□投稿者/ pipit -(2021/11/12(Fri) 21:21:31)
| みなさまこんばんは♪
No18604 からの流れで、書いた ■No18684のpipitの書き込み文に沿って、関連あるかなぁとpipitが思う解説文(まずは中島先生の解説文を)を引用してみようと思います。
> 思考による内容空虚な編集の働きだから、感性による内容に依存して、各々唯一無二のコンテンツに仕上がってる。<
(中島義道先生の解説文『カントの読み方』より引用) 『カントは、たしかにS2に「根源的(ursprunglich)統覚」とか「純粋(rein)統覚」あるいは「超越論的(transzendental)統覚」という名前をつけますが、それは(少なくとも第一版においては)ただちに根源的実在であるわけではなく、さしあたりはどこまでも内容がまったく空虚である「何か」にすぎないのです。』p44 『カントが求める自我論は、各人がそれである現実の「私」、あるとき生まれ、これまでずっと同一であり、固有の身体をもち、固有の個人史をもち、固有の性格をもち、そのつど固有の場所にいる、それぞれの自我のあり方に関する理論でなければならない。 そのためには、「まったく空虚で無内容」な私などひねり出しても何にもならない。 自我に関していかに高遠な理論を立ててもいいけれど、それは最終的には各人が日常的に端的に了解している「私」を意味しているのでなければならないというわけです。 そうであるからには、もちろん超越論的統覚もこの要件を充たさねばならない。 それがいかに論理的に無矛盾であっても、論理的に整合的に要請されても、それだけではその実在性は保証されないのです。 こうした観点から見返すと、一つのアクロバティックとも言えるほどの大転換が見えてきます。 すなわち、カントは概念だけから紡ぎ出されたこうした「主観」が「まったく空虚で無内容」であることに着目し、それ自体として「まったく空虚で無内容」であるからこそ、それは全世界を対象化する絶大な機能をもちうることを洞察したのです。』p73.74
※まずはここまでを投稿します。 以下に対応するかなあ?と思う解説文などをまた後ほど引用していこうと思います。
> 感性による内容は、カント的には、二値論理(真偽)の世界にあるものではなく、<
>しかも本当の感覚の生の接点、源泉点は、触発による受動。<
> 解説者の方が、文字通りの地動説としての回転という感じにおっしゃってた記憶あるけど、過去に引用してるので、そこらへんも絡めて書きたいと思ってます。<
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