(現在 過去ログ2 を表示中)

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

[ 最新記事及び返信フォームをトピックトップへ ]

■19125 / inTopicNo.1)  純粋理性批判を読んでみる。30
  
□投稿者/ パニチェ -(2021/11/19(Fri) 20:05:40)
    トピ主:pipitさん

    引き続きよろしくお願いします。


引用返信/返信 削除キー/
■19131 / inTopicNo.2)  パニチェさんへ
□投稿者/ pipit -(2021/11/19(Fri) 22:52:15)
    ありがとうございます!

    よろしくお願いします。
引用返信/返信 削除キー/
■19153 / inTopicNo.3)  宿題的な。。。
□投稿者/ pipit -(2021/11/20(Sat) 17:13:00)
    みなさま、こんばんは!
    No18604 からの流れで、書いた
    No18684のpipitの書き込み文に沿ったと思う引用をしてみました。

    >思考による内容空虚な編集の働きだから、感性による内容に依存して、各々唯一無二のコンテンツに仕上がってる。<

    No18750☆ 中島義道先生の解説文『カントの読み方』より引用

    >感性による内容は、カント的には、二値論理(真偽)の世界にあるものではなく、<

    No18844☆ 『純粋理性批判4』・『カント哲学の核心』御子柴善之先生より引用


    >しかも本当の感覚の生の接点、源泉点は、触発による受動。<
    >解説者の方が、文字通りの地動説としての回転という感じにおっしゃってた記憶あるけど、過去に引用してるので、そこらへんも絡めて書きたいと思ってます。<

    No18965☆ 柄谷行人さん『カント的転回』という記事より引用
    No19073☆ 『純粋理性批判3』より引用
    No19092☆『『純粋理性批判5』より引用

    & 本日、柄谷行人さん『カント的転回』から上記とは別箇所を引用します。

    (柄谷行人さんの解説文章)
    『たとえば、物自体・感性・悟性・理性・構想力といった概念は、カント以前から使われている。
    しかし彼は完全にそれらの意味を変えている。
    それは、コペルニクスが地球や太陽として見い出すものが、それまでのものと違って、ある構造の中で項として見出されたものだというのと同じである。
    のちにいうように、われわれは別にこれらの概念を用いなければならないことはない。
    重要なのはカントが提示した超越論的な構造であり、むしろそれこそが「コペルニクス的転回」と呼ばれるべきである。』
    現代思想1994年3月臨時増刊号p10より引用。


    >ある構造の中で項として見出されたもの<

    というのが面白いなーと思いました。
    何かを置く、基準、関係、などの言葉が今のpipitの頭に浮かびます。

    以上で
    No18684
    >その前に自分の中で宿題になってるものを書くかな。
    引用などをして、形にしてみたいと思ってます。<

    と自分で思っていた『宿題』を終わります!

引用返信/返信 削除キー/
■19155 / inTopicNo.4)  宿題的な。。。日記。。。
□投稿者/ pipit -(2021/11/20(Sat) 17:27:37)
    No18684
    >今思いついてるアイデアは、例えば『旅館』という働きをオートポイエーシスシステムとして描くことです。
    全然アイデア倒れになるかもだけど、ちょっと考えてみたいと思ってます。<

    おおぅ、もう一つ、宿題発見。。。

    今日は、いつもと違う仕事内容で疲れた。。。

    休憩ー☆彡
    https://youtu.be/7Sf2E3U8EnA
    ♪ 月が綺麗
    上北健さん
引用返信/返信 削除キー/
■19157 / inTopicNo.5)  超越論的感性論 第三項:W−2
□投稿者/ うましか -(2021/11/20(Sat) 18:35:52)
    2021/11/20(Sat) 18:38:11 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんはー

    ≪純粋理性批判を読んでみる。30≫、おじゃまします!(/・ω・)/

    *******

    T 超越論的原理論
    第一部門 超越論的感性論
    第一節 空間について
    第三項 空間概念の超越論的論究

    ◆ 私は超越論的論究≠ニいうことを、他のア・プリオリな綜合的諸認識の可能性がそこから洞察されうる原理としての或る概念の説明と理解する。このために必要なのは、1) 現実に、そうした諸認識が、その与えられた概念から出てくるということ 2) これらの諸認識は、この概念の与えられた説明様式を前提してのみ可能であるということである。

     ※1 「原理としての概念 (前提) → ア・プリオリな綜合的認識」を可能とするような、その概念の説明様式(超越論的〜)

    --- No.18802からの続き---

    ◇ 幾何学は空間の諸固有性を綜合的にしかもア・プリオリに規定する一つの学である。空間についてのそのような認識が可能であるためには、いったい空間の表象はいかなるものでなければならないのであろうか?

    ◇空間は根源的に直観でなければならない。なぜなら単なる概念からはその概念を越えて出ていくいかなる命題も引きだされ得ないが、それでもこのことが幾何学においては行われるからである。(序論V 〔*1〕)

     *1 原佑訳上巻、p.107〜 第二版序論「V 理性のすべての理論的学のうちにはア・プリオリな綜合的判断が原理として含まれている」

    ◇しかし、この直観は、ア・プリオリに、言いかえれば対象のあらゆる知覚に先立って私たちの内に見いだされなければならない。したがって純粋な直観でなければならず、経験的な直観であってはならない。

     ※1 根源的な直観としての「空間」
     ※2 この直観=空間は、対象のあらゆる知覚に先立ち、ア・プリオリに私たちの内に見いだされなければならない。したがってこの空間は純粋な直観である。

    ◇なぜなら幾何学的な諸命題はことごとく確然的であり、言いかえればそれらの諸命題の必然性の意識と結びついているからである。例えば、「空間は三次元のみを持っている〔der Raum hat nur drei Abmessungen〕」という命題がそうである。だが、このような諸命題は経験的な判断ないしは経験判断〔empirische oder Erfahrungsurteile〕ではあり得ず、またこれらの判断から推理され得もしない。(序論U〔*2〕)

     *2 原佑訳上巻、p.82〜 第二版序論「U私たちは或る種のア・プリオリな認識を所有しており、だから普通の悟性ですらそうした認識をけっして欠いてはいない」


    † 原佑訳上巻、p.153〜p.154参照
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳は参照しますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    W−1 No.18802、W−2 No.19157
    V−7 No.18378、V−8 No.18764
    V−4 No.17945、V−5 No.18058、V−6 No.18323
    V−1 No.17515、V−2 No.17588、V−3 No.17841
    U−1 No.16741、U−2 No.16783
    T−1 No.16440、T−2 No.16454、T−3 No.16495

    *******

    第一項 No.16440,16454,16495,16741,16783
    第二項 No.17515,17588,17841,17945,18058,18323,18378,18764
    第三項 No.18802,19157

引用返信/返信 削除キー/
■19169 / inTopicNo.6)  寄り合いメザシ日記
□投稿者/ pipit -(2021/11/20(Sat) 21:13:03)
    うましかさん読解おつかれさま!
    タフだなー 

    pipitは今日疲れて、カント先生の文章を読む気力が。。。

    というわけで、
    「寄り合い」ワードで思い出したエピソードを。。。


    昔々(江戸時代?)、村の法事でメザシ(魚)を食事に出す、ってなって

    メザシ用意する人に、ある人は「メザシは黒(よく焼いたの)にかぎる!」って言って、
    別の人は、「メザシは白(焼きすぎてないの)にかぎる!」って言って、

    用意する人はどちらにもニコニコ「はいはい」って返事してたから、
    周りの人が、あの人どっちの意見きくんやろー、って思ってたら、

    お皿には、よく焼いたメザシ(黒)と、あまり焼いてないメザシ(白)が一匹ずつ乗ってた、って話。

    なんかおもしろいなーと、なぜか?心に残ってるエピソードです。

    というわけで、今日はつかれたよー 
    おやすみなさいかもでおやすみなさーい おつかれさま! 
     (( _ _ ))..zzzZZ
引用返信/返信 削除キー/
■19178 / inTopicNo.7)  モーニングメザシ&ラーメン日記(;´・ω・)
□投稿者/ うましか -(2021/11/21(Sun) 09:54:42)
    pipitさん、おはようございますー

    >タフだなー

    (・・;) タフでしょうか?。。。

    江戸時代?の村の「寄り合い」で提供されるメザシの焼き加減についてのエピソード。想像してみますー(・∀・)

    うましかの鼻腔をくすぐる香ばしいにおいが〜

    さて、こういう場合、用意する人(村に任された人?)ってたいへんだなあとおもいます、とくに用意する役の司令塔を任された人は。ニコニコできる人って尊敬します。

    >お皿には、よく焼いたメザシ(黒)と、あまり焼いてないメザシ(白)が一匹ずつ乗ってた

    黒・白だけならいいですけどねー 焼き加減だからなー

    状況がことなりますが、

    私の知人で、いっしょにラーメン屋さんにいくと、スープの濃淡や麺の固さをいろいろ注文する人がいます。お店もたいへんだなーとおもいますね。

    職人芸的な匙加減によるのか基準となる数量があるのか分かりませんが、客の味覚や好みもあることですし。とはいえ客の味覚や好みだって、店側によって変容していく可能性もあるのでしょうね、でも当の客はそれを"自分の"の好みに合っていると感じるとか(;´・ω・)


    あー
    朝からなぜかラーメンスープ沼に沈んでいく〜(/・ω・)/












引用返信/返信 削除キー/
■19216 / inTopicNo.8)  超越論的感性論 第三項:W−3
□投稿者/ うましか -(2021/11/21(Sun) 17:48:21)
    2021/11/21(Sun) 17:49:27 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんはー(/・ω・)/

    *******

    ◆幾何学は空間の諸固有性を綜合的にしかもア・プリオリに規定する一つの学である。空間についてのそのような認識が可能であるためには、いったい空間の表象はいかなるものでなければならないのであろうか?空間は根源的に直観でなければならない。なぜなら単なる概念からはその概念を越えて出ていくいかなる命題も引きだされ得ないが、それでもこのことが幾何学においては行われるからである(序論V)。しかし、この直観は、ア・プリオリに、言いかえれば対象のあらゆる知覚に先立って私たちの内に見いだされなければならない。したがって純粋な直観でなければならず、経験的な直観であってはならない。なぜなら幾何学的な諸命題はことごとく確然的であり、言いかえればそれらの諸命題の必然性の意識と結びついているからである。例えば、「空間は三次元のみを持っている」という命題がそうである。だが、このような諸命題は経験的な判断、ないしは経験判断ではあり得ず、またこれらの判断から推理され得もしない(序論U)。

    --- No.19157からの続き---

    ◇ ところで、客観自身〔Objekten selbst〕に先行し、だから客観の概念がそこではア・プリオリに規定され得るような或る外的直観〔aussere Anschauung〕は、いかにして心〔Gemuete〕に内在し〔beiwohnen*1〕得るのであろうか?明らかにこの外的直観が客観によって触発され、だからこのことによって客観の直接的な表象〔unmittelbare Vorstellung〕≠、言いかえれば直観≠得る主観の形式的な性質として、単にこの主観の内にその座〔Sitz〕を占める限りにおいて、それゆえ外的な感官一般の形式としてのみその座をしめる限りにおいて以外ではあり得ない。

     *1 beiwohnen か bewohnen か? 原典ではbei−だが、和訳、英訳ではbe-のニュアンス(内在する、inhabit、dwell in、exist in等)で訳しているようですが(;´・ω・) ちなみに原典にbewohnenは使用されておらず、他の箇所(例:原佑訳上巻p.128)でのbeiwohnen についても原佑訳では「内在している」と訳されています。

    ◇ それゆえ、私たちの説明〔Erklaerung〕だけがア・プリオリな綜合的認識としての幾何学の可能性≠明白ならしめるのである。このことをなし得ないいずれの説明様式〔Erklaerungsart〕も、たとえ外見上は私たちの説明といくらか類似しているにせよ、この特徴で私たちの説明から最も確実に区分され得る。


    † 原佑訳上巻、p.154参照
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳は参照しますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    W−1 No.18802、W−2 No.19157、W−3 No.19216
    V−7 No.18378、V−8 No.18764
    V−4 No.17945、V−5 No.18058、V−6 No.18323
    V−1 No.17515、V−2 No.17588、V−3 No.17841
    U−1 No.16741、U−2 No.16783
    T−1 No.16440、T−2 No.16454、T−3 No.16495

    *******

    第一項 No.16440,16454,16495,16741,16783
    第二項 No.17515,17588,17841,17945,18058,18323,18378,18764
    第三項 No.18802,19157,19216

引用返信/返信 削除キー/
■19219 / inTopicNo.9)  謎沼探検記(;´・ω・) − 5
□投稿者/ うましか -(2021/11/21(Sun) 20:29:18)
    2021/11/21(Sun) 20:38:34 編集(投稿者)

    pipitさん、沼っす!(`・ω・´)ゞ

    今後は、山下本のまとめ「謎沼探検記(;´・ω・)」をナンバリングしていきますー

    No.18527 は1、 No.18608  は2、 No.18670 は3、 No.18758 は4とします (・ω・)ノ
    今回の No.19219 は5です。


    ******* 山下和也 『カントとオートポイエーシス』*******

    ◇序 カント認識論とオートポイエーシス

    ◇第一章 オートポイエーシス論
    ■第一節 経緯
    ・1960年、マトゥラーナは生物学博士号をとりチリに帰国、チリ大医学生に生物の起源について講義していたなか学生から受けた「35億年前に生命が始まったとき何が起きたのか」という質問を機に、生命のシステムの特徴について考察しはじめ、思いついたのが「生命システムの、すべてが自身との関連について起きるという自律性であった。
    ・1961年からは、マトゥラーナは生命システムを自己言及(self-referring)と呼んだ。ただし、彼はシステム自体とシステム・環境関係を区別する必要を感じていたのでこの表現に満足できなかった。
    ■第二節 定義
    ・オートポイエーシスを原理として成立するシステムを「オートポイエーシス・システム」と言う。
    ・「オートポイエーシス・システム」の定義とは・・・
    「構成素(component)を産出する構成素を産出(変形あるいは破壊)するプロセスのネットワークとして組織された(単位体として定義された)マシンであり、構成素は(@)その相互作用と変形を通じ、自身を産出するプロセス(関係)のネットワークを再生し実現する、そして(A)それ(マシン)を、自身(構成素)が存在する空間において、そうしたネットワークとしてのその実現の位相的領域を特定することで、構成する」〔p.4〕
    ・上記の定義は、山下によれば一見して分かりづらく、しかも言いたいことの内実が表現しきれていない。「産出」「連鎖」「循環」「閉鎖」というキーワードを使った山下による定義は次のようになる。・・・
    「オートポイエーシス・システムとは、産出物が次の産出プロセスを作動させる仕方で連鎖する産出群が作るネットワークの、循環的に作動して閉鎖した自己完結的閉域である。閉域形成に参与する産出物をシステムの構成素と呼ぶ」〔p.5参照〕
    ・APシステムの分かりやすい例とは、細胞システム(※ただし細胞そのものではない)。
    ■第三節 基本概念
    ・「コード」
    ・「構造的ドリフト」
    ・「構造変動」
    ・「メタモルフォーゼ」
    ・「システムの環境」
    ・「相互浸透」
    ・「攪乱」
    ・「構造的カップリング」
    ・「カップリング・システム」
    ・すべてのオートポイエーシス・システムに共通な性質・・・@個体性、A単位性、B自律性、C入力・出力の不在
    ・「言及システム」・・・ (元のシステムに対する新しいシステムとして)一階言及システム、二階言及システム〜

    ◇第二章 理性と認識システム
    ・オートポイエーシスの認識論の基本となる三つのシステム、生命システム、意識システム、認識システムと、カントのあげる三つの認識能力、感性、悟性、理性との対応を考える
    ・この図式が山下の展開する認識論の基礎となる。〔p.15〕
    ■第一節 三つのシステム 生命・意識・認識
    ・生命システム・・・認識を考える場合の出発点
    ・生命システムとは、生体器官を構成素とし、身体を構造とするAPシステムである。
    ・意識システム・・・脳における自己言及に基づく生命システムの一階言及システム。表象を構成素とするシステム
    ・認識システム・・・生命システムからは二階言及、意識システムからは一階言及のシステム
    ・認識システムとは、認識表象を構成素とし、認識を構造とする。
    ■第二節 感性・悟性・理性
    ・カントによる人間の認識(能力)
    「すべての我々の認識は感官に始まり、そこから悟性に進み、理性で終わる、理性を超えて、直観の素材を加工し、思惟の最高の統一の下へともたらす、より高次のものは我々のうちに見いだされない」(B355)
    「人間の認識には、おそらくは共通の、しかし我々には未知な根から生える二つの幹がある、すなわち、感性と悟性である。前者によって我々に対象が与えられ、後者によってしかし思惟される」(B29)
    ・山下のイメージでいえば、感性と悟性とによって個別の認識が成立し、理性によってそれが体系化される。

    ◇第三章 批判と二つの視点
    ■第一節 オートポイエーシスの二つの視点
    ■第二節 カント認識論の構図
    ■第三節 現象と物自体を区別する者
    ・カントは内官の対象である主観と、外観の対象である外的現象に関して、現象としてのあり方とそれ自体としてのあり方を区別する。
    ・後者(外観の対象)に対しては、現象と物自体の区別となる。
    ・ここで、区別している、いわば「カントの私」は、いかなる資格の私なのか?… 純粋理性としての私?純粋統覚としての私?自体的な私?内官の対象である主観としての私?
    ・現象と物自体の区別は、我々にとって認識されうるものと認識されえないものの区別である。
    ・あるものが認識されえないと言えるためには、少なくともそのものが存在することは知られていなければならない。しかし、「認識不可能な物自体の存在をカントはいかにして語ることができるのか?」
    ・上の問いに対する解釈二例。カウルバッハのパースペクティブ論とアディッケスの議論 → 両者とも、二世界解釈ではなく二側面解釈であり、物自体というあり方の事実性を否定しない。
    ■第四節 『純粋理性批判』における二つの視点

    ◇第四章 自我とシステム
    ■第一節 システムの自己
    ■第二節 統覚論とオートポイエーシス
    ■第三節 『オプス・ポストゥムム』の自己措定論

    ◇第五章 感覚と攪乱
    ■第一節 ロックとヒュームの感覚論
    ■第二節 感覚の主観性
    ■第三節 感覚の客観性
    ■第四節 オートポイエーシス論の攪乱概念と感覚

    ◇第六章 カテゴリーと概念コード
    ■第一節 認識システムの概念コード
    ■第二節 カントのカテゴリー
    ■第三節 概念コードとカテゴリー − 超越論的演繹論から −
    ■第四節 カテゴリーの超越論的演繹 − オートポイエーシス論から見て −

    ◇第七章 物自体と認識システムの環境
    ■第一節 カントの物自体
    ■第二節 システムの環境と認識
    ■第三節 認識システムの環境としての物自体

    ◇第八章 超越論的観念論とラディカル構成主義
    ・この章では、カント超越論的観念論とAP論的構成主義の認識論の比較しカントの記述通りに理解することを試みる。
    ・エルンスト・フォン・グレーザーズフェルドのラディカル構成主義をカントの議論と比較する。
    ■第一節 カントの超越論的観念論
    ■第二節 現象の主観性
    ■第三節 ラディカル構成主義
    ・グレーザーズフェルドによれば、ラディカル構成主義とは、「知識をどのように定義したところで、知識は人の頭の中に存しており、思考自体は自らの経験を基礎として自ら知っていることを構成する以外に他にないという前提から出発する。」
    ・「われわれが経験を用いて構成しているものは、われわれが意識しながら生きている唯一の世界をなす。それは、事物、自我、他者などのような多くの種類に分類することが可能だ。」
    ・「しかしあらゆる種類の経験は本質的に主観的なものである。」〔p.139〜p.140〕
    ・山下によれば、ラディカル構成主義の基本的な主張とは、「我々が経験している世界は我々が構成したもの」である。
    ■第四節 超越論的観念論再考

    ◇第九章 超越論的自由と自律性
    ■第一節 第三アンチノミーにおける超越論的自由
    ■第二節 オートポイエーシスの自律性
    ■第三節 認識システムの自由

    ◇結 論 認識論の完成に向けて

    *******

    No.18527,18608,18670,18758,19219

引用返信/返信 削除キー/
■19242 / inTopicNo.10)  謎沼探検記(;´・ω・) − 6
□投稿者/ うましか -(2021/11/23(Tue) 10:06:28)
    2021/11/23(Tue) 10:08:20 編集(投稿者)

    pipitさん、沼っす!(`・ω・´)ゞ

    ******* 山下和也 『カントとオートポイエーシス』*******

    ◇序 カント認識論とオートポイエーシス


    ◇第一章 オートポイエーシス論 ・・・ p.1〜p.14
    ■第一節 経緯
    ・1960年、マトゥラーナは生物の起源について講義していたなか医学生から受けた「35億年前に生命が始まったとき何が起きたのか」という質問を機に、生命のシステムの特徴について考察しはじめ、思いついたのが、生命システムの、すべてが自身との関連について起きるという自律性であった。
    ・1961年からは、マトゥラーナは生命システムを自己言及(self-referring)と呼んだ。ただし、彼はシステム自体とシステム・環境関係を区別する必要を感じていたのでこの表現に満足できなかった。
    ・1963年、マトゥラーナは微生物学者との対話により、DNAがタンパク質の合成に関与し、タンパク質はDNAの合成に関与するという生命システムの循環性に気づく。
    ・1964年から、マトゥラーナは生命システムを「その内ではそれを構成する産出以外、すべてが変化しうる分子産出の循環的システムとして、相互作用の単位あるいは存在者として構成されたシステム」と定義し始める。その一方で、ハトの色覚の実験を通じて、いわゆる神経システムが閉じたネットワークであることに気づく。
    ・1967年、マトゥラーナは分子産出システムとしての生命システムも神経システムも閉じていることを発見。
    ・1968年、マトゥラーナはネオ・サイバネティクスの権威であるフェルスターから招待され、1969年に「認知の神経生理学」を主題に発表するよう依頼される。この中で、生命システムは分子産出の循環的システムとして単位として構成されたシステムであるという構想を発表。
    ・1972年、マトゥラーナは共同研究者のヴァレラから形式化への示唆も受けて、マトゥラーナがこの構想を完成させスペイン語の論文「生命の機構と性質について」を発表。この論文を執筆中、マトゥラーナは友人との会話を通じて「オートポイエーシス」という造語を思いつく。
    ・1980年、マトゥラーナはヴァレラと『オートポイエーシスと認知』を出版。「生命の機構と性質について」の英訳を添えた。
    ・1987年、マトゥラーナとヴァレラは、入門書的な意味合いをもつ『知恵の樹 − 人間知性の生物学的根源』を英語で出版。
    ■第二節 定義
    ・オートポイエーシスを原理として成立するシステムを「オートポイエーシス・システム」という。
    ・「オートポイエーシス・システム」の定義とは、「構成素(component)を産出する構成素を産出(変形あるいは破壊)するプロセスのネットワークとして組織された(単位体として定義された)マシンであり、構成素は(@)その相互作用と変形を通じ、自身を産出するプロセス(関係)のネットワークを再生し実現する、そして(A)それ(マシン)を、自身(構成素)が存在する空間において、そうしたネットワークとしてのその実現の位相的領域を特定することで、構成する」〔p.4〕
    ・上記の定義は、山下によれば一見して分かりづらく、しかも言いたいことの内実が表現しきれていない。「産出」「連鎖」「循環」「閉鎖」というキーワードを使った山下による定義とは、「オートポイエーシス・システムとは、産出物が次の産出プロセスを作動させる仕方で連鎖する産出群が作るネットワークの、循環的に作動して閉鎖した自己完結的閉域である。閉域形成に参与する産出物をシステムの構成素と呼ぶ」〔p.5参照〕
    ・APシステムの分かりやすい例とは、細胞システム(※ただし細胞そのものではない)。
    ■第三節 基本概念
    ・「コード」
    ・「構造的ドリフト」
    ・「構造変動」
    ・「メタモルフォーゼ」
    ・「システムの環境」
    ・「相互浸透」
    ・「攪乱」
    ・「構造的カップリング」
    ・「カップリング・システム」
    ・すべてのオートポイエーシス・システムに共通な性質・・・@個体性、A単位性、B自律性、C入力・出力の不在
    ・「言及システム」・・・ (元のシステムに対する新しいシステムとして)一階言及システム、二階言及システム〜


    ◇第二章 理性と認識システム ・・・ p.15〜p.34
    ・オートポイエーシスの認識論の基本となる三つのシステム、生命システム、意識システム、認識システムと、カントのあげる三つの認識能力、感性、悟性、理性との対応を考える。
    ・この図式が山下の展開する認識論の基礎となる。〔p.15〕

    ■第一節 三つのシステム 生命・意識・認識
    ・生命システムとは、認識を考える場合の出発点。
    ・生命システムとは、生体器官を構成素とし、身体を構造とするAPシステム。
    ・意識システムとは、脳における自己言及に基づく生命システムの一階言及システム。表象を構成素とするシステム
    ・認識システムとは、生命システムからは二階言及、意識システムからは一階言及のシステム。
    ・認識システムとは、認識表象を構成素とし、認識を構造とする。
    ■第二節 感性・悟性・理性
    ・カントによる人間の認識(能力)
    「すべての我々の認識は感官に始まり、そこから悟性に進み、理性で終わる、理性を超えて、直観の素材を加工し、思惟の最高の統一の下へともたらす、より高次のものは我々のうちに見いだされない」(B355)
    「人間の認識には、おそらくは共通の、しかし我々には未知な根から生える二つの幹がある、すなわち、感性と悟性である。前者によって我々に対象が与えられ、後者によってしかし思惟される」(B29)
    ・山下のイメージでいえば、感性と悟性とによって個別の認識が成立し、理性によってそれが体系化される。


    ◇第三章 批判と二つの視点 ・・・ p.35〜p.52
    ■第一節 オートポイエーシスの二つの視点
    ・河本によれば、オートポイエーシス論を認識論的にみたときに決定的な区別とは、@システムそのものにとって(fuer sich)の視点と、A観察者にとって(fuer uns)の視点である。
    ■第二節 カント認識論の構図
    ■第三節 現象と物自体を区別する者
    ・カントは内官の対象である主観と、外観の対象である外的現象に関して、現象としてのあり方とそれ自体としてのあり方を区別する。
    ・後者(外観の対象)に対しては、現象と物自体の区別となる。
    ・ここで、区別している、いわば「カントの私」は、いかなる資格の私なのか?… 純粋理性としての私?純粋統覚としての私?自体的な私?内官の対象である主観としての私?
    ・現象と物自体の区別は、我々にとって認識されうるものと認識されえないものの区別である。
    ・あるものが認識されえないと言えるためには、少なくともそのものが存在することは知られていなければならない。しかし、「認識不可能な物自体の存在をカントはいかにして語ることができるのか?」
    ・上の問いに対する解釈二例。カウルバッハのパースペクティブ論とアディッケスの議論 → 両者とも、二世界解釈ではなく二側面解釈であり、物自体というあり方の事実性を否定しない。
    ■第四節 『純粋理性批判』における二つの視点


    ◇第四章 自我とシステム ・・・ p.53〜p.68
    ■第一節 システムの自己
    ■第二節 統覚論とオートポイエーシス
    ■第三節 『オプス・ポストゥムム』の自己措定論


    ◇第五章 感覚と攪乱 ・・・ p.69〜p.92
    ■第一節 ロックとヒュームの感覚論
    ■第二節 感覚の主観性
    ■第三節 感覚の客観性
    ■第四節 オートポイエーシス論の攪乱概念と感覚


    ◇第六章 カテゴリーと概念コード ・・・ p.93〜p.114
    ■第一節 認識システムの概念コード
    ■第二節 カントのカテゴリー
    ■第三節 概念コードとカテゴリー − 超越論的演繹論から −
    ■第四節 カテゴリーの超越論的演繹 − オートポイエーシス論から見て −


    ◇第七章 物自体と認識システムの環境 ・・・ p.115〜p.130
    ■第一節 カントの物自体
    ■第二節 システムの環境と認識
    ■第三節 認識システムの環境としての物自体


    ◇第八章 超越論的観念論とラディカル構成主義 ・・・ p.131〜p.150
    ・この章では、カント超越論的観念論とAP論的構成主義の認識論の比較しカントの記述通りに理解することを試みる。
    ・エルンスト・フォン・グレーザーズフェルドのラディカル構成主義をカントの議論と比較する。

    ■第一節 カントの超越論的観念論
    ■第二節 現象の主観性
    ■第三節 ラディカル構成主義
    ・グレーザーズフェルドによれば、ラディカル構成主義とは、「知識をどのように定義したところで、知識は人の頭の中に存しており、思考自体は自らの経験を基礎として自ら知っていることを構成する以外に他にないという前提から出発する。」
    ・「われわれが経験を用いて構成しているものは、われわれが意識しながら生きている唯一の世界をなす。それは、事物、自我、他者などのような多くの種類に分類することが可能だ。」
    ・「しかしあらゆる種類の経験は本質的に主観的なものである。」〔p.139〜p.140〕
    ・山下によれば、ラディカル構成主義の基本的な主張とは、「我々が経験している世界は我々が構成したもの」である。〔p.139〜p.140〕
    ■第四節 超越論的観念論再考


    ◇第九章 超越論的自由と自律性 ・・・ p.151〜p.170
    ■第一節 第三アンチノミーにおける超越論的自由
    ■第二節 オートポイエーシスの自律性
    ■第三節 認識システムの自由


    ◇結 論 認識論の完成に向けて ・・・ p.171〜p.175

    *******

    No.18527,18608,18670,18758,19219,19242

引用返信/返信 削除キー/
■19273 / inTopicNo.11)  カタツムリダウン日記
□投稿者/ pipit -(2021/11/23(Tue) 13:50:50)
    No19178
    うましかさん、こんにちは!
    三半規管の機能がdown↓して、寝込んでました。。。
    今回はキツかったー
    ですが、現在回復基調!
    ゴロゴロ好きなことしてます。_(┐「ε:)_


    > 私の知人で、いっしょにラーメン屋さんにいくと、スープの濃淡や麺の固さをいろいろ注文する人がいます。お店もたいへんだなーとおもいますね。<

    店主によっては怒られそう(^◇^;)

    > 職人芸的な匙加減によるのか基準となる数量があるのか分かりませんが、客の味覚や好みもあることですし。とはいえ客の味覚や好みだって、店側によって変容していく可能性もあるのでしょうね、でも当の客はそれを"自分の"の好みに合っていると感じるとか(;´・ω・)<

    あー、なんか、おもしろいです。
    うーん、働かない頭では言葉が浮かばないけど、
    、、、乗せられてた?
    現象っておもしろいなぁ。。。


    > あー
    > 朝からなぜかラーメンスープ沼に沈んでいく〜(/・ω・)/<

    ラーメン食べたい、かな?と思うくらいに回復ー
    今、なぜか、とんこつ博多ラーメンの細麺思い出しましたー
    紅生姜ー 高菜ー ☆彡
引用返信/返信 削除キー/
■19274 / inTopicNo.12)  Re[6]: 超越論的感性論 第三項:W−3
□投稿者/ pipit -(2021/11/23(Tue) 13:53:59)
    No19216
    タフいー
    うましかさん、純理読解おつかれさま!

    > ◇ ところで、客観自身〔Objekten selbst〕に先行し、だから客観の概念がそこではア・プリオリに規定され得るような或る外的直観〔aussere Anschauung〕は、いかにして心〔Gemuete〕に内在し〔beiwohnen*1〕得るのであろうか?明らかにこの外的直観が客観によって触発され、だからこのことによって客観の直接的な表象〔unmittelbare Vorstellung〕≠、言いかえれば直観≠得る主観の形式的な性質として、単にこの主観の内にその座〔Sitz〕を占める限りにおいて、それゆえ外的な感官一般の形式としてのみその座をしめる限りにおいて以外ではあり得ない。
    >
    >  *1 beiwohnen か bewohnen か? 原典ではbei−だが、和訳、英訳ではbe-のニュアンス(内在する、inhabit、dwell in、exist in等)で訳しているようですが(;´・ω・) ちなみに原典にbewohnenは使用されておらず、他の箇所(例:原佑訳上巻p.128)でのbeiwohnen についても原佑訳では「内在している」と訳されています。<

    うましかさん、すごいなー(*^ω^*)
    私はドイツ語全然知らないので、
    beiwohnen とbewohnenの違いがわからないのですが、翻訳アプリDeepl無料版で翻訳してみると、
    (ドイツ語→日本語)
    beiwohnen →アテンダンス アテンダント 出席
    bewohnen →レジデント 住んでいる 居住

    (ドイツ語→英語)
    beiwohnen →attend
    bewohnen →inhabit

    同上箇所を中山元先生訳から引用しますね。
    『ところでこの[空間という]外的な[事物のための]直観は、さまざまな客体そのものに先立つとされているし、ここ[空間という外的な事物のための直観]において対象の概念がアプリオリに規定されるのだとされているのであるが、それではこうした外的な[事物のための]直観はどのようにして心のうちに宿ることができるのであろうか?それは明らかにこの外的な[事物のための]直観が、主体の外的な感覚一般の形式として、まさに主体のうちにその座を占めているからである。すなわち主体が客体から触発された際に、主体はこれらの客体の直接的な像、すなわち直観を獲得するのであり、この[空間という]外的な[事物のための]直観は主体のそのような形式的な特性として、主体のうちに存在しているのである。』
    『純粋理性批判1』カント、中山元先生訳、p85より引用。(B41あたり)

    ふむふむー
    違うかもだけど、
    @beiwohnen だと、現在の言葉の意味だと、他所者が参加してる感じで、
    Abewohnen だと、いつも同居な感じで、

    カントの原語は、@beiwohnen の方が使われてるのに、
    翻訳は、Aの『内在』的な言葉で訳されてることがほとんど、ってことかなー。

    中山元先生は、
    『それではこうした外的な[事物のための]直観はどのようにして心のうちに宿ることができるのであろうか?』
    で、【宿る】と訳されてますね。

    今浮かんだ私見ですが、
    「どっから来たと思う?」beiwohnen?
    「内から!」bewohnen !
    ってニュアンスはどうでしょう?

    beiwohnen と bewohnen の相違に目がいくうましかさん。。。

    タフいー (/・ω・)/

引用返信/返信 削除キー/

次の12件>

トピック内ページ移動 / << 0 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 >>

レス数の限度を超えたのでレスできません。

(レス数限度:100 現在のレス数:101) → [トピックの新規作成]
Mode/  Pass/

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -