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■18585 / inTopicNo.13)  pipitさんへ
  
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2021/11/09(Tue) 00:17:11)
    pipitさん、レスありがとうございます。


    No18574
    >> 私はカントについて責任をもって言う自信はありません。
    >> それを前提で言いますが、
    >>たぶん、pipitさんのおっしゃるとおり、「限界」という概念については、基本的に同様なものとしてもよいのではないでしょうか。
    >> 「純粋な悟性的存在者の領域」というのは、ウィトゲンシュタインの言い方では、「超越論的」な領域、ということになるのではないかなと思います。<

    >投稿した時点では、
    >「純粋な悟性的存在者の領域」というのは、形而上学的領域とpipitは捉えていました。


    >> そして、それは、語りえず、示されるもの(形式として)、とも考えたと思います。<
    >なるほどです、そういう捉え方もあるのか、と、思いました。
    >カント事典での記述は形而上学領域かなと今でも思うのですが、
    >カント事典切り離して、ふくろうさんの見解として話すなら、

    >、、、わたしはウィトゲンシュタインのこと何も知らないので、とりあえずカントの形式から推測してみますね、

    >超越論的領域、例えば時間と空間は、現れたものの形式としてしか表象されないように、
    >形としてこの世界に生じる形式としてしか表れ得ない、かな、と思いましたが、

    >全く違ったらすみません。
    *****************
    ふむふむ、面白いですね。
    以下は、あくまで私の解釈、私見として述べますね。

    世界の限界、条件にあたるものは、ウィトゲンシュタインによれば
    世界のアプリオリな形式、であり、かつ、超越論的なるもの、と言ってよいと思います。
    ただ、それらは、扱い方により、形而上学的対象であったり、そうでなかったりします。
    あくまで現象を記述する上での表現形式としてそれが示されている場合、それは非形而上学的です。
    しかし、その形式自体を対象化し、いわゆるメタ言語によって語った場合、それは形而上学的対象として扱われることになる、と思います。
    自我、時間、空間、といったものはそのような意味で、形而上学的対象としても、そうでないものとしても扱われ得るものだと思います。
    だから、可能性としてですが、カントの言う「純粋な悟性的存在者の領域」というのは、ウィトゲンシュタイン的に言えば、世界のアプリオリな形式を対象化(イデア化)して(メタ言語で)語るとき、その語りの空間としての形而上学的領域のことである、というふうに解釈できないでしょうか?
    無理ありすぎ?(笑)
    でも、カントにとって、「絶対の私」のみならず、「絶対の今」、「絶対の此処」というのは、形而上学的対象ではないのかなあ?

    pipitさん、沼の深みに突き落としたとしたら、許されよ〜

引用返信/返信 削除キー/
■18579 / inTopicNo.14)  超越論的主体
□投稿者/ pipit -(2021/11/08(Mon) 22:42:57)
    ザビビのふくろうさんへ 補足

    No18578
    そういえば『超越論的な主体』と言う言葉が、『純粋理性批判』の初版のA356あたりに出てくるようで、この段落をまとめた中山元先生は、小題として
    【L15〈わたし〉という超越論的な主体の像の空虚さ】とありました。

    ちょっとわたしにはまだ、形而上学領域になるのか超越論的領域になるのかわからなくなってきましたが、
    カント事典のまた別の一部を引用しておきますね。

    No18294
    >ところで「限界づけるものはまったくそれの外にあるのでなければならない」[Prol.§59:Refl.Nr.4958、]XV41]。
    すなわちそれ自身はもはや感性的なもの、現象的なものではなく、いわば悟性的存在者(Verstandeswesen)、可想的な本体的存在者(ヌーメノンNoumenon)であるだろう。
    これが「限界概念」にほかならない。
    すなわち、この「ヌーメノンという概念は、感性の越権を制限するための単なる限界概念であって、したがって消極的にのみ使用される」といわれるのである[B311]カントはこの言葉に続けて、それを「積極的なもの」として定立することを戒めている。これは広義の理論理性の見地においてはもっともなことといえよう。
    だがこれも批判(的分別)の観点からすれば、同じ理性(の使用)でも実践理性の見地においてならば先に戒められた「感性界と悟性界(叡智界)」という二つの世界の対比はここでは可能となり、「現象人(homo phaenomenon)」と「本体人(可想人)(homo noumenon)」という対比が積極的な意味で語りうることとなるのである。<

    ザビビのふくろうさん、ありがとうございまーす
引用返信/返信 削除キー/
■18578 / inTopicNo.15)  ザビビのふくろうさんへ
□投稿者/ pipit -(2021/11/08(Mon) 22:31:13)
    ふくろうさん、レスありがとうございます。


    No18574
    > ***********
    > 私はカントについて責任をもって言う自信はありません。
    > それを前提で言いますが、
    > たぶん、pipitさんのおっしゃるとおり、「限界」という概念については、基本的に同様なものとしてもよいのではないでしょうか。
    > 「純粋な悟性的存在者の領域」というのは、ウィトゲンシュタインの言い方では、「超越論的」な領域、ということになるのではないかなと思います。<

    投稿した時点では、
    「純粋な悟性的存在者の領域」というのは、形而上学的領域とpipitは捉えていました。


    > そして、それは、語りえず、示されるもの(形式として)、とも考えたと思います。<

    なるほどです、そういう捉え方もあるのか、と、思いました。
    カント事典での記述は形而上学領域かなと今でも思うのですが、
    カント事典切り離して、ふくろうさんの見解として話すなら、

    、、、わたしはウィトゲンシュタインのこと何も知らないので、とりあえずカントの形式から推測してみますね、

    超越論的領域、例えば時間と空間は、現れたものの形式としてしか表象されないように、
    形としてこの世界に生じる形式としてしか表れ得ない、かな、と思いましたが、

    全く違ったらすみません。

    でも、お話しきかせていただいておもしろかったです、ありがとうございます(^_^)

引用返信/返信 削除キー/
■18577 / inTopicNo.16)  Re[16]: 主体
□投稿者/ パニチェ -(2021/11/08(Mon) 22:19:12)
    No18551に返信(おくたがわさんの記事)
    > ・「フクロウはもういない」を意味する命題を私が書いて(写像を行って)も、命題の中にそれを書いた主体は出てこない。
    > 「私が『フクロウはもういない』と記述した」と書いても、その「 」内は事態の写像であり、その写像を行った主体は依然として出てこない。そこに書かれている私は世界の中に登場する多数の人間の一人であり客体である。語られると主体ではなくなる。
    > これらの写像される事態の総体が世界である以上、世界の中に(真の)主体はない。

    > ・世界の開闢点である特異な私を言語で語ろうとすると、多数存在する人物の一人である「私」になってしまう。

    (彡゜o゜彡)すんばらしぃ〜!

    ちなみに以下は全く関係のない話というか愚痴めいたものですが。。。
     
    世界が開闢する地点に関して、ビッグバン宇宙論の特異点を〈私〉の点としてYahoo!掲示板で十数年前に命名したのは間違いなく永井均氏より先だったのですが、永井氏も「特異点」という表現を用いるようになったのはビックリポンですたw

引用返信/返信 削除キー/
■18574 / inTopicNo.17)  pipitさんへ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2021/11/08(Mon) 21:56:30)
    pipitさん

    レスをありがとうございます。


    >ふくろうさんの投稿
    >No18277
    >>先に述べたように、私の主張は、
    >>私は私の世界である
    ⇔私は私の言語世界である
    >>というものです。
    >>なので、ここの“私”とは、当然、世界の限界たる私、形而上学的主体であって、<

    >上のふくろうさんの意見は、カント事典にあった下記の文章の内容と整合するものだと思える、とpipitは思ったのですが、違いましたでしょうか?

    >pipitの投稿
    >No18295
    >『(略)
    >通常「限界」は、限界づけられる当のものからみられがちであるが、「限界づけるものは限界づけられるものから区別されねばならない」[B543]とすれば、その意味で「経験は自らを限界づけない」。それを限界づけるものは「純粋な悟性的存在者の領域」なのである[Prol.§59]。』

    >全然違ったらすみません!
    ***********
    私はカントについて責任をもって言う自信はありません。
    それを前提で言いますが、
    たぶん、pipitさんのおっしゃるとおり、「限界」という概念については、基本的に同様なものとしてもよいのではないでしょうか。
    「純粋な悟性的存在者の領域」というのは、ウィトゲンシュタインの言い方では、「超越論的」な領域、ということになるのではないかなと思います。
    そして、それは、語りえず、示されるもの(形式として)、とも考えたと思います。

    どうでしょう?
    ピンとくるものありますか?(笑)

    こちらこそ、違っていたらすみませんm(__)m

引用返信/返信 削除キー/
■18572 / inTopicNo.18)  Re[15]: タイムマシンと〈私〉
□投稿者/ パニチェ -(2021/11/08(Mon) 21:50:28)
    No18534に返信(おくたがわさんの記事)

    > 自然科学的に語れる「私」は空間上の様々な地点に存在する(と見なせる)が<私>は違う、同様に時間軸上でも、様々な時代を「現代」と考えて存在する(した)「私」がいたが、<私>はそうではない。そのようなそれぞれの「私」のどれかではない。ということでしょうか。

    そうです、そうです、その通り!
    「私は〇〇である」とひたすら語ってみても、「私」という語が指し示す対象にはいきつきません。
    何故なら「私は〇〇である」と語れる「〇〇」は「私」でなくともありえる事態だからです。

    > ウィトゲンシュタインの場合は、世界丸ごと、もしくは世界全体(の境界面)にべったり張り付いているようなイメージがあり、「外」はないと思いますが、パニチェさんの<私>は外もあり得る(無いとは言えない)ということでしょうか。

    はい、外もありえますし、世界丸ごともありえます。
    前期ウィトゲンシュタインの独我論は世界丸ごと私だから独我なんでしょう。

    > >>ところで、もしタイムトラベルが可能なら<今>は[ここ]と同等なものになるのでしょうか。
    >>なるでしょうね。
    >>私にとってタイムマシンの最大のパラドックスは過去に戻って自分に出会うことです。
    >>客観視できる自分がいるとするなら、それは他者であり〈私〉ではない。
    >>〈私〉とは永井氏の言葉を借りれば「私だけがその目から現実に世界が見えており、その体だけが殴られると本当に痛く、その身体だけを実際に動かせる、唯一の人間」ということになります。
    > この例は、自分としては始めて目にする説明で、目から鱗的なものを感じています。

    あ、そうですか。

    >>〈私〉の理屈上二人の〈私〉は絶対にありえない。多世界解釈もこれに同じで、否定する理由として自明なる〈私〉が今ここに存在しています。
    > 以下と関連するように思います(あくまで現段階の私の読みで、誤読かもしれませんが)

    > 5.634 このことは、私たちの経験のどの部分もアプリオリではない、ということと関係している。〜〜
    >  私たちが見ているものはすべて、別のようでもあるかもしれない。 およそ私たちが記述できるものはすべて、別のようでもあるかもしれない。 モノたちの秩序は、アプリオリには存在しない。
    > 5.64 ここでわかるのだが、ソリプシズムを徹底すると、純粋な実在論と一致する。ソリプシズムの「私」は縮んで、延長のない点となる。そして残るのは、「私」のためにコーディネートされた実在である。

    世界丸ごとの私が唯一無二の存在として実在するという実在論とするなら、「私」は世界丸ごとの「私」から縮んで点となる。
    そして残るのは世界の限界(点)から「見ている世界」としての実在だけである。

引用返信/返信 削除キー/
■18571 / inTopicNo.19)  時さんへ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2021/11/08(Mon) 21:40:29)
    時さん
    お久しぶりです。
    レスをありがとうございます。

    >風と炎の譬えは良いとして「私は語る。→私は私の言葉である。」という流れに仏教思想との違いがあるように思います。

    ここのご指摘ですが。
    さすが時さんですね。
    ここ、飛躍があります。
    正確に書くと、

    私とは、語り(語ること)そのものである。
      ↓
    私は私の言葉である。

    ここに飛躍がありますね。
    『論考』解釈としても、整合しないとは思いませんが、解釈としての範囲は超えていると思います。
    ではなぜ書いたのかというと、第一に私が単に書きたかったのと(笑)、
    第二には、ここを突っ込んでくれる人がいるんじゃないかという、いわば釣りとして書いておいたんですよね。
    理詰めに書くより、むしろこういう書き方のほうが直感的に響くんじゃないかと。
    たぶん、引っ掛かりを覚えた人は他にもいらっしゃったと思いますが、突っ込んでくださったのは、旧知の時さんだけ、というオチになりましたね(笑)
    ひょっとすると、私の意図に気付いて乗ってくださったとか^^
    まあ、それはともかく、「私は私の言葉である」についての説明までは届かないと思いますが、せっかく仏教の考えをご教示くださったので、『論考』の思想との比較を少し詳しく行ってみたいと思います。

    先に、一応前提となる『論考』の言語観について述べておいたほうがいいかもしれません。
    『論考』で言われる「言語」というのは、あくまで真偽二値の可能性をもつ文、すなわち命題(の全体)のことです。
    また、それと相即して、「論理」もまた古典論理学と呼ばれる論理学が扱うものに限られます(仮に二階述語論理を含める場合も、2値論理)。
    だから、例えば、SumioBabaさんの世界を記述する可能世界論理のような、非古典論理は全く念頭に置かれていません。
    以下でいう「言語」とは、基本的に『論考』が前提する、このきわめて限定された意味での命題=言語を意味するものとします。

    その上で、どうしても押さえておくべきことを述べます。
    命題は、論理的命題(恒真命題・恒偽命題)と経験命題に分けられます。
    例:経験命題:今、雨が降っている
      恒真命題:今、雨がふっている、または、今、雨が降っていない
      恒偽命題:今、雨が降っている、かつ、今、雨が降っていない
    このうち、『論考』で言われる「語る」言語は経験命題のみであり、これは真偽両方の可能性を有する命題です。
    それに対し論理的命題は「意味を欠く」と言われ、恒真命題(同語反復命題=トートロジー)は真でしかありえない命題、恒偽命題(矛盾命題)は偽でしかありえぬ命題です。
    経験命題の真偽は経験的検証によって定まります。
    (今、雨が降っているかどうか実際に確かめて真偽を決定する)
    対して、論理命題は経験的検証を必要としません。
    (「今、雨が降っているか降っていないかどちらかである」、というのは実際に調べるまでもなく真でしかありえない。
    「今、雨が降っていて、かつ、降っていない、というのは偽でしかありえない)、
    これら論理命題の真偽は真理条件(意味)の計算(論理計算)によって定まります。いわば意味の計算により、論理的真理(恒真)、あるいは論理的矛盾(恒偽)は「示される(証明される)」のです。

    で、以上の予備知識を前提にして、あとは論理学の記号式を書いて説明しても誰も理解できないと思いますので、
    誤解を恐れず換骨奪胎、正確さは措いて直観的になるたけわかりやすく言います。
    言語によって、(全体としての)世界の存在を語ることはできません。
    世界の存在、すなわち「世界は存在する」は、論理的真理として前提されます。
    逆に、「世界は存在しない」という命題は恒偽命題(論理的にありえない)となります。
    つまり、「世界は存在する」という命題は、偽の可能性が存在しないので、真でしかありえないことになり、いわば「独身者は結婚していない」と同様に、何も語っていないことになります。すなわち、経験的内容を欠いている(カント的に言うと、アプリオリかつ分析的真理)のです。
    というわけで、世界全体の存在は、言語が成立するため、何事かを語るための条件、限界なのです(そもそも一切何もない(無)なら語りは不可能)。
    そしてこのことは、「世界は存在する」という命題が論理的真理であることによって示されています。
    要は、世界の存在は語られるものではなく、示されるものである、ということです。
    また、言い換えると、世界の存在は語りえない、ということです。

    したがって、逆に、語りうる「存在」は、世界(時間空間)内の存在者が、いついつ、どこどこにある、ということに限られます。
    そうすると、日常的にとらえられる自分、私については、世界内に他者と共に存在する一存在者であり、たとえば「私は今、京都の龍安寺にいる」と語ることができます。つまり、この文は真偽の両方の可能性があって、本当かどうかは確かめてみなくてはわかりません。
    したがって、この私は「語りうる私」です。
    それに対して、『論考』で言われる形而上学的主体としての私というのは、
    私=世界
    が成り立つものです。
    で、先ほど世界の存在は語りえない、と先に述べました。
    ゆえに、形而上学的主体としての私の存在も、語りえないのです。

    私が表象する(語る、思考する、知覚する)とき、私は私の表象そのものであって、表象する主体(実体)ではありません。
    そして世界が私の表象であるなら、当然、私は世界である、ということになるわけです。

    実は、『論考』のもとになった『草稿』に、
    「表象する主体は恐らく空虚な妄想だろう」
    という言葉があります。
    また、『論考』には次の主張もあります。

    6.321 人間の魂の時間的な不死性、つまり魂が死後も生き続けること、それはいかなる仕方でも保証されてはいない。しかしそれ以上に、たとえそれが保証されたとしても、その想定は期待する役割をまったく果たさないのである。いったい、私が永遠に生き続けたとして、それで謎が解けるとでも言うのだろうか。その永遠の生もまた、現在の生と変わらず謎めいたものではないのか。時間と空間のうちにある生の謎の解決は、時間と空間の外にあるのである。

    このように見てくると、やはり時さんがおっしゃったことと、かなり共通する部分があるように思われますね。

    >私の知る仏教での「私」の扱いですが、「私は存在する・存在しない」のどちらかという二値での答えは説かれないようです。仏陀自身のことについての死後には存在するのかしないのかといった問いかけには無記(スルー)でした。なぜならば仏陀曰くの二値でのその答えは「涅槃や解脱に役立たないから」です。

    ただ、これは良く知られたことなんですが、仏教思想に影響を受けたショーペンハウアーに、ウィトゲンシュタインがごく若い時期に影響を受けていますので、その意味では似ている点があっても何の不思議もない、とも言われそうです。
    ************
    既に長くなったので、不十分ですが、あとは感想めいたことを幾つか。

    >それともう一つですが、気まぐれさんには少しご説明しましたが、西洋の論理と東洋の論理は違うように思います。東洋思想を西洋論理では当てはめて理解はしにくいでしょうし、逆に、西洋思想を東洋論理には当てはめて理解はしにくいと思います。それをしようとすると、その洋の東西の思想体系でのそれぞれの答えらしきものが出ないだろうと思うということです。

    というご指摘に関しては、今のところ、ちょっと留保したいですね。
    西洋論理で迫れる部分だけでも、なんか面白い気がしますので。
    日本で最初にウィトゲンシュタインの研究書を書かれた末木剛博先生も、『東洋の合理思想』その他の著作・論文で研究されており、昔読んだときは理解できなかったんですが、できればまた読んでみたいなと思っています。
    また、たとえば時さんが説明してくださる仏教思想も、必ずしも西洋論理的な意味で「非論理的」には感じないんですよね。
    だいたい、本来東洋論理的な思考であるはずの時さんも、SumioBabaさんや私の理屈に対して、むちゃくちゃ理解力ありますしね(笑)
    実は、私は仏教系の著作を読むときは、特に西洋論理的批判的態度で臨むのではなく、
    できるだけ、その仏教思想そのもののロジックを理解しようとしますので、仮に西洋論理が適用不可でも困りはしないんです。これは、分析哲学以外の大陸系哲学についても同じなんですが。
    例えば、鈴木大拙が昔、ヨーロッパだったどこだったか忘れましたが、詭弁だと批判されたこともあったようですが、私自身はそんな印象を受けませんでした。
    ただ、ご存じかどうかわかりませんが、石飛道子さんという方のように、西洋論理学を理解しないまま、仏陀論理は西洋論理を超えている、みたいに言う方がいらっしゃると、いやいやちょっと待ってよと言いたくもなるんですよね。

    なんか、時さんのレスの応答になっているかどうか、わかんなくなってきましたので、このあたりにしたいと思います。
    いつものグダグダ長い返信、申し訳ありません。
    あとひとつだけ最後に。

    >もしもザビビのふくろうさんが、長年にわたり熱心に仏教思想にはまっていたのであれば、その思想体系は解き明かされていたのではないだろうかと、ふと思う時があります。

    いやいやいや、さすがにそれはありません(笑)
    いくら尊大ゴーマンな私でも、恐縮・縮退しすぎて点となり、存在論的に無化して消滅してしまいます。
    でも、ありがとうございました。

引用返信/返信 削除キー/
■18570 / inTopicNo.20)  瞳を閉じて
□投稿者/ パニチェ -(2021/11/08(Mon) 21:36:43)
    こんばんは、おくたがわさん。レスありがとうございます。

    No18531に返信(おくたがわさんの記事)

    > おはようございます。思うことをできるだけ率直に書きましたが、その分脈絡がない返事になっているかもしれません。

    いいですね。十数年前にYahoo!掲示板でよくやってたロンパールーム(地下猫命名w)ではないので、お互い思ったことや思いついたことをカキコしていきましょう。

    > パニチェさんはリンク先の以下の問いを問題とすることに同感と考えてよろしいでしょうか?

    はい。「意識の超難問」の方が〈私〉の探究起点です。

    >>最も一般的には次のような形で表される問題である。
    >>世界中に今現在 沢山の人がいる、また今までに数多くの人が生まれてきて、これからも多数の人が生まれてきて死んでいくだろう。しかしそれにも拘らず「なぜ私は他の誰かではなく、この人物なのか?」(Why am I me, rather than someone else?)

    > もしそうであるなら、何故それが問題になるのかが自分には分からない、というのが率直な返事になります。(リンク内すべて読んだうえで)

    なるほど、やはりそうですか。
    例えば。。。「目を閉じて、耳を塞いで、心の中で“私は他者ではありえない存在ではないか?”」と問いかけてもそうですか?
    気が向いたらどうぞ♪(笑)

    > 自分の発想では、
    > ・とある人物の脳活動に伴って発生する何かが[私]と自覚されているなら、それが、その脳を持っている人物としての「私」を自己に一致させることに不思議さはない。
    > ・そうではなく、なんらか魂のようなものが飛んできて、とある肉体に憑依するような合体で私の意識と身体がある場合なら、その[私]意識が「私(身体)」に憑依したのはたまたまだろう。(なんらかの選択理由があるかもしれないが、それは現在の人知では分からない)

    これも直接的な返信になりませんが。。。
    「意識の超難問:なぜ私は他の誰でもなく私なのか?」という問いは答えを求めるための問いではなく、永井氏的には「〈私〉の存在の比類なさ」、パニチェ的には「比類なき先言の<私>」を浮き上がらせる、あるいは気付くための問いなんです。だからこの問いに直接的に解答しようとすることは、むしろこの問いが対象としているテーマかた遠ざかるかもしれません。

    > 従って「私はなぜ、この私なのか」という文言を、今までにも目にしてはいましたが、<私>の問題の核心は、文字通りのその問いではないのだろうと思っていました。

    その通り。さすがです!

    > ちなみに、形の上では同じ問いを私自身、子供のころに持っていましたが、いつの間にか疑問に思わなくなっているのは、上に書いたような解釈のゆえだろうと思います。

    そうだと思います。日常的な言語に毒されたのです!(爆)

    > そこで、「意識の超難問」、<私> の問題は、それではないだろうと思って見てきました。なんであるのかは分かっていませんが。
    > 今、書きながら思ったこと。
    > >「なぜ私は他の誰かではなく、この人物なのか?」(Why am I me, rather than someone else?)
    > このように表現すると、問題の意味が理解されないのではないか。
    > 問題となるのが<私>という特異な「何か」であることは、この疑問文からは分からないだけでなく、wikiのあの記事全体を読んでも、やはり分からない(少なくとも自分には)。
    > 単に二物が一致した理由を問うていると見えるので。

    その通りです。言語表現不可能なものは何かを読んだり、誰かに聞いても分かりません。
    何故なら、語っている者が語ろうとしているものは、聞いている者が語っている者が語ってるものとして理解しようとすれば既にその時点で変質してしまします。
    これは言語の特性のためです。コミュニケーションツールとしての言語は、原理的に言語化すれば万人が共有できる対象となるからです。

    > この鉛筆は、なぜこの鉛筆なのか
    > この目の前の木材の塊は、なぜ、この鉛筆になったのか
    > ある木材が、なぜこの鉛筆として加工されたのか
    > そういった問いとの違いが分からない。

    「目を閉じて、耳を塞いで、心の中で“私は他者ではありえない存在ではないか?”」と問いかけても、どうしてもそうですか?^^

    > 時間性が加わった、「なぜ今、ここ」という書き方も出ていますが、
    > それも、カントの意識があの時代のあの人物に宿り、ニーチェの意識があの時代に灯り、パニチェさんの意識は現代にある、それは「たまたま」でしょう、と。

    永井氏は「奇跡」と呼びますね。たまたまだとは思いますが、たまたまだとしても、たまたまパニチェがおくたがわさんでもよかったわけです。
    でも、何故か違う?この何故か違うものが〈私〉です。

    > 世界の開闢である特異な何かである<私>とは、なんであるのか、どのようにあるのか、そして、なぜ常に<今>にあるのか。常にそうでしかあれない<今>とはなんなのか。
    > こういう問いであれば、問いとして分かる気がします。
    > それを、多数併存する自然科学的な「私」の一つと結んで「なぜ、この人物?」と問うたり、また時間の流れの中のとある時期にあることを「なぜ?」と問うのが分からない。

    あ、これも〈私〉を浮き上がらせるための問いですから、直接回答するような類の問いではありません。

    > しつこくなりますが、分からない人間(おくたがわ)が、どう分からないのかの材料を提示します。
    >>…なぜ君の兄は君ではなく、君は遠縁のいとこのうちの一人ではないのか。
    > 兄に宿った意識は兄を自己とし、その弟である人物(一つの「私」)に宿った意識はこれを自己としている。そこに宿ったのはたまたまである。

    はい、その通りです。
    で、その宿ったというのは、もちろん名前でもないし、性格や性分でもないですよね?

    >>もしアルプスの風景が客観的に同じものだとしたら、いったいなにが君にこの違い─君と誰か他の者との違い─をかたくなに見いだそうとさせているのであろうか。
    > アルプスの風景と富士山の風景を異なるものと見出しているのと同じ。

    観られる対象の違いではなく、同じ景色を見ていても観る対象の方が違う。私が観ていることが分かるのは何故だという問いで〈私〉が浮き上がりませんか?ということですね。

    >>自分が〜なぜほかの処ではなく、この処に置かれているか、また私が生きるべき与えられたこのわずかな時が、なぜ私よりも前にあった永遠と私よりも後に来る永遠の中のほかの点でもなく、この点に割り当てられたのであるかということを知らない
    > たまたまとしか考えられない(仮に選択の理由があるのであっても現在の人知では分からない)。
    > 結局 <私>というものを特別扱いする理由が分からないということになるかもしれません。
    > 各時期・各場所に夥しい数併存する「私」のそれぞれに、そこからしか世界を見ることができない[私]がある、とみてはなぜいけないのか。それらがコミュニケーションをとって相手の内面を、相手の見ている世界を垣間見ようとしたりしながら存在している。そういう自然科学的な見方で足りないものは何であるのか。そのような言語的捉え方をしたときに「抜け落ちるもの」とはなんなのか。

    「目を閉じて、耳を塞いで、心の中で“私は他者ではありえない存在ではないか?”」と問いかけても、どうしてもどうしてもそうですか?^^

引用返信/返信 削除キー/
■18568 / inTopicNo.21)  ザビビのふくろうさんへ
□投稿者/ pipit -(2021/11/08(Mon) 21:13:35)
    ザビビのふくろうさん、こんばんは!
    横レス失礼しますm(_ _)m

    ふくろうさんの投稿
    No18277
    >先に述べたように、私の主張は、
    私は私の世界である
    ⇔私は私の言語世界である
    というものです。
    なので、ここの“私”とは、当然、世界の限界たる私、形而上学的主体であって、<

    上のふくろうさんの意見は、カント事典にあった下記の文章の内容と整合するものだと思える、とpipitは思ったのですが、違いましたでしょうか?

    pipitの投稿
    No18295
    『(略)
    通常「限界」は、限界づけられる当のものからみられがちであるが、「限界づけるものは限界づけられるものから区別されねばならない」[B543]とすれば、その意味で「経験は自らを限界づけない」。それを限界づけるものは「純粋な悟性的存在者の領域」なのである[Prol.§59]。』

    全然違ったらすみません!
引用返信/返信 削除キー/
■18566 / inTopicNo.22)  Re[16]: 無我
□投稿者/ パニチェ -(2021/11/08(Mon) 21:03:55)
    こんばんは、みのりさん。レスありがとうございます。

    No18530に返信(みのりさんの記事)

    > ロムの方で、私(みのり)のように、ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』について何も知らない、という方もおられるかと思うので、パニチェさんが先日、私宛に引用してくださったものを先にまず記載します。
    > >『論理哲学論考』の以下です。
    > >
    >>************************************
    >>5.631 思考し表象する主体は存在しない。
    >>もし私が「私が見出した世界」という本を書くとすれば、そこでは私の身体について報告がなされ、またどの部分が私の意志に従いどの部分が従わないか、等が語られねばならないだろう。即ちこれが主体を孤立させる方法であり、むしろある重要な意味で主体は存在しないことを示す方法なのである。というのもこの本では主体だけが論じることのできないものとなるであろうからである。
    >>5.632 主体は世界に属さない。それは世界の限界である。
    >>************************************

    > 「主体は形而上学的主体であり、世界には属さない」。
    > そうか〜、形而上学的主体についてなんですね。

    そうです。

    > わからずにすみませんでした。

    いえいえ、とんでもない。

    > それであるなら、眼の位置から開闢する世界には主体は属さない、ということにもなりますよね?
    > そう言い換えられるものでいいのでしょうか?
    > その眼の位置から開闢する世界にある様々についての中には、自分と言われるものについての姿形などを含めてのあらゆる情報も含まれ(例えば、マッハ図のように)、属性について様々に言語表現はなされるが、その言語表現において、他者とは絶対的に違いのある自分という主体を語ることはできない、ということ。
    > 必ず頽落してしまうんでしたね。

    はい。私や永井均氏の論考の解釈(以下PN解釈と表記します)では上記の通りです。

    > 通常の感覚では世界に属すると考えられている主体(私がいる、あなたがいる、とか普通に言うようなこと)ですが、その、通常の感覚では世界に属するとも考えられる主体、それの本質を言語表現は不可能だということ(言い換えれば、世界には属さない)ということで、「形而上学的主体」と呼んでいる、と考えたのですが、こうしたことで合ってますか?

    はい、PN解釈として合ってます。

    > また。先日、パニチェさんとみのりとでやりとりした話で言うところの、「どこにあるここにあるとは明言することが不可能なもの(主体)」とも重なっていそうですね。

    その通りです。

    >>カニッツァの三角形はもともとウィトゲンシュタインとは無関係で有名な錯視の図です。
    >
    > そうなんですね。 ありがとうございます。

    どういたしまして。

    > 真ん中の透明というか浮き出される三角形は、『論理哲学論考』で「主体だけが論じることのできないものとなるであろうからである。」と書かれている、その形而上学的主体についてである、ということ。その喩えとしてパニチェさんが出された、ということですね。
    > これであってますか?

    はい、PN解釈として合ってます。
    少し補足すると論考で語りえないものとしているのは形而上学的主体の他にもあります。
    論考は言語と論理を世界の写像とした言語論を前提としてさまざまなことを述べていますが、写像が成立しない対象は語りえないということになります。
    あくまで上記は前期のウィトゲンシュタインの主張であり、後期には変わりますが。。。

    > 哲学上において、他についてはそもそも何も語れない、とウィトゲンシュタインは考えていて、自について語れるものをどんどんと語っていっても、形而上学的主体(主体といわれるものの本質)については語ることができない、というのを示す有効な手段、ということですか?

    そうです。

    > また。以前に、〈私〉についての説明を、パニチェさんがみのりにしてくださった際の手法もこのことと似ていますよね。 そのように感じました。

    言語表現が不可能なものを他者に伝えようとすると、回りくどいですがああいう手法しか私は思い浮かびませんでした。
    急がば回れ!^^;

    > なるほど。植木屋さん、小学校の教員になったりというのが、『論理哲学論考』を書いたあとになるんですね。

    そうです。

    > 言語ゲームは後期のものというのは、漠然と知ってましたが、それらもメモ書き、論文、講義ノートをもとに編集されたものから解説本として世に出ている、ということなのですね。
    > (このあたりは、先日、教えていただいた分と重なる部分もありますが、再確認の意味で文章化しました。ロムの方にもいいかな、と思い。)

    そうです。

    > ザザビのふくろうさんに勧めてもらった本が来たら、『ツァラトゥストラ』の合間に少しずつ読んでみようと思ってます。
    > 入不二基義『ウィトゲンシュタイン 「私」は消去できるか』(NHK出版)
    > パニチェさん的には、私が読もうとしている本についてどう思われますか?
    > 忌憚のない意見を、参考としてお聞きしたいです。
    > (あまりいいと思わない、ということであっても、読んでみようと思うに変わりはないので、率直な意見を聞きたいのです。 読んでないのでわからない、も含めて、よかったら教えてください。)

    悪くはないと思います。
    今なら以前はさっぱり分からなかった永井均氏の「ウィトゲンシュタイン入門」も読めるんではないでしょうかねぇ〜。

引用返信/返信 削除キー/
■18564 / inTopicNo.23)  ザビビのふろくさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2021/11/08(Mon) 20:37:34)
    2021/11/09(Tue) 11:49:02 編集(投稿者)

    No18528に返信(ザビビのふくろうさんの記事)

    > ただ、私の主張を理解したら、あなたが挙げている人たちも、反対するかどうかは疑問ですけどね。

    ウィトゲンシュタインの解説書の著者は誰一人として相手にしないでしょう(笑)。
    私が引用した著者は誰もそんなことを述べてないし、ウィトゲンシュタインも論考で「私は私の言語世界である」「私が存在するとき、常に既に、言語が存在する」なんてことは述べてない。

    論考を「私は私の言語世界である」「私が存在するとき、常に既に、言語が存在する」と読解しているのは、ザビビのふろくさんだけということが明らかになったので、それで十分です。
    今回の引きずり男wのひきずり女wに対する唯一の目的です。

    > 『論考』の主張と整合しない、もしくは私の主張が矛盾しているというなら、それをきちんとあなた自身で論理的に反論として示してください。
    > でないと、議論にはなりません。おわかりですか?

    同じ強弁の繰り返しだし、平行線でしょ。貴方と議論しても何も得るものがないしお互い時間と労力の無駄です。
    長々レスもらいましたが、私はザビビのふろくさんの論考解釈に興味もありません。
    既に反論はNo18283で提示済みだし、私の中では既に終わってます。

    もう一度だけ繰り返すと。。。
    No18277のザビビのふくろうさんによれば「私」イコール「形而上学的主体」です。
    「私は私の言語世界である」は「形而上学的主体は形而上学的主体の言語世界である」となり意味をなさないし、「形而上学的主体は私の言語世界である」とするなら、ウィトゲンシュタインの「主体は世界に属さない」という言説と矛盾するということです。

    「サメは魚類である」はサメは魚類に属する。
    「形而上学的主体は私の言語世界である」は形而上学的主体は私の言語世界に属する。

    ちなみに「5.63 私は私の世界である。(ミクロコスモス)」は前期ウィトゲンシュタインの(写像理論による)独我論のことです。
    これも、ザビビのふくろうさん的に言い換えると「形而上学的主体は形而上学的主体の世界である」となり。。。。(*´Д`)はぁ?でしょう。

    以上。

    では、これにてほんまにこのテーマはザビビのふろくさんとは終わりおです。
    あとはお好きにどうぞ♪

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■18551 / inTopicNo.24)  Re[15]: 主体
□投稿者/ おくたがわ -(2021/11/08(Mon) 17:09:20)
    ・「フクロウはもういない」を意味する命題を私が書いて(写像を行って)も、命題の中にそれを書いた主体は出てこない。
    「私が『フクロウはもういない』と記述した」と書いても、その「 」内は事態の写像であり、その写像を行った主体は依然として出てこない。そこに書かれている私は世界の中に登場する多数の人間の一人であり客体である。語られると主体ではなくなる。
    これらの写像される事態の総体が世界である以上、世界の中に(真の)主体はない。

    ・世界の開闢点である特異な私を言語で語ろうとすると、多数存在する人物の一人である「私」になってしまう。

    並べて書きましたが、両者が関係しているかどうかは分かりません





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