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「似非比類なき先言の<私>」批判
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□投稿者/ パニチェ -(2021/11/21(Sun) 08:03:56)
| おはようございます、restさん。レスありがとうございます。
■No19171に返信(restさんの記事) > パニチェさん 更新ありがとうございます。ゆっくりしたペースですが、なるべく深く思索したものをお届けしたいと思っています。
どういたしまして。楽しみにしています。
> パニチェさんとザビビのフクロウさんの議論がうまくかみ合わないように見えますが、ひとこと私の感想を述べさせてください。
はい。以下の返信は(restさんには言うまでもありませんが、念のため)ウィトゲンシュタインが論考で示した形而上学的主体(哲学的自我)がどのようなものであったかについてはウィトゲンシュタイン論となり別議論になりますので横に置きます。
> あくまで感想でしかありませんが、ザビビのフクロウさんの示されている哲学的主体としての「私」は普遍的な言語でできた自己で、誰にでも共通する自己、いわゆる共同体的自己ではないかと推測されますし、それは共同体意識や超自我を構成する基礎単位ではないかと思います。
はい。万人に共通する潜在的な自我意識みたいなものだと思います。
> それに対しパニチェさんの<私>は言語化できない、すなわち普遍化あるいは共通化できない自己、換言すれば唯一無二の個性ではないか、と考えています。普遍的な言語では語れないということで問題があるのですが、あくまで推測です。唯一無二の個性として推測しています。そこで共同体意識と個性の対立というか衝突が生じているように見えるのです。私はどちらも大切なものだと思いますが。
その通りです。この返信ちょっと驚きました。これまでニークラに投稿したメンバーで(断言はできませんが)おそらく6人目ではないかと思います、ある程度「比類なき先言の<私>」について理解を示した人は。 共同体意識も個性(個別性)も共に大切なものであるということには同意します。
あえて少し補足させていただきますと。。。 言語というのはコミュニケーションツールとしての役割が大というか、ほとんどなので、どうしても言葉で表現すると(どのような言い回しや表現であろうとも)万人に共通するような対象となってしまい、元のものからは変質してしまいます。言語化できない理由は言語の原理的な機能によるものだと考えています。
少し細かいですが個性といのはgoo辞書では「個人または個体・個物に備わった、そのもの特有の性質。個人性。パーソナリティー。」となっているので無色透明ではあるが個別性そのものである「比類なき先言の<私>」の表現としては違和感があります。個別性と表現した方が(いずれにしても的確な表現はできませんが)違和感の度合いは減ります。
あと「かみ合わないように見える」「共同体意識と個性の対立というか衝突が生じている」ついては少し異論がありまして。。。
まずパニチェ(私という言い方は紛らわしくなるので、自分のことを名前で表記します)は「比類なき先言の<私>」については100%理解していますし(理解という言葉も違和感がありますが、今ここにあることが分かっています)、restさんが述べる共同体的自己やザビビのふくろう氏がウィトゲンシュタイン解釈として述べている「論考での私」も理解しているつもりです。
パニチェからすれば「かみ合っていない」「衝突が生じている」というよりも、ザビビのふくろう氏が確認もせずにのっけから「比類なき先言の<私>」を全く理解していないにもかかわらず、理解しているかのような前提で批判的な(反論的な)投稿をし、これをパニチェが指摘したにもかかわらず、ザビビのふくろう氏は自身の無理解を認めることもなく(パニチェからすれば)強弁や詭弁を繰り返しているたために衝突となっているというのが現時点でのパニチェの見解です。
一番最初に返信した以下(No18159) >> 何が言いたいのかというと、上記のザビビのふくろうさんの反論はウィトゲンシュタインと永井哲学とパニチェが探究しているテーマが混在しており、これを混同した上での反論や批判、つまり藁人形論法になっているということです。
簡単に言うとパニチェが言っている「比類なき先言の<私>」はパニチェは100%知っているので、ザビビのふくろう氏が述べている「先言の〈私〉」は「比類なき先言の<私>」を全く理解していない「似非比類なき先言の<私>」でしかないということが分っているということです。
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