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No18159 の記事


■18159 / )  Re[44]: 〈私〉についての議論
□投稿者/ パニチェ -(2021/11/01(Mon) 20:39:18)
    2021/11/02(Tue) 07:15:45 編集(投稿者)

    はじめまして、ザビビのふくろうさん。ようこそニーチェクラブへ。
    レスありがとうございます。
    ザビビのふくろうさんのNo18150の返信は気配りと誠意を感じました。
    私も一切の忖度抜きでストレートに返信させてもらいます。

    まず結論から言うと今回のザビビのふくろうさんのレスまたは反論はあまり刺激になるような内容ではなく、足元の地面が揺るぐような批判(笑)ではななかったです。
    ザビビのふくろうさんも補足されているように。。。

    > ただ、パニチェさんが、ご自身の考えとウィトゲンシュタインの考えとの異同をどう考えてらっしゃるのかが未だ把握できていないので、そのあたり、的外れになったら申し訳ありません。

    上記に尽きると思います。順を追って説明します。

    1、「比類なき先言の<私>」というのはパニチェのオリジナルテーマであり、それこそ物心ついた時からのライフホビー的な(ライフワークというほど大袈裟なものではないのでいつもライフホビーと表現してます)テーマであって、もともとは永井均氏やウィトゲンシュタインとは無関係です。
    但し、おそらく永井均氏が永井哲学の主要テーマとしている〈私〉とは同類(原理的に同じではありえないので)のものであるとは考えていますが、永井均氏に対しても異論や反論はありまます。

    2、ウィトゲンシュタインがパニチェや永井均氏と同類のテーマについて「語りえないもの」としていたかどうかについては、永井均的ウィトゲンシュタイン解釈をある程度のところまで支持していますが、ザビビのふくろうさんも述べている通り「専門家の間でも定説的解釈と言えるものがなかなかない」ので、断定的な解釈はしておりません。但し「比類なき先言の<私>」の探究ツールとしては有益だと思っています。

    3、先のレスから「ウィトゲンシュタイン(特に『論考』)解釈においては、アンチ永井均の立場」というところが見えませんし、「そ〜と〜な永井嫌い」である理由も分かりません。ウィトゲンシュタイン解釈についてのアンチ永井であるとしても、永井氏の主要テーマである「〈私〉の存在の比類なさ」をザビビのふくろうさんが理解されているとは(先のレスからして)到底思えず、この理解なしに「ウィトゲンシュタイン解釈においては、アンチ永井均の立場」というのはナンセンスであると思います。

    4、私のレスの引用もなく、ザビビのふくろうさんが解釈するパニチェの主張に対する反論というのは藁人形論法です。自分が主張していないことについての反論は誤解を解くところからとなり私にとっては時間と労力に見合うような価値を見出せません。一方的に自分の意見や見解を述べるのではなく、少なくとも相手の言説を引用した上でその言説に対する批判や反論という形をとっていただかないと的を射た生産的な議論はできないと思います。

    5、上記のことが後出しジャンケンでないことはニーチェクラブの「Panietzsche Room > 探究 >〈私〉の哲学」を見ていただければお分かりいただけると思います。

    例えば以下。。。

    > ところで、『論考』の独我論は、その要として
    >  私は私の世界である
    > と言われていますから、前述の意味で、
    >  私は私の言語世界である
    > ということになります。
    > 当然、〈私〉が存在するときは言語世界が存在します。
    > ゆえに、
    >  〈私〉が存在するとき、常に既に、言語が存在します。
    > というわけで、少なくとも『論考』の〈私〉は、「先言の〈私〉」と同じものではありません。

    ウィトゲンシュタインが述べているのは「5.6言語の限界が私の世界の限界を意味する」あるいは「5.62世界が私の世界であることは、唯一の言語(私が理解する唯一の言語)の限界が私の世界の限界を意味することに、示されいる。」であって、「私は私の世界である」あるいは「私は私の言語世界である」とは微妙にニュアンスが違います(ウィトゲンシュタインがここでスポットを当てているのは、ザビビのふくろうさんが主語としている「私」でなはく「私の世界」です)。

    さらにウィトゲンシュタインは〈私〉という表記を論考では用いておりません。〈私〉という表記は永井哲学独特の表記であり、永井哲学に対する反論なのか、永井氏のウィトゲンシュタイン解釈に対する反論なのかも分かりませんし、さらに「先言の〈私〉」はパニチェのオリジナル用語であり、ウィトゲンシュタインはもちろん、永井氏もパニチェが知る限り用いておりません。

    何が言いたいのかというと、上記のザビビのふくろうさんの反論はウィトゲンシュタインと永井哲学とパニチェが探究しているテーマが混在しており、これを混同した上での反論や批判、つまり藁人形論法になっているということです。対象となるレスの引用がないので、永井氏のウィトゲンシュタイン解釈に対する反論なのか、パニチェのウィトゲンシュタイン解釈に対する反論なのか(私のウィトゲンシュタイン解釈を説明したレスはないと思います。みのりさんに〈私〉を伝えるため永井氏の「『青色本』を掘り崩す──ウィトゲンシュタインの誤謬」という著書から引用はしましたが,あくまで〈私〉を説明するためのツールとしての引用です)、永井哲学に対する批判なのか、パニチェの「比類なき先言の<私>」に対する批判なのかよく分かりません。

    もし議論するのであれば。。。
    1.ウィトゲンシュタインの論考に関する解釈(これは10年ほど前にYahoo!掲示板で善財さんやゲットさんと行いましたので、あまり興味はわきません)
    2.永井均氏のウィトゲンシュタイン解釈(これも先に述べた通り、現時点で解釈を固定させるつもりがないので興味がありません)
    3.永井哲学(〈私〉の存在の比類なさ)に関する議論
    4.パニチェの「比類なき先言の<私>」に関する議論
    上記の4つのどれかに絞る必要がありますが、3も4も〈私〉に関するある程度の理解がなければ不毛となるように思います。

    せっかくレスをいただいたので、ザビビのふくろうさんに聞きたいのですが、以下のウィトゲンシュタインの言説はどのように解釈されますか?

    『私はこう言おう。「正直なところを言えば、たしかに、私には他の誰にもない何かがあると言わねばならない」、と。──だが、その私とは誰だ。──くそっ。私の言い方はまずいがそこに何かがあるんだ!君だって私の個人的な経験というものがあり、またそれには最も重要な意味での隣人というものがないことを否定すまい。──だが君はそれがたまたま孤独だと言うつもりではないだろう。君の言いたいのはその何かの文法上の位置が隣人のない場所にあるということだろう。「しかしどうしたわけか我々の言語には、そこに他と比べることのできない何か、すなわち真に現前している経験、があるということがあらわれてはこないのだ。私はそのことに甘んずるべきだと君は言いたいのか。」(おかしいことに、日常生活で日常言語を使っていて何かに甘んじなければならないと我々が感じることはまったくない。)ウィトゲンシュタイン全集6『「個人的経験」および「感覚与件」について P.323』より』


    > ニークラという場の空気も一切考慮せず、突然で失礼かもしれないですが・・・
    > 歯に衣着せぬ物言い、ご容赦くださいm(__)m

    お気遣いなく全然大丈夫です♪^^
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