(現在 過去ログ2 を表示中)

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

No18844 の記事


■18844 / )  カント哲学を推測してみる日記
□投稿者/ pipit -(2021/11/14(Sun) 18:31:19)
    みなさまこんばんはー(o^^o)
    No18750 の続き

    >思考による内容空虚な編集の働きだから、感性による内容に依存して、各々唯一無二のコンテンツに仕上がってる。<

    No18750

    ================

    >感性による内容は、カント的には、二値論理(真偽)の世界にあるものではなく、<

    関連すると思う文章を複数引用します。

    (カントの文章)『純粋理性批判』(B350あたり)
    『真理と仮象は、対象が直観されているかぎりでの対象そのものにあるのではなく、対象が思考されているかぎりで、対象について人間が下した判断のうちにあるからである。
    だから「感覚能力は誤らない」と主張するのは正しいが、それは感覚能力がつねに正しく判断するからではなく、そもそもまったく判断しないからである。』
    『純粋理性批判4』カント、中山元先生訳、p20より引用。

    (カント文章&御子柴善之先生の解説文)
    『仮象は感官の責任ではなく悟性の責任である。現象に基づいて客観的な判断を下すのは、ひとり悟性である。(Ak291、中公65、岩波85)
    ↑カント先生
    ↓御子柴善之先生
    先の「全感性界がまったくの仮象と化してしまう」という反論は、感性のことがらに真偽を持ち込んでいる点で的外れであることがこの引用文から明らかだろう。
    感性界はたしかに現象の世界である。
    しかし、それは仮象の世界ではない。
    現象は仮象ではないのである。』
    『カント哲学の核心』p105.106より引用

    ※ここで補足です。
    @カント的には、超越論哲学とは形而上学の一部である。
    A批判哲学『超越論的原理論』の二大区分、『感性論』と『論理学』。
    についての記述を引用します。

    @についての引用
    (カントの文章)プロレゴーメナより
    『(略)超越論哲学という名前をもつのは、本来、形而上学の一部分であるが、前者の学問〔超越論哲学〕がはじめて後者〔形而上学〕の可能性を決定するのであり、それゆえすべての形而上学に先行しなければならないからである。(Ak279、中公45、岩波61)』
    『カント哲学の核心』御子柴善之先生、p69

    Aについての引用
    (御子柴善之先生の解説文)
    『『純粋理性批判』には、ア・プリオリな認識を可能にする原理を論じる「超越論的原理論」という長大な論述がある。
    その箇所は「超越論的感性論」と「超越論的論理学」とに分けられる。
    この区分は批判哲学にとって重要である。
    というのは、それによって「感性論」が「論理学」の外部に位置すること、すなわち感性論と論理学が扱う悟性や理性とはまったく異なる能力であることが明示されるからである。
    他方、「超越論的原理論」に「感性論」が含まれることは、論理学が扱う悟性や理性のことがらのみならず、感性論が扱う感性のことがらもまた、認識にとって、それもア・プリオリな認識にとって不可欠であることを示唆している。』
    同上本、p76

    ここまでで一旦投稿します。
    また、後に、以下の書き込みに対応するかなと思う文章を探して引用する予定をしています。

    > しかも本当の感覚の生の接点、源泉点は、触発による受動。<

    >解説者の方が、文字通りの地動説としての回転という感じにおっしゃってた記憶あるけど、過去に引用してるので、そこらへんも絡めて書きたいと思ってます。<

返信/引用返信 削除キー/


Mode/  Pass/

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -