| こんばんは。
ここではpipitさんをはじめ、『純粋理性批判』を熱心に勉強しておられる方がいるようなので、カントを意識して『論考』について少し補足解説します。
『論考』解釈史の比較的早い時期に、E.ステニウスが『論考』について「超越論的言語論」という解釈をしました。 つまり、『論考』の思想を超越論的哲学として捉えるもので、これはほぼ定説と言ってよい解釈になっています(たぶん)。 これを私なりにわかりやすく敷衍しますと、 カントが『純粋理性批判』において認識の限界の画定として行った超越論的考察を、 ウィトゲンシュタインは『論考』において、いわば『純粋言語批判』として、すなわち言語(語り)の限界・思考の限界の画定として行いました。 具体的には、要は、言語の超越論的考察=論理(学)的考察として行ったのです。 なので、主観も、認識世界の超越論的条件であるという点に関しては少しかぶっています。 『論考』の形而上学的主観は「世界を構成する主観」ではないので、「超越論的主観」と言ってもだいぶん違いますが、ラフに言ってしまうと、カントの主観(実際にはショーペンハウアーの「純粋我」と言うべきかもしれませんが)を論理的に純化していろいろそぎ落とした、って感じかな。 …うー、ま、しかし、この主観の説明は換骨奪胎しすぎ、ミスリーディングかもしれません。ご注意ください。
上に述べたことを、ほんの少しだけですが内容に踏み込んで説明しましょう。 ちょっと前に純理トピでも話題になっていたと思いますが、有名な
〈私は思惟する〉はすべての私の表象に伴いうるのでなければならない。
というカントのテーゼがありますね。これを、
〈私は語る〉は、すべての私の表象に伴いうるのでなければならない
と言い換えれば、
私の言語(の限界)が表象世界の超越論的条件(私の世界の限界)である、
というふうに、なんとなく直感的にイメージできるのではないでしょうか? もちろん、このままの形でウィトゲンシュタインが言っているわけではありませんので、その点、誤解なきよう。対応するオリジナルは次です。
T5.6 私の言語の限界が私の世界の限界を意味する
どうです?これ、ちょっと興味を惹かれませんか?(笑)
また言うまでもないと思いますが、以上の説明は、あくまでザビビのふくろう個人の解釈に基づいています。 ******************** とりあえず以上です。 ん〜、わかりやすいかな、これ?(笑) わかりにくかったらすみませんm(__)m
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