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Re[13]: 意識の難問と意識の超難問
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□投稿者/ おくたがわ -(2021/11/08(Mon) 08:58:01)
| ■No18379に返信(パニチェさんの記事)
おはようございます。思うことをできるだけ率直に書きましたが、その分脈絡がない返事になっているかもしれません。
> こんばんは、おくたがわさん。レスありがとうございます。 > 勝手ながらこちらに取り置きたいので移動しました。お許しあれ♪ > > ■No18358に返信(おくたがわさんの記事) >>最初の方に戻ってのレスになります。 > > >>>>意識は万人にある(特別な例を除く) > >>>>で、貴方が意識という言葉で表せる存在であるとするなら > >>>>どうやって沢山の意識が存在する意識の中で、どれが自分の意識であるか判別しない > >>以下パニチェさんはおそらく何回も説明されたことかもしれませんが、すみません。 >>意識が脳活動に付随すると考える人間にとって、一つの脳内の活動に統一的に伴う意識があるとすれば、他の脳システムに伴う意識と混線することはなく、[それ]のみが自己の意識と分かるのではないかと思うのですが、 >>これでは「どれが自分の意識であるかを判別」できないとお考えでしょうか? >>「意識が個々の脳の活動であったり、それに伴うものである」かどうかではなく、そのように考える者にとっては、どれが自己の意識であるかという問題は生じないのではないかという疑問です。 >>(そこで生じるのは、個々の脳活動にどうやって意識が伴うのかという問題になるかと) > > ストレートな返信にならなくて恐縮ですが。。。 > > 上記の(そこで生じるのは、個々の脳活動にどうやって意識が伴うのかという問題になるかと)は「意識の難問(意識のハード・プロブレム)」と呼ばれるテーマですね。 > > これは大方の人が理解できる問題というかテーマです。 > https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%8F%E8%AD%98%E3%81%AE%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%96%E3%83%AC%E3%83%A0 > > さて。。。。正直なところを、おくたがわさんにお聞きしたのは以下の「意識の超難問」についてです。 > https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AA%E3%81%9C%E7%A7%81%E3%81%AF%E7%A7%81%E3%81%AA%E3%81%AE%E3%81%8B > > この「意識の超難問」についておくたがわさんはどのように思われますか? > 率直な感想をお聞かせください。
パニチェさんはリンク先の以下の問いを問題とすることに同感と考えてよろしいでしょうか?
> 最も一般的には次のような形で表される問題である。 > > 世界中に今現在 沢山の人がいる、また今までに数多くの人が生まれてきて、これからも多数の人が生まれてきて死んでいくだろう。しかしそれにも拘らず「なぜ私は他の誰かではなく、この人物なのか?」(Why am I me, rather than someone else?)
もしそうであるなら、何故それが問題になるのかが自分には分からない、というのが率直な返事になります。(リンク内すべて読んだうえで)
自分の発想では、 ・とある人物の脳活動に伴って発生する何かが[私]と自覚されているなら、それが、その脳を持っている人物としての「私」を自己に一致させることに不思議さはない。 ・そうではなく、なんらか魂のようなものが飛んできて、とある肉体に憑依するような合体で私の意識と身体がある場合なら、その[私]意識が「私(身体)」に憑依したのはたまたまだろう。(なんらかの選択理由があるかもしれないが、それは現在の人知では分からない)
従って「私はなぜ、この私なのか」という文言を、今までにも目にしてはいましたが、<私>の問題の核心は、文字通りのその問いではないのだろうと思っていました。
ちなみに、形の上では同じ問いを私自身、子供のころに持っていましたが、いつの間にか疑問に思わなくなっているのは、上に書いたような解釈のゆえだろうと思います。
そこで、「意識の超難問」、<私> の問題は、それではないだろうと思って見てきました。なんであるのかは分かっていませんが。
今、書きながら思ったこと。 >「なぜ私は他の誰かではなく、この人物なのか?」(Why am I me, rather than someone else?)
このように表現すると、問題の意味が理解されないのではないか。 問題となるのが<私>という特異な「何か」であることは、この疑問文からは分からないだけでなく、wikiのあの記事全体を読んでも、やはり分からない(少なくとも自分には)。 単に二物が一致した理由を問うていると見えるので。
この鉛筆は、なぜこの鉛筆なのか この目の前の木材の塊は、なぜ、この鉛筆になったのか ある木材が、なぜこの鉛筆として加工されたのか そういった問いとの違いが分からない。
時間性が加わった、「なぜ今、ここ」という書き方も出ていますが、 それも、カントの意識があの時代のあの人物に宿り、ニーチェの意識があの時代に灯り、パニチェさんの意識は現代にある、それは「たまたま」でしょう、と。
世界の開闢である特異な何かである<私>とは、なんであるのか、どのようにあるのか、そして、なぜ常に<今>にあるのか。常にそうでしかあれない<今>とはなんなのか。 こういう問いであれば、問いとして分かる気がします。 それを、多数併存する自然科学的な「私」の一つと結んで「なぜ、この人物?」と問うたり、また時間の流れの中のとある時期にあることを「なぜ?」と問うのが分からない。
しつこくなりますが、分からない人間(おくたがわ)が、どう分からないのかの材料を提示します。
> …なぜ君の兄は君ではなく、君は遠縁のいとこのうちの一人ではないのか。
兄に宿った意識は兄を自己とし、その弟である人物(一つの「私」)に宿った意識はこれを自己としている。そこに宿ったのはたまたまである。
> もしアルプスの風景が客観的に同じものだとしたら、いったいなにが君にこの違い─君と誰か他の者との違い─をかたくなに見いだそうとさせているのであろうか。
アルプスの風景と富士山の風景を異なるものと見出しているのと同じ。
> 自分が〜なぜほかの処ではなく、この処に置かれているか、また私が生きるべき与えられたこのわずかな時が、なぜ私よりも前にあった永遠と私よりも後に来る永遠の中のほかの点でもなく、この点に割り当てられたのであるかということを知らない
たまたまとしか考えられない(仮に選択の理由があるのであっても現在の人知では分からない)。
結局 <私>というものを特別扱いする理由が分からないということになるかもしれません。 各時期・各場所に夥しい数併存する「私」のそれぞれに、そこからしか世界を見ることができない[私]がある、とみてはなぜいけないのか。それらがコミュニケーションをとって相手の内面を、相手の見ている世界を垣間見ようとしたりしながら存在している。そういう自然科学的な見方で足りないものは何であるのか。そのような言語的捉え方をしたときに「抜け落ちるもの」とはなんなのか。
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