| パニチェ氏へ
私の悪い癖で、ちゃんと書こうとしたらついつい長大になりそうなので、 方針を修正して、できるだけ質問に直接答える形で、短いレスになるようチャレンジすることにしました。 ところが結果は,それでもやっぱり長くなってしまったのだった(笑) ****************** >> 以下の「私」は、すべて「世界の限界としての私」(T: 5.63,5.631,5.632) > すなわち、「示される独我論的私(T: 5.62)」「形而上学的主体(T: 5.633)」を意味する。これらはすべておなじものを意味し >5.631も含め「5.6私の言語・・」「私は私の世界である」等々で述べられている「私」と、形而上学的主体(5.633&5.641また5.641では哲学的自我)や主体(5.62&5.631&5.632)が同一であるとザビビのふくろうさんが読解しているのは論考のどの言説からでしょうか?また同一であるにもかかわらず、使い分けている理由は何だと考えられますか?
たぶん知ってると思うけど、『論考』の構造上,本来,T: 5.631,5.632,5.633――これらは全て「主体」について述べた命題だ――はすべてT:5.63の注釈のはずだよね。
T:5.63 私は私の世界である(ミクロコスモス)
とすれば,原則としては,これらの「主体」は全てT:5.63の「私」が意味しているものとするのがごくごく自然な解釈ではないかな。 また、T:5.64では「唯我論の自我」と述べられ、その注釈のT:5.641では、それが「哲学的自我」「形而上学的主体」とも言い換えられており、また、それらがみなT:5.63の「私」であることも明示されている。 だから、これらを同一のものを意味する表現とするのは自然な解釈と言えるのではないかな。 一般的解釈もそうなっていると思うよ。
ただ、私見では,一番の問題は「思考し、表象する主体は存在しない」(T:5.631)の「思考し、表象する主体」をどう解釈するかだと思う。 No19324で「なお、「思考し,表象する主体」(T:5.631)は、これらと同じものではない。」と書いたように、「思考し,表象する主体」は,世界の限界である形而上学的主体とは異なるものと私は解釈している。 これは一見,前言と整合しないように思われるかもしれないが,荒っぽく言うと、 「思考し、表象する主体は存在しない。しかし,形而上学的主体は(世界の中には存在しないが) 世界の限界としてある意味存在する」 ってことです。 なぜこのように考えるかという理由は,この後。 *********************** >できれば5.631をどのように読解しているのかも知りたい。
「私」という語だけど、まず,『論考』でも「私」という語は基本的に,普通の一人称代名詞だよね。 人称代名詞は一般に主体を指示する表現で,一人称代名詞の「私」は主体の中でも「自分」を指示する表現なので、これを言い換えると「一人称主観(主体)」と言って良いんじゃないかな? しかし、「私」の日常の使用では、「語りうる主体」を意味する場合や「語りえぬ主体」を意味する場合などが混在しているので、語りうる主体の方は世界の中に分析還元して消去し、「語りえぬ私(形而上学的主体)」を純化して取り出すのが、T:5.631での思考実験による議論だと思う。 これは現象学的還元に類比的というか、現象学的還元に近いものだと言えるんじゃないだろうか。 あなたもどこかで書いていたけど、いわゆる「マッハ的光景」=「私が見出した世界」として世界を捉えるということ。 で、私見で最重要なのは、この「マッハ的光景」と、T:5.6331の図とを、完全に切り離すこと。けしてやっちゃいけないのは、マッハ的光景を、T:5.6331の図と結び付けて解釈すること。 それは、形而上学的主体と、思考し表象する主体とを同一視することだから。 (実は,日本の研究者は,この「思考し,表象する主体」をショーペンハウアーの超越論的主体ではなく,形而上学的自我として解釈する人が多い。)
さっきも少し触れたこの「思考し表象する主体(主観)というのは,諸研究によって,ウィトゲンシュタインが10代の頃に読んで影響を受けた,ショーペンハウアーにその元があることがわかっている。ハッカーによれば,ショーペンハウアーの先験的自我(超越論的主体)は次のようなものだ。(「 」内が『意志と表象としての世界』からの引用)
先験的自我は世界の存在のための前提である。このように考えられた認識主観は,単にその感性的直観にすぎない時間と空間の外に存在する。経験の形式と範疇の源泉として,それは「あらゆる経験の前提」である。それは「世界を支えるものであり,現象しているすべてのものにとり,…あまねくゆきわたりつねに前提とされる制約である。」自我は「いっさいを見るがおのれは見えない眼」であり,自我は「全存在の中心」である。(P.M.Sハッカー『洞察と幻想』59頁)
PN氏は全集版を持ってるから,『草稿』で読んでいると思うが,1916/6/11に,「私」について書き始めたとき,こう言ってる。 「私は知る,この世界があることを」 「私の眼が目の視野の中にあるように,私が世界の中にいることを」 つまり,「世界と私(主体)」との関係を「視野と眼」に比しているが、これは孫引きだが上に引用したようにショーペンハウアーがやっていることそのもの。 しかし,これは1916/8/16 にはすでに否定されている。そしてこれが『論考』の元になった思考につながっていく。 次は『論考』では削られた文章だが,このノートでは次のようなのがある。 「表象する主体というのは,結局は単なる迷信ではないのか。」(全集1.p.266) だから,要するに,T:5.63〜T:5.64は,ショーペンハウアー的な思考し,表象する主体が,存在しないということを示す議論のわけだ。 これは定説というか、ほぼ確実と言ってよい(例えば、ワイナー『天才と才人』、ハッカー『洞察と幻想』を見よ)。
なので,「思考し、表象する主体は存在しない。しかし,形而上学的主体は(世界の中には存在しないが) 世界の限界として世界と共に存在する」 換骨奪胎してイメージを述べると,世界の限界としての主体,というのは,デカルト的自我(思考する我)というより,西田幾多郎の「場所としての自己」に近いということ。
>また同一であるにもかかわらず、使い分けている理由は何だと考えられますか?
場合にもよると思います。 「形而上学的主体」と「哲学的自我」なんていうのは同義語による単なる言い換えとみなしても問題ないと思います(例えばcf.古田哲也『ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考』(266頁))。 あと他の概念は,正確な言い方かどうかは別に,さしあたり、例えばユークリッド幾何学では「二等辺三角形」と「二等角三角形」の場合と同様に、これらの概念は、外延は同じだけれども内包 は異なるので、文脈に応じて使い分けている、という説明で十分ではないでしょうか。
T:5.631の解釈については不十分かもしれないけど、まあこのへんにしておきます。 ちなみに今回入不二基義さんの『ウィトゲンシュタイン』を復習したら、思いのほか『論考』解釈については一致しているとわかって驚きました。 重要な点で異なるけれど、その違いが表面に現れるのはどっちかって言うと中期以降の解釈においてであり、表面的に現われている『論考』解釈の部分では、けっこう一致しているように思いました。 たとえば、こんな文章がありました。 「5.63と合わせて考えると、〈私=私の世界=世界=生〉という等式が成立していることになる」
****************** うー、短くしてこれか…(笑) まあ、自分としては何とか短くなるよう努力はしたけど、無理なものは仕方ないので、一応、これでNo19475への回答とします。
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