□投稿者/ ヴィランの梟 -(2021/11/24(Wed) 12:59:00)
| こんにちは。 ニークラにおける議論バトル好きの皆さま,お待ちどおさま。 山から帰ってきたヴィランの梟です。若干、負傷しております(´;ω;`) が、議論に支障はありません。
さてと。 私とPN氏の議論をロムしてくださってる人の中には,議論がかみ合っていないと感じておられる方がいらっしゃるようです。 それはそのとおりなんですが,その原因については、もちろんPN氏と私とでは考えが異なります。 私の立場から一言で言えば,PN氏による私の主張の歪曲が原因です。 ただ,そのミスリードを許してしまったのは,私がわかりやすいだろうと思って「〈私〉」という永井均が用いた表記法を流用したことが原因です。 これはたしかに私のミスでした。 そのため,私は何度も、私の議論に登場する「〈私〉」は『論考』の形而上学的主体を意図しているのであって、永井の「〈私〉」とは関係ないと説明したにもかかわらず,永井崇拝者のPN氏は,その歪曲・藁人形化をやめようとしません。 このままでは埒が明かないので,再度,私の主張を一から書き直すことにしました。 他のいくつかの点もミスリーディングにならないよう,多少修正を施すつもりです。 その修正版は、できれば今日の夜にでも(延期の可能性あり),改めて投稿しようと思います。 とりあえず以下では、PN氏作成藁人形「うさぎ」の話や、私に対するいちゃもんに関する応答を投稿します。
(1) 「うさぎ」について。 >はい、論点のすり替え。「少なくとも」を付けるかどうかやない。 >「AとBは同じものではない」と「AとBは全く異なるものである」は違う。主張を変えとると言うてんねん。 >先の“因幡の白兎”と“ウサギとカメ”で違いをちゃんと示しとるやろ(耳が長い、跳ねる、白いウサギは同じ等々)、それをスルーして論点をすり替えるなんて小堺一機やのぉ〜。なんでそうなるの!以下や。
いやいや,論点をすり替えているのは,きみでしょ。 なぜなら,私はあくまで『論考』の形而上学的主体と,脳みそマルコメ味噌くんの「先言の〈私〉」について話しているのであって,「うさぎ」の話なんか,これっぽっちもしていないからだよ。 「うさぎ」は,正しく,脳みそマルコメ味噌くん製作の藁人形にすぎない。 きみはその藁人形論法によって,「同じ」と「全く同じ」は異なると言っているが,それは君が勝手にそのように歪曲しているだけであって,私の意図は全くそのようなものではない。 そもそも同一性はさまざまな意味があって,専門的レベルでも一筋縄ではいかない概念だ。それぞれの文脈で丁寧に見ていく必要があるんだよ。 だいたい,「うさぎ」なんて語り得るものなんだから,語りえないものである形而上学的主体についてのロジックが全く同一なんてことはそもそも疑わないといけないんだよ。 それをあたかも「うさぎ」のロジックが唯一絶対であるかのように言うのは,あくまで私見ではあるが,きみの脳みそが少なくとも5割以上マルコメ味噌だからだろう。たぶん(間違っていたらごめんm(__)m)。タケヤ味噌の可能性もあるが,西京味噌ではありえないと思う。 わかりやすく,私の意図を,たとえ(あくまでたとえ,類比,OK?)で説明しよう。
少なくとも『論考』の形而上学的主体と「先言の〈私〉」とは異なる =『論考』の形而上学的主体と,「先言の〈私〉」とは全く異なる ∽ 少なくとも味噌と糞は異なる =味噌と糞は全く異なる
念のために付言すると,この類比(ふたつとも若干見かけは似ていなくはないけれども(笑))では,形而上学的主体に対応するのは味噌であり, 「先言の〈私〉」は糞だ ということ。 お分かり?
2. No15159 >わしは一貫して「比類なき先言の<私>」は語りえない、言語表現不可能と言い続けてる。 >そのようなものについて、誰がどこで語ろうとしてるねん?そんなもんがあるなら持っておいで。
これ,笑うんだけど。 だったら,そもそも 「先言の〈私〉」 っていうのは,言語表現なの,それとも無意味な記号列にすぎないの? どっちなの? 第3の選択肢があるなら,それをちゃんと言ってみ。
で、いっぱい「比類なき先言の〈私〉」について書いているものは、ただのゴミということでOKってことだね。
>わしは「比類なき先言の<私>」を間接的に示そうとしている。 >これはウィトゲンシュタインが論考によって語りえないものを指し示した手法と同じ。
あのな。何度も同じようなこと言うけど、きみが何の根拠もなく「同じ」と言っても、味噌と糞は同じにはならんのよ。 そう主張するなら証明しなはれ。
3. No19173 >簡単に言うとパニチェが言っている「比類なき先言の<私>」はパニチェは100%知っているので、ザビビのふくろう氏が述べている「先言の〈私〉」は「比類なき先言の<私>」を全く理解していない「似非比類なき先言の<私>」でしかないということが分っているということです。
あのさ、自分の考えだからって、100%自分は理解していて、他者が理解していない、なんてことは論理的にも一般的にも成り立たないよ。 自分の考えが、気づいていない矛盾を含んでいて、それを他者に指摘されるなんてことは、普通に考えられることだ。 実際、No18177で、私はきみの不整合を指摘した。 それに対するまともな反論はなく、その後、この件に関連して見られたのは、次くらい。 No18188 >形而上とか形而下とか、超越的とか超越論的とか、この手の西洋哲学的な表現はややこしいですよねぇ〜。 >例えば「感性的経験でも知り得る。有形無形の現象世界の起点にある、究極的な存在」を形而上と呼ぶか、形而下と呼ぶかとか。。。
あのな。それを考えるのが哲学だから。そういう言葉がかっこええからって、意味もわからなんと振り回さないように。
4. >まず「比類なき先言の<私>」の「先言の〈私〉」とは「言葉に先んずる」という意味での「先言」。 >アプリオリってことや、これはええな。
「ええな」てアンタ(笑) アプリオリって、「経験に先立つ(条件)」って意味やで。 で、論理がアプリオリであるのは一般に認められた根拠があるけど、 きみが勝手にそんなアプリオリな「先言の〈私〉」がある、と無根拠言ったからって、それが存在することにならんのよ。 わずかに根拠っぽいことを述べたことについては、No18151,18454で批判した。つまり、無根拠ってこと。 要するに、「先言の〈私〉」なんぞが存在するなんて、きみのただの思い込みやから。
********************* [補足] どなたでも横レス歓迎です。 内容をきちんと述べて下さる限り、質問でも批判でも、私はOKです。 PN氏の応援団でもいいですよ^^
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