□投稿者/ みのり -(2021/11/08(Mon) 08:22:22)
| 2021/11/08(Mon) 18:16:40 編集(投稿者)
ロムの方で、私(みのり)のように、ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』について何も知らない、という方もおられるかと思うので、パニチェさんが先日、私宛に引用してくださったものを先にまず記載します。
>『論理哲学論考』の以下です。 > > ************************************ > 5.631 思考し表象する主体は存在しない。 > もし私が「私が見出した世界」という本を書くとすれば、そこでは私の身体について報告がなされ、またどの部分が私の意志に従いどの部分が従わないか、等が語られねばならないだろう。即ちこれが主体を孤立させる方法であり、むしろある重要な意味で主体は存在しないことを示す方法なのである。というのもこの本では主体だけが論じることのできないものとなるであろうからである。 > 5.632 主体は世界に属さない。それは世界の限界である。 > ************************************
■No18518に返信(パニチェさんの記事)
>>言語で語れる私についてはいくらでも言語を用いて語ることはできる。 >>しかし、語れない主体についてはいっこうに語ることはできない。 >>ということでしょうか。 > > そうです。
はい。
>>ふと思ったのは、そもそも主体というのは人間独自の思考によって設定されているものであり、言わば人間の思考によってのみ(言語によってのみ)存在させられているものなので、主体の「本質」について語ろうとしても語れるものではないのではないか、ということ、それをウィトゲンシュタインは引用文で言おうとしているのかな、ということです。 >>そして、 >>>主体は世界に属さない。 >>とは、「主体というのはそもそも存在しない」という意味? とも思いました。 > > ここで言う主体とは形而上学的主体のことです。 > そもそも存在しないということではなく、世界内には属さないということですね。
「主体は形而上学的主体であり、世界には属さない」。 そうか〜、形而上学的主体についてなんですね。 わからずにすみませんでした。
それであるなら、眼の位置から開闢する世界には主体は属さない、ということにもなりますよね? そう言い換えられるものでいいのでしょうか? その眼の位置から開闢する世界にある様々についての中には、自分と言われるものについての姿形などを含めてのあらゆる情報も含まれ(例えば、マッハ図のように)、属性について様々に言語表現はなされるが、その言語表現において、他者とは絶対的に違いのある自分という主体を語ることはできない、ということ。 必ず頽落してしまうんでしたね。
通常の感覚では世界に属すると考えられている主体(私がいる、あなたがいる、とか普通に言うようなこと)ですが、その、通常の感覚では世界に属するとも考えられる主体、それの本質を言語表現は不可能だということ(言い換えれば、世界には属さない)ということで、「形而上学的主体」と呼んでいる、と考えたのですが、こうしたことで合ってますか?
また。先日、パニチェさんとみのりとでやりとりした話で言うところの、「どこにあるここにあるとは明言することが不可能なもの(主体)」とも重なっていそうですね。
> >>例のカニッツァの三角形みたいなイメージで捉えています。 >>あの図というのは、ウィトゲンシュタインが考えたものなのでしたっけ? >>それともそれ以前からあるものでしたか? > > カニッツァの三角形はもともとウィトゲンシュタインとは無関係で有名な錯視の図です。
そうなんですね。 ありがとうございます。
>>でも今回は理解できた気がします。 >>黒い三つの丸いパックマンみたいなのが、三人の人間。 >>そして、対角線上のそれぞれの頂点が、それぞれの人間の主体になるんでしょうね。 >>主体、〈私〉と言い換えてもパニチェさん的にはいいのだと思うのですが、それはそれぞれの本人にしか知りえない、というのを表している図なのかな、と。 > > 黒い三つの丸いパックマンみたいな形や直線が論考で語っている部分の象徴(例え)です。 > 論考で語れるところを語ることによって(言語の限界を示すことによって)語れない部分(透明の三角形、これがカニッツァの三角形です)が浮き彫りになるという構図を示したつもりでした。 > 余計に分かりにくかったかもしれませんね。
真ん中の透明というか浮き出される三角形は、『論理哲学論考』で「主体だけが論じることのできないものとなるであろうからである。」と書かれている、その形而上学的主体についてである、ということ。その喩えとしてパニチェさんが出された、ということですね。 これであってますか?
> >>世界内に存在する身体性も含めた空間や物質に関して「私の意志に従う」ものが自であり、「従わないもの」が他であるというような自他の境界みたいなものだと私は読解しています。 >>なるほど。 自分のものとされている例えば心臓は、自分では制御できない(しつこいな〜 (笑)んですが、それは「自」ですか、それとも「他」と考えられますか? > > ここで前提になっているのは言語と論理を世界との対応関係(写像理論)として示しています。 > 心臓は自分では制御できませんが身体の特性を述べている文脈ではないので、世界に属するうちの自他の境界を示し、語れる自を語る(書籍に書く)ことで、世界に属さない形而上学的主体を浮き上がらせる(孤立させる)に有効な手段だというようなことを述べているのだと思います。
哲学上において、他についてはそもそも何も語れない、とウィトゲンシュタインは考えていて、自について語れるものをどんどんと語っていっても、形而上学的主体(主体といわれるものの本質)については語ることができない、というのを示す有効な手段、ということですか?
また。以前に、〈私〉についての説明を、パニチェさんがみのりにしてくださった際の手法もこのことと似ていますよね。 そのように感じました。
>>なんでウィトゲンシュタインは一冊しか書かなかったんでしょうね。 >>哲学で大人気だし、たくさんの解説書も出されているほどなのに。 >>ニーチェのように何冊も出していれば、言説がわかりやすかったのかもしれないですね。 > > 論考をもって語ることをいったんやめました。
なるほど。植木屋さん、小学校の教員になったりというのが、『論理哲学論考』を書いたあとになるんですね。
> 新たな言語論(言語ゲーム)の発想でもって哲学に復帰しましたが書籍にまとめる前に他界してしまい、多くのメモ書きや論文、講義ノートがみつかり、これをもとにした複数の書籍が出版されたということです。
言語ゲームは後期のものというのは、漠然と知ってましたが、それらもメモ書き、論文、講義ノートをもとに編集されたものから解説本として世に出ている、ということなのですね。
(このあたりは、先日、教えていただいた分と重なる部分もありますが、再確認の意味で文章化しました。ロムの方にもいいかな、と思い。)
>>私自身に関しては、今、『ツァラトゥストラ』で一杯なので、ウィトゲンシュタインの解説書までは手が出せないし、なにしろ去年、永井さん解説のを買って少し読んだけど、わからなすぎで途中でやめてますからねぇ。。。(´;ω;`)ウッ… >>で、読んでもいないのに、興味本位に自由奔放にレスして、申し訳ない気持ちでもあります。。。 > > 全然、大丈夫です。^^
ザザビのふくろうさんに勧めてもらった本が来たら、『ツァラトゥストラ』の合間に少しずつ読んでみようと思ってます。 入不二基義『ウィトゲンシュタイン 「私」は消去できるか』(NHK出版)
パニチェさん的には、私が読もうとしている本についてどう思われますか? 忌憚のない意見を、参考としてお聞きしたいです。 (あまりいいと思わない、ということであっても、読んでみようと思うに変わりはないので、率直な意見を聞きたいのです。 読んでないのでわからない、も含めて、よかったら教えてください。)
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