□投稿者/ pipit -(2021/11/18(Thu) 23:05:04)
| みなさまこんばんは ☆彡
■No18965 > (略) > 上記引用カント文章の中山元先生訳も読みたいと、ふらふらと探しているのですが、お目当ての文章はまだ見つけられてないのですが、<
根性ーーー(=゚ω゚)ノ
見つけましたので引用します。 『純粋理性批判5』カント、中山元先生訳、p171より引用、B522あたり。
※後で再引用する篠田英雄先生訳との対比がしやすいように、pipitが勝手に番号つけちゃいますm(_ _)m
(カントの文章) 『 @感性的な直観の能力は、ほんらいは受容性にすぎず、 ある方法で像によって触発されることのできる能力である。
Aそしてさまざまな像のあいだの関係が、空間と時間という純粋な直観であり、これはわたしたちの感性の純粋な形式である。
Bこれらの像は、空間と時間との関係において、経験の統一の法則にしたがって結合して規定できるものである場合には、それを対象と呼ぶことができる。
Cこのような像が感覚能力によらずに発生するとしても、その原因はわたしたちにはまったく知られておらず、わたしたちはこのような像を〈客体〉として直観することはできない。
Dこうした対象は空間のうちにも、時間のうちにも(空間も時間も、感覚能力によって像が可能となるための形式的な条件である)、思い浮かべることができないのであり、このような条件なしではわたしたちは、直観というものを考えることができないからである。
Eしかしわたしたちは、現象一般のたんなる叡智的な原因というものを考えることができるのであり、それを〈超越論的な客体〉と呼ぶことができる。
Fしかしそれは、わたしたちが受容性としての感性に対応する〈何か〉を考えるためにすぎない。
Gこの超越論的な客体には、わたしたちに可能なかぎりでのあらゆる範囲と関連の知覚を結びつけて考えることができる。 またこのような超越論的な客体というものは、それ自体であらゆる経験に先立って与えられていると言うこともできる。
Hしかしこうした超越論的な客体の現象は、それ自体において与えられるのではなく、ただ経験のうちで与えられるにすぎない。
この現象はたんなる像であり、像というものは知覚として、現実の対象を意味するものだからであり、この知覚は、経験の統一の規則にしたがって、他の知覚と関係しているからである。』 引用終了
================== (参考・同箇所篠田英雄先生訳) ■No18965 > (※以下、篠田英雄先生訳のカント文の引用となります。↓)
@> 感性的直観能力は本来、受容性にほかならない。 換言すれば、表象によってある仕方で触発される能力である。<
A> そして、これらの表象の間の相互関係がすなわち空間および時間という純粋直観(われわれの感性の純粋形式)なのである。
B> また、これらの表象は、それがかかる関係(空間および時間の)において経験統一の法則にしたがって結合され規定されるかぎりでは、対象と名づけられる。
C> こうした表象を生み出す非感性的原因は、われわれにはまったく知られていない。
D> このような対象(自体)は、空間においても時間においても表象されえないだろう。 しかし、われわれはかかる感性的条件なしには、直観というものをまったく考えることができない。
E>にもかかわらず、われわれは、現象一般の可想的原因を超越論的対象と名づけてさしつかえない。
F> しかし、それは、われわれがかかる対象(物自体)によって、受容性としての感性に対応する何か或るものをもつためにすぎない。
G> われわれは、われわれの可能的知覚の範囲と連関を、すべてこの超越論的対象に帰し、かかる超越論的対象をいっさいの経験に先だってそれ自体与えられている、といってさしつかえない。
H>ところが、この超越論的対象に対応するところの現象は、それ自体与えられるのではなく、経験においてのみ与えられるのである。 > (『純粋理性批判』岩波文庫、篠田英雄訳、中、一七一頁) > (※カントの文章の引用終了↑)
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