慧(インスピレーション)なのか、私にはよく分かりません。
    以下はニーチェが破棄し死後に刊行された『力への意志』からの引用ですが、あまりにも似すぎです(笑)。

    『世界を、一定の力として、また一定数の力の中心として考えることが許されるとすれば──そしてあらゆるその他の考えはあくまで疑わしく、したがって役立ちえないとすれば──、このことから結論されるのは、世界は、その大々的なさいころ遊びをつづけながらも、算定しうる一定数の結合関係を通過しなければならないということである。無限の時間のうちではあらゆる可能な結合関係がいつかは達成されていたはずである。それのみではない、それらは無限回達成されていたはずである。しかも、あらゆる結語関係とその直後の回帰との間には総じてなお可能なその他すべての結合関係が経過したにちがいなく、これらの結合関係のいずれもが同一系列のうちで生ずる諸結合関係の全継起を条件づけているのであるから、このことで、絶対的に同一な諸系列の円環運動が証明されているはずである。すなわち、それは、すでに無限にしばしば反復された、また、無限にその戯れをたわむれる円環運動としての世界にほかならない。──こうした構想はただちに一つの機械論的構想ではない。なぜなら、もしそうであるとすれば、この構想が条件づけるのは、まったく同一の場合の無限の回帰ではなく、一つの終局状態となるからである。世界はそうした終局状態に達したことはかつてなかったという理由から、私たちは機械論を、不完全な、たんに暫定的にすぎない仮設とみなさざるをえないのである。(力への意志 第1066番)』


    > 一方で、私の学びましたアドヴァイタでの理解は、神のみが実在するという最終理解となりますので、現代で表現すると汎神論のみですので、そこに現代で表現される人間の自由意志は認められません。アドヴァイタでの理解が起これば、この世の一切の問題は消滅しますが、ストア派での思想では、そこに問題が残ります。なぜならば、そこに自由意志の存在を認めるからです。そして自由意志により必然的に起こった問題を、その自由意志で解決する方法(考え方)を説いていたのではないでしょうか。

    なるほど。

    > >>出来事が、君の望むように起こることを求めてはならない。
    > あなた都合での良い事ばかりを期待してはいけません。なぜならば、あなた都合での悪い事も起こるからです。

    > >>むしろ、出来事が起こるように起こることを望みたまえ。
    > そのようなことよりも、何かを望むのであれば、ありのままで起こる事象は、起こるべくして起こるのだという事を望みなさい。なぜならば、宇宙論的決定論で事は起こるのですから。

    > >>そうすれば君は穏やかで幸福な生活を送れるだろう。
    > 宇宙論的決定論で起こる事を理解できたのであれば、あなたは穏やかで幸せな生活を送れるでしょう。

    >>最悪の状態で死を迎えた人、例えば一方的に無残な殺され方をした人たちにも同じことが言えるのか疑問です。

    > 悲しみに暮れる親族に対して、通常は言わないでしょうし、言えないでしょう。ですが、仮にその親族が本当に何が原因でという事を真剣に知りたいと思われたのであれば、そしてそれを伝えるという運命にあるのであれば、賢者、聖者は、伝えると思います。
    > 命に価値など無いのだという事も含めてです。そして、その時その命が消えることも運命なのだという事をですが。

    理屈的には同意できます。
    以前にYahoo!掲示板で愚さんが(惨殺された少女の事件も含めて)全ては因果応報と語ったことに対して、複数の投稿者から猛烈な批判が出ていたことがあります。
    私は愚さんの言うところの因果応報というのは個々を超えたところの全体運動のことであって、個別の悪因苦果とか善因楽果のようなものではないと投稿しました。
    そういう次元では同意できますが、いざ自分の身内がそのような死に方をした時にもそのように割り切れるかと自問自答した時には、正直言って今のところ割り切れる自信がありません。

    > ですので、分類するのであれば、苦難を乗り越えることができた勝者の言葉。となるでしょうか。

    はい、これも同意です。

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