□投稿者/ pipit -(2021/11/18(Thu) 20:05:41)
| 2021/11/18(Thu) 20:08:38 編集(投稿者)
みなさま、こんばんは。
■No18965 > (略) > 上記引用カント文章の中山元先生訳も読みたいと、ふらふらと探しているのですが、お目当ての文章はまだ見つけられてないのですが、 > 話題に関連する別箇所を見つけたので、そちらを先に引用するつもりしてます。 > (中山元先生訳本、3巻p298) > 中山先生独自の小見出しとしては、 > 『370 〈超越論的な対象〉の位置』<
まず370を引用します。
370(『純粋理性批判3』カント、中山元先生訳、p298.299より引用。B345あたり) (カントの文章) 『要するに超越論的な客体というものが わたしたちの内部に存在するものなのか、 わたしたちの外部に姿をみせるべきものなのか、 わたしたちから感性が失われると同時に失われるものなのか、 感性を消去したあとでも存在しつづけているものなのか、 わたしたちにはまったく知ることができないのである。 この超越論的な客体が非感性的なものであるという理由で、この客体を〈叡智的な存在〉と呼ぶのは、わたしたちの自由である。 しかしわたしたちは知性の概念をこの客体に適用することはできないため、この観念はわたしたちにとってまったく空虚なままなのである。 この超越論的な客体は、人間の感性による認識の限界を定め、可能的な経験によっても、純粋な知性によっても満たすことのできない場所を残しておくことにしか役立たないのである。』 引用終了
※ここで補足説明です。 カントは、人間の感性的直観能力以外の直観能力で捉えられる世界の領域の可能性のことも考えているようです。以下、369より引用します。 369(同上本p295.2967。B343あたり) (カントの文章) 『すなわち、わたしたちの直観の方法は、すべての物に向けられたものではなく、わたしたちの感覚能力の対象だけに向けられたものであり、 この直観の方法の客観的な妥当性には制限があること、 そしてわたしたちの直観とは異なる種類の直観のための場所と、 こうした直観の客体となる物の場所をのこしておく必要があるということだ。 しかしその場合には、〈叡智的な存在〉という概念は不確定なものとなる。 この概念は、わたしたちがそれが可能であるのか、不可能であるのかを判別することができないものについての観念だということになる。 わたしたちは、感性的な直観とは異なる種類の直観を知らないし、わたしたちのカテゴリーとは異なる種類の概念を知らないのである。 しかもこのどちらも、非感性的な対象にはふさわしくないものなのだ。』 引用終了。
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