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No18176 の記事


■18176 / )  Re[45]: 〈私〉についての議論
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2021/11/02(Tue) 18:48:35)
    No18159
    >まず結論から言うと今回のザビビのふくろうさんのレスまたは反論はあまり刺激になるような内容ではなく、足元の地面が揺るぐような批判(笑)ではなかったです。

    そうですか。残念ではありますが、まあ予想されたことでもあるので仕方ありません。
    せめてロムされている方の刺激になればと期待します。

    >ザビビのふくろうさんも補足されているように。。。
    >> ただ、パニチェさんが、ご自身の考えとウィトゲンシュタインの考えとの異同をどう考えてらっしゃるのかが未だ把握できていないので、そのあたり、的外れになったら申し訳ありません。
    >上記に尽きると思います。

    ああ、やっぱりね。すみません。
    私としては『論考』の示される独我論的「私」、またふくろうの解釈によるとそれは「形而上学的主体」と呼ばれているものでもありますが、それを〈私〉と表記しました。
    議論の背景から十分理解してもらえると思ったのですが、ミスリーディングでしたかね。

    ただ、私の主張は,簡単に言うと、
    1. パニチェさんの「比類なき先言の<私>」は、『論考』で示されるとされる独我論的「私」とは全く異なるものである。
    2. パニチェさんの「比類なき先言の<私>」についての言説は、無意味である

    というものですので、1 に関して認めておられるのであれば、私としては何も問題ありません。
    また、私としては、この2点について、簡潔、かつ、決定的に示す議論ができたと自己満足していますので(笑)、パニチェさんは認められないでしょうが、読む人が読めば私の主張の正しさが理解されると私は思っています。

    なので、次には同意できません。

    >何が言いたいのかというと、上記のザビビのふくろうさんの反論はウィトゲンシュタインと永井哲学とパニチェが探究しているテーマが混在しており、これを混同した上での反論や批判、つまり藁人形論法になっているということです

    私の前レスではポイントを絞り、「先言の<私>」という概念に関してのみ批判しました。
    パニチェさんの言説のまさに要となる概念であり、その無意味さを示すには、前レスに示した議論で十分だからです。
    もちろん、パニチェルームの「〈私〉の哲学」「独我論」の文章はざっとではありますが、読んだ上での判断です(このトピでのpipitさんとの議論も目を通しました)。

    >そしてもし、それが「言語習得以前の主体」であるのなら、それは発達心理学などの対象になる、語りうる世界内存在者にすぎず、少なくとも『論考』の〈私〉とは何の関係もありません。

    という見解については、次のようなパニチェさんの発言を念頭においていました。
    問題があるとは全く思えませんが。
    引用しなかったのが問題なのであれば、それは謝罪します。申し訳ありませんでした。
    *******************
    No17554
    >> 直知の対象があるから、直知する主体がある、という因果関係の思考ではないのですか?

    >そうではないと思います。
    >因果関係もそうですが、思考って言語的になされますよね?
    >〈私〉は言語に先んじて(言語を覚える前から)存在する主体です。
    >これなくして言語の習得や普遍文法の習得はありえません。

    <私> の哲学
    13.無我説と〈私〉
    >先言の〈私〉は言葉に先立つ〈私〉。
    >つまり、言語学習をする主体者にして、言語学習以前に存在する〈私〉のこと。
    *********************
    >3、先のレスから「ウィトゲンシュタイン(特に『論考』)解釈においては、アンチ永井均の立場」というところが見えませんし、「そ〜と〜な永井嫌い」である理由も分かりません。ウィトゲンシュタイン解釈についてのアンチ永井であるとしても、永井氏の主要テーマである「〈私〉の存在の比類なさ」をザビビのふくろうさんが理解されているとは(先のレスからして)到底思えず、この理解なしに「ウィトゲンシュタイン解釈においては、アンチ永井均の立場」というのはナンセンスであると思います。

    私が永井嫌いであることを述べたのは、永井の考えの内容を知っている人には、私がその考えに反対の考えを持っている人間であるという情報が手っ取り早く伝わり、かつ、永井に共感されているパニチェさんの立場にも反対の立場であろうことが、ある程度予想可能だと思ったからです。べつに深い意味はありません。

    >主要テーマである「〈私〉の存在の比類なさ」をザビビのふくろうさんが理解されているとは(先のレスからして)到底思えず、

    というのは、「(先のレスからして)」なぜそういうことになるのかわかりませんが、まあ、それはいいとしましょう。
    ただ、私が理解していないという判断はパニチェさんの勝手ではありますが、この議論を読んでくださっている人に私がそれを認めていると誤解を与えてもいけませんので、少し付言しておきます。
    私は永井の独在論には関心がありませんから全部をフォローしてはいませんが、『ウィトゲンシュタイン入門』を始め、初期の勁草書房から出版されている諸著作、複数の研究者によるウィトゲンシュタイン哲学についての論文集に永井が寄稿した論文等、相当数の著作は読んでいます。なので、永井のウィトゲンシュタイン解釈(とくに『論考』解釈)については私なりに一応理解しているつもりです。言ってみれば、一方的な仮想論敵です(笑)むろん、自分なりの批判的見解ももっています。ただ、今回のパニチェさんとの議論とは切り離せますし、自分にとって永井の考えなどどうでもよいのでわざわざ述べる気はありません。まあ、私が自分で言ってるだけなんで、信用するもしないも読む方のご自由ですが、一応、言っておきます。
    *************************
    >ウィトゲンシュタインが述べているのは「5.6言語の限界が私の世界の限界を意味する」あるいは「5.62世界が私の世界であることは、唯一の言語(私が理解する唯一の言語)の限界が私の世界の限界を意味することに、示されいる。」であって、「私は私の世界である」あるいは「私は私の言語世界である」とは微妙にニュアンスが違います(ウィトゲンシュタインがここでスポットを当てているのは、ザビビのふくろうさんが主語としている「私」でなはく「私の世界」です)。

    ん? 事実誤認があるように思いますが?
    まあ、その当否はおくとして、とにかく、「私は私の世界である」は、ウィトゲンシュタイン自身が述べています。

    5.63 私は私の世界である。(ミクロコスモス。)

    このパニチェさんの発言を読んで、私の議論の理解はとうてい望めないことはわかりました。
    まあそれは仕方ありませんし、さっきも書きましたが、私としては目的とする議論をきちんと提示できたと思っているので、わかる人にはわかるということで、これ以上は言わないことにしておきます。
    ただ、『論考』解釈において、これだけ理解が得られないまま『「個人的経験」および「感覚与件」について P.323』より』の引用文――永井がまるで自分しか真意を理解したものはいないかのように取り上げたことで有名な文章ですね(笑)――の解釈を議論しても無駄だと思いますので、やめておきましょう。

    というわけで、
    パニチェさん、お邪魔しました。
    刺激になれずに申し訳ありません。
    レスをわざわざありがとうございました。

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