| こんばんは、おくたがわさん。レスありがとうございます。
■No18531に返信(おくたがわさんの記事)
> おはようございます。思うことをできるだけ率直に書きましたが、その分脈絡がない返事になっているかもしれません。
いいですね。十数年前にYahoo!掲示板でよくやってたロンパールーム(地下猫命名w)ではないので、お互い思ったことや思いついたことをカキコしていきましょう。
> パニチェさんはリンク先の以下の問いを問題とすることに同感と考えてよろしいでしょうか?
はい。「意識の超難問」の方が〈私〉の探究起点です。
>>最も一般的には次のような形で表される問題である。 >>世界中に今現在 沢山の人がいる、また今までに数多くの人が生まれてきて、これからも多数の人が生まれてきて死んでいくだろう。しかしそれにも拘らず「なぜ私は他の誰かではなく、この人物なのか?」(Why am I me, rather than someone else?)
> もしそうであるなら、何故それが問題になるのかが自分には分からない、というのが率直な返事になります。(リンク内すべて読んだうえで)
なるほど、やはりそうですか。 例えば。。。「目を閉じて、耳を塞いで、心の中で“私は他者ではありえない存在ではないか?”」と問いかけてもそうですか? 気が向いたらどうぞ♪(笑)
> 自分の発想では、 > ・とある人物の脳活動に伴って発生する何かが[私]と自覚されているなら、それが、その脳を持っている人物としての「私」を自己に一致させることに不思議さはない。 > ・そうではなく、なんらか魂のようなものが飛んできて、とある肉体に憑依するような合体で私の意識と身体がある場合なら、その[私]意識が「私(身体)」に憑依したのはたまたまだろう。(なんらかの選択理由があるかもしれないが、それは現在の人知では分からない)
これも直接的な返信になりませんが。。。 「意識の超難問:なぜ私は他の誰でもなく私なのか?」という問いは答えを求めるための問いではなく、永井氏的には「〈私〉の存在の比類なさ」、パニチェ的には「比類なき先言の<私>」を浮き上がらせる、あるいは気付くための問いなんです。だからこの問いに直接的に解答しようとすることは、むしろこの問いが対象としているテーマかた遠ざかるかもしれません。
> 従って「私はなぜ、この私なのか」という文言を、今までにも目にしてはいましたが、<私>の問題の核心は、文字通りのその問いではないのだろうと思っていました。
その通り。さすがです!
> ちなみに、形の上では同じ問いを私自身、子供のころに持っていましたが、いつの間にか疑問に思わなくなっているのは、上に書いたような解釈のゆえだろうと思います。
そうだと思います。日常的な言語に毒されたのです!(爆)
> そこで、「意識の超難問」、<私> の問題は、それではないだろうと思って見てきました。なんであるのかは分かっていませんが。 > 今、書きながら思ったこと。 > >「なぜ私は他の誰かではなく、この人物なのか?」(Why am I me, rather than someone else?) > このように表現すると、問題の意味が理解されないのではないか。 > 問題となるのが<私>という特異な「何か」であることは、この疑問文からは分からないだけでなく、wikiのあの記事全体を読んでも、やはり分からない(少なくとも自分には)。 > 単に二物が一致した理由を問うていると見えるので。
その通りです。言語表現不可能なものは何かを読んだり、誰かに聞いても分かりません。 何故なら、語っている者が語ろうとしているものは、聞いている者が語っている者が語ってるものとして理解しようとすれば既にその時点で変質してしまします。 これは言語の特性のためです。コミュニケーションツールとしての言語は、原理的に言語化すれば万人が共有できる対象となるからです。
> この鉛筆は、なぜこの鉛筆なのか > この目の前の木材の塊は、なぜ、この鉛筆になったのか > ある木材が、なぜこの鉛筆として加工されたのか > そういった問いとの違いが分からない。
「目を閉じて、耳を塞いで、心の中で“私は他者ではありえない存在ではないか?”」と問いかけても、どうしてもそうですか?^^
> 時間性が加わった、「なぜ今、ここ」という書き方も出ていますが、 > それも、カントの意識があの時代のあの人物に宿り、ニーチェの意識があの時代に灯り、パニチェさんの意識は現代にある、それは「たまたま」でしょう、と。
永井氏は「奇跡」と呼びますね。たまたまだとは思いますが、たまたまだとしても、たまたまパニチェがおくたがわさんでもよかったわけです。 でも、何故か違う?この何故か違うものが〈私〉です。
> 世界の開闢である特異な何かである<私>とは、なんであるのか、どのようにあるのか、そして、なぜ常に<今>にあるのか。常にそうでしかあれない<今>とはなんなのか。 > こういう問いであれば、問いとして分かる気がします。 > それを、多数併存する自然科学的な「私」の一つと結んで「なぜ、この人物?」と問うたり、また時間の流れの中のとある時期にあることを「なぜ?」と問うのが分からない。
あ、これも〈私〉を浮き上がらせるための問いですから、直接回答するような類の問いではありません。
> しつこくなりますが、分からない人間(おくたがわ)が、どう分からないのかの材料を提示します。 >>…なぜ君の兄は君ではなく、君は遠縁のいとこのうちの一人ではないのか。 > 兄に宿った意識は兄を自己とし、その弟である人物(一つの「私」)に宿った意識はこれを自己としている。そこに宿ったのはたまたまである。
はい、その通りです。 で、その宿ったというのは、もちろん名前でもないし、性格や性分でもないですよね?
>>もしアルプスの風景が客観的に同じものだとしたら、いったいなにが君にこの違い─君と誰か他の者との違い─をかたくなに見いだそうとさせているのであろうか。 > アルプスの風景と富士山の風景を異なるものと見出しているのと同じ。
観られる対象の違いではなく、同じ景色を見ていても観る対象の方が違う。私が観ていることが分かるのは何故だという問いで〈私〉が浮き上がりませんか?ということですね。
>>自分が〜なぜほかの処ではなく、この処に置かれているか、また私が生きるべき与えられたこのわずかな時が、なぜ私よりも前にあった永遠と私よりも後に来る永遠の中のほかの点でもなく、この点に割り当てられたのであるかということを知らない > たまたまとしか考えられない(仮に選択の理由があるのであっても現在の人知では分からない)。 > 結局 <私>というものを特別扱いする理由が分からないということになるかもしれません。 > 各時期・各場所に夥しい数併存する「私」のそれぞれに、そこからしか世界を見ることができない[私]がある、とみてはなぜいけないのか。それらがコミュニケーションをとって相手の内面を、相手の見ている世界を垣間見ようとしたりしながら存在している。そういう自然科学的な見方で足りないものは何であるのか。そのような言語的捉え方をしたときに「抜け落ちるもの」とはなんなのか。
「目を閉じて、耳を塞いで、心の中で“私は他者ではありえない存在ではないか?”」と問いかけても、どうしてもどうしてもそうですか?^^
|