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謎沼探検記(;´・ω・) − 5
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□投稿者/ うましか -(2021/11/21(Sun) 20:29:18)
| 2021/11/21(Sun) 20:38:34 編集(投稿者)
pipitさん、沼っす!(`・ω・´)ゞ
今後は、山下本のまとめ「謎沼探検記(;´・ω・)」をナンバリングしていきますー
No.18527 は1、 No.18608 は2、 No.18670 は3、 No.18758 は4とします (・ω・)ノ 今回の No.19219 は5です。
******* 山下和也 『カントとオートポイエーシス』*******
◇序 カント認識論とオートポイエーシス
◇第一章 オートポイエーシス論 ■第一節 経緯 ・1960年、マトゥラーナは生物学博士号をとりチリに帰国、チリ大医学生に生物の起源について講義していたなか学生から受けた「35億年前に生命が始まったとき何が起きたのか」という質問を機に、生命のシステムの特徴について考察しはじめ、思いついたのが「生命システムの、すべてが自身との関連について起きるという自律性であった。 ・1961年からは、マトゥラーナは生命システムを自己言及(self-referring)と呼んだ。ただし、彼はシステム自体とシステム・環境関係を区別する必要を感じていたのでこの表現に満足できなかった。 ■第二節 定義 ・オートポイエーシスを原理として成立するシステムを「オートポイエーシス・システム」と言う。 ・「オートポイエーシス・システム」の定義とは・・・ 「構成素(component)を産出する構成素を産出(変形あるいは破壊)するプロセスのネットワークとして組織された(単位体として定義された)マシンであり、構成素は(@)その相互作用と変形を通じ、自身を産出するプロセス(関係)のネットワークを再生し実現する、そして(A)それ(マシン)を、自身(構成素)が存在する空間において、そうしたネットワークとしてのその実現の位相的領域を特定することで、構成する」〔p.4〕 ・上記の定義は、山下によれば一見して分かりづらく、しかも言いたいことの内実が表現しきれていない。「産出」「連鎖」「循環」「閉鎖」というキーワードを使った山下による定義は次のようになる。・・・ 「オートポイエーシス・システムとは、産出物が次の産出プロセスを作動させる仕方で連鎖する産出群が作るネットワークの、循環的に作動して閉鎖した自己完結的閉域である。閉域形成に参与する産出物をシステムの構成素と呼ぶ」〔p.5参照〕 ・APシステムの分かりやすい例とは、細胞システム(※ただし細胞そのものではない)。 ■第三節 基本概念 ・「コード」 ・「構造的ドリフト」 ・「構造変動」 ・「メタモルフォーゼ」 ・「システムの環境」 ・「相互浸透」 ・「攪乱」 ・「構造的カップリング」 ・「カップリング・システム」 ・すべてのオートポイエーシス・システムに共通な性質・・・@個体性、A単位性、B自律性、C入力・出力の不在 ・「言及システム」・・・ (元のシステムに対する新しいシステムとして)一階言及システム、二階言及システム〜
◇第二章 理性と認識システム ・オートポイエーシスの認識論の基本となる三つのシステム、生命システム、意識システム、認識システムと、カントのあげる三つの認識能力、感性、悟性、理性との対応を考える ・この図式が山下の展開する認識論の基礎となる。〔p.15〕 ■第一節 三つのシステム 生命・意識・認識 ・生命システム・・・認識を考える場合の出発点 ・生命システムとは、生体器官を構成素とし、身体を構造とするAPシステムである。 ・意識システム・・・脳における自己言及に基づく生命システムの一階言及システム。表象を構成素とするシステム ・認識システム・・・生命システムからは二階言及、意識システムからは一階言及のシステム ・認識システムとは、認識表象を構成素とし、認識を構造とする。 ■第二節 感性・悟性・理性 ・カントによる人間の認識(能力) 「すべての我々の認識は感官に始まり、そこから悟性に進み、理性で終わる、理性を超えて、直観の素材を加工し、思惟の最高の統一の下へともたらす、より高次のものは我々のうちに見いだされない」(B355) 「人間の認識には、おそらくは共通の、しかし我々には未知な根から生える二つの幹がある、すなわち、感性と悟性である。前者によって我々に対象が与えられ、後者によってしかし思惟される」(B29) ・山下のイメージでいえば、感性と悟性とによって個別の認識が成立し、理性によってそれが体系化される。
◇第三章 批判と二つの視点 ■第一節 オートポイエーシスの二つの視点 ■第二節 カント認識論の構図 ■第三節 現象と物自体を区別する者 ・カントは内官の対象である主観と、外観の対象である外的現象に関して、現象としてのあり方とそれ自体としてのあり方を区別する。 ・後者(外観の対象)に対しては、現象と物自体の区別となる。 ・ここで、区別している、いわば「カントの私」は、いかなる資格の私なのか?… 純粋理性としての私?純粋統覚としての私?自体的な私?内官の対象である主観としての私? ・現象と物自体の区別は、我々にとって認識されうるものと認識されえないものの区別である。 ・あるものが認識されえないと言えるためには、少なくともそのものが存在することは知られていなければならない。しかし、「認識不可能な物自体の存在をカントはいかにして語ることができるのか?」 ・上の問いに対する解釈二例。カウルバッハのパースペクティブ論とアディッケスの議論 → 両者とも、二世界解釈ではなく二側面解釈であり、物自体というあり方の事実性を否定しない。 ■第四節 『純粋理性批判』における二つの視点
◇第四章 自我とシステム ■第一節 システムの自己 ■第二節 統覚論とオートポイエーシス ■第三節 『オプス・ポストゥムム』の自己措定論
◇第五章 感覚と攪乱 ■第一節 ロックとヒュームの感覚論 ■第二節 感覚の主観性 ■第三節 感覚の客観性 ■第四節 オートポイエーシス論の攪乱概念と感覚
◇第六章 カテゴリーと概念コード ■第一節 認識システムの概念コード ■第二節 カントのカテゴリー ■第三節 概念コードとカテゴリー − 超越論的演繹論から − ■第四節 カテゴリーの超越論的演繹 − オートポイエーシス論から見て −
◇第七章 物自体と認識システムの環境 ■第一節 カントの物自体 ■第二節 システムの環境と認識 ■第三節 認識システムの環境としての物自体
◇第八章 超越論的観念論とラディカル構成主義 ・この章では、カント超越論的観念論とAP論的構成主義の認識論の比較しカントの記述通りに理解することを試みる。 ・エルンスト・フォン・グレーザーズフェルドのラディカル構成主義をカントの議論と比較する。 ■第一節 カントの超越論的観念論 ■第二節 現象の主観性 ■第三節 ラディカル構成主義 ・グレーザーズフェルドによれば、ラディカル構成主義とは、「知識をどのように定義したところで、知識は人の頭の中に存しており、思考自体は自らの経験を基礎として自ら知っていることを構成する以外に他にないという前提から出発する。」 ・「われわれが経験を用いて構成しているものは、われわれが意識しながら生きている唯一の世界をなす。それは、事物、自我、他者などのような多くの種類に分類することが可能だ。」 ・「しかしあらゆる種類の経験は本質的に主観的なものである。」〔p.139〜p.140〕 ・山下によれば、ラディカル構成主義の基本的な主張とは、「我々が経験している世界は我々が構成したもの」である。 ■第四節 超越論的観念論再考
◇第九章 超越論的自由と自律性 ■第一節 第三アンチノミーにおける超越論的自由 ■第二節 オートポイエーシスの自律性 ■第三節 認識システムの自由
◇結 論 認識論の完成に向けて
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No.18527,18608,18670,18758,19219
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