| 2021/11/25(Thu) 17:06:10 編集(投稿者) 2021/11/25(Thu) 11:50:21 編集(投稿者)
【PN氏の「先言の〈私〉」を批判する】by The Villainous Owl in the Nietzsche Club
(前もっての注) ※1 以下の論証で用いられる等号記号「=」は、ウィトゲンシュタインの『論考』の命題において、何らかの意味で同一性を表すものとして解釈可能な場合に使用する。論理的に厳密な意味においてこれらが同義であるという主張ではない。 その目的は、等号記号を用いて表すことにより、ウィトゲンシュタインのロジックをわかりやすく見て取ることである。 したがって、このように表すこと自体が私梟の解釈であり、当然、この同一性命題としてあらわされた命題もまた批判・反論の対象となりうることに留意されたい。
※2 以下の「私」は、すべて「世界の限界としての私」(T: 5.63,5.631,5.632) すなわち、「示される独我論的私(T: 5.62)」「形而上学的主体(T: 5.633)」を意味する。これらはすべておなじものを意味し、これを省略明示する場合、以後、「《私》」という表記を用いる。なお、「表象する主体」(T:5.631)は、これらと同じものではない。
※3 以下の「言語」とは論理学的対象として形式化された経験命題一般であり、英語、日本といった自然言語のような具体的・個別言語のことではない。また,「私の言語」とは,いわゆる「独我論的言語」(=「現象学的言語」)を意味する。
【前提となる『論考』の主張(の解釈と根拠となる命題)】 (1) 私の世界=私の言語が語る世界(私の言語世界) (∵ T:5.6) (2) 言語=私の言語(∵ T:5.62) (3) 世界=私の世界(生)(∵ T:5.62,5.641) (4) 世界=生(∵ T:5.62&5.621) (5) 私=私の世界(∵ T:5.63)
(1)〜(5)より、次が論理的に帰結する。 ∴ 私=私の世界(生)=私の言語が語る世界(私の言語世界) よって、ここから次を導き得る。 【結論】 私(の存在)=私の言語世界(の存在)
【補足解説】 (1) T:5.6 私の言語の限界は、私の世界の限界を意味する この命題の意味するのは、私の言語の限界=私の言語が語る事柄の限界が、すなわち私の世界の限界である、ということである。逆に言い換えれば、私の世界の全体は、私の言語が語る事柄の全体(私の言語世界)である、ということ。
【別角度からの補足説明】 『論考』における世界は、言語(二値命題の総体)のうちの真なる命題が語る事実の総体として定義されている。 世界の構成単位(ラッセルの言う「原子的事実」)である事態は、要素命題の語るものとして定義され、写像理論によって、写像形式である命題の名の結合構造の可能性と事態の対象結合の構造の可能性は同一とされている。したがって事態は命題に対応する分節構造を有しているわけである。 だからこそ、本質的に、世界は言語により語りうるもの(言語により写像可能なるもの)だということ。 それゆえ、次のようにも言える。 世界は、(その本質上)語りうる世界である。 これが「世界は言語世界である」ということの意味である。
【『論考』の思想】(梟による解釈) 言語の限界が世界の限界を意味する(cf.T:5.6)。 言語あるところに世界があり、世界あるところに言語はある。 すなわち、言語と世界は共在である。 それゆえ言語以前の世界などというのは語りえない。 語ろうとしても無意味である。
****************** 【類比による“『論考』の思想”の説明】 時間・空間の限界が宇宙の限界を意味する。 時間・空間あるところに宇宙があり、宇宙あるところに時間・空間はある。 すなわち、時間・空間と宇宙は共在である。 それゆえ時間・空間以前の宇宙などというのは語りえない。 語ろうとしても無意味である。 (但し,「時間・空間」とは宇宙の必然的形式としての時間及び空間を意味する。)
以上は、ヴィランの梟による『論考』思想についての解釈。 ********************* 以下、PN氏の「先言の〈私〉」について。
【『論考』の思想からの帰結】 その1 @ 『論考』の形而上学的主体である《私》は、言語および世界と共在するそれらの限界である。すなわち、《私》は言語と共にある。 Aそれに対して「先言の〈私〉」は言語に先立ってある、ということ。 ゆえに、 [結論1] 『論考』の形而上学的主体《私》≠先言の〈私〉
※ PN氏は、この等式が成り立つと主張はしていない。なので、この結論自体は、批判ではない。つまり、あくまでポイントは、この結論を導くための『論考』解釈の提示、および、それによって『論考』の《私》と先言の〈私〉の相違点を明確にすることにある。この解釈により、帰結その2を導出する。
その2 仮に「先言の〈私〉」が存在するとしよう。 それは、言語以前の存在者であり、したがってそれについて語ろうとすることは言語以前の世界について語ろうとすることである。 しかし、そのようなものについて、語ろうとしても無意味である。 (それは、時間・空間の存在(⇔宇宙の存在)以前の存在者について語ることと類比的である) T7:語りえぬものについては、沈黙しなければならない。
[結論2] 疑似概念「先言の〈私〉」は無意味な記号列にすぎず,これに関するPN氏の言説もまた無意味である。 ※言うまでもないが、これはPN氏の疑似概念「先言の〈私〉」及びそれについての言説に対する批判である。
**************** 【読者への補足】 そこで皆さんに重々留意していただきたいのは,以上の私の主張・議論に,永井哲学は何の関係もない,ということです。 むしろ,私が最初に「先言の〈私〉」と書いて,「比類なき先言の〈私〉」と書かなかったのは,「比類なき」という部分は,内容的に永井の思想と重なるからです。 私の批判のポイントは,最初から、あくまでPN氏の「先言の」という部分,すなわち「言葉に先立つ」という部分に絞っています。 すなわち、私の批判は、「先言の〈私〉」が、 アプリオリかつ言葉に先立つ主体 を意味するものとされている限り、十分に成立するものです。 これ以外のことに論点をずらそうとするPN氏の発言は,「論点すり替え論法」という議論でしばしば用いられる詭弁にすぎません。
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