| 物事には、自分次第でできることとできないことがあります。きっとエピクテトスは自由人の哲学という事で、それら両者を分けて判断することを説いていたのでしょうか。
ここで前出のバスの中の人々について考察してみます。状況は以下の通りです。
> Xでのポストで流れてきた動画で、バスの中で座っている若い女性の斜め後ろで老人が立っていました。その老人の後ろにいた人が座っている若い女性に対して「席を譲ってあげなさい」と言い、無言のまま若い女性が立ち上がって席を変わってあげましたが、女性の片足が義足でした。結果、その場の空気が何とも言えないものに包まれました。
・義足の女性をA。席を譲られた老人をB。席を譲るように促した人をC。周りの乗客をDとします。
ここで自分自身でできることを判断し行為したのは、まずは席を譲るよう促したCです。それを受けて義足の女性Aが席を譲りました。それを受けてBが席に着こうとしました。
自分の外界に対しては思い通りの結果は基本的には期待できませんので、それを期待して発言したCの判断ミスです。しかし、義足の女性Aは外界(Cの発言)をそのまま受け入れて席を立ちました。この時、周りの乗客であるDは傍観していますので、外界に対して何も反応していません(無反応という反応とも言えます)そしてBは、自身の外界である席が空いたという事で席に着こうとしました。この場合も自らが席に座りたかったかったのであれば、その判断に間違いはないでしょう。
外界で起こるすべての事柄は、基本的に受け入れるしかありません。なぜならば、それらは自身の思いという自由意志でのコントロールが不可能だからです。唯一コントロールが可能とするの"ならば"、自身の内界である心の持ちようだと思います。
ここで再考察です。
事の発端は、(結果的に分かった)義足の女性Aに対して席を譲るように促したCです。自身の思いにより外界の状況を変えようとした行為です。
次には、自身でコントロール不可能な外界の状況を受け入れるしかない事柄に従ったのが義足の女性Aです。従っただけで外界に対して何も指示命令していません。
そして空いた席に着こうとした老人Bも、外界に対して何も指示命令せずに起こった事象に対して従っただけの行為です。
言うまでもなく、周りの乗客であるDもただ外界の事象を客観視していただけですので、何も指示命令していません。
・エピクテトス的発想での結論。
エピクテトスの教えが必要なのは、Aに対して席を譲るように促したCだけです。
・エピクテトス的発想での理想形。
この状況下での理想形は、それに気が付いた場合、義足の女性Aが後ろのご老人 Bに対して何の見返りも求めずに席を譲ることでしょう。(周りの乗客Dも同じことが言えます)
つまりは、自身の判断でのご老人に席を譲るという見返りを求めない瞬発的判断が善という事になるのでしょうか。(この場合、そんな年じゃない!と叱られても、見返りを求めていないのですから、これは失礼しました。の一言で、問題はありませんね。)
もしもエピクテトスがA,B,C,Dだったならば・・・
Aの場合、多分、それに気が付けば、Bに席を譲ろうとしたでしょう。 Bの場合、何も言わずに立っていたでしょう。 Cの場合、何も言わずに傍観していたでしょう。 Dの場合、同じく、何も言わずに傍観していたでしょう。
akaimiさんとの対話においての時の疎い考察ですので、ご返信は不要です。
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