□投稿者/ パニチェ -(2021/11/03(Wed) 21:56:45)
| 2021/11/03(Wed) 22:15:45 編集(投稿者)
レスどうも、相変わらず印象操作とかがお好みのようですね。 ロムを過剰意識した「賢くみられたい症候群」の人に多いパターンです。 以下、議論が拡散するのを避けるため枝葉末節は省略し端的にいきます、
■No18277に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
> >「私は私の言語世界である」「私が存在するときは言語世界が存在する」なんてことはウィトゲンシュタインは論考では述べておりません。もし述べているならNoを示して下さい。 > 私は、ウィトゲンシュタインがそう述べているとは一言も言っていませんが。
ここは一致ですね。 ウィトゲンシュタインは「私は私の言語世界である」「私が存在するときは言語世界が存在する」とは述べてない。 ザビビのふくろうさんが述べているだけです。
> 私の議論を読んでくださってますか?
読んでます。
> 私は先に、こう述べています。 > >『論考』における“私の世界”とは、“私の言語”が語る世界です。 > >「語りえぬ世界」というのは語義矛盾です。 > >したがって、世界とは本質的に言語世界(言語によって語られる世界)のことです。
> これと、 > 5.63 私は私の世界である。(ミクロコスモス。)
> を前提として、 > > 私は私の言語世界である > をふくむ以下の主張を、論理的に導出しているのです。
(A)「私は私の言語世界である」は「私イコール私の言語世界」あるいは「私ならば私の言語世界である」ということでしょう。普通の日本語ならそうです。 私と言語世界は同一か、あるいは私が言語世界に含まれるかです。 「サメは魚類である」この場合はサメが魚類に含まれる。 よって、仮に「私は私の言語世界である」とするなら私は私の言語空間に含まれることになる。
> なので、ここの“私”とは、当然、世界の限界たる私、形而上学的主体であって、 > 形而上学的主体なんだから、当然、時間空間を超えているからです。
同意しますよ。 貴方は前期ウィトゲンシュタインの形而上学的主体と〈私〉を味噌クソ一緒にして矛盾だとか述べてましたが、これを論じても無駄なので、ここでは無視します。
> ウィトゲンシュタインは、『論考』において、「「私」が世界の限界に位置し」ている、などと一言も述べていません。 > T5.632 主体は世界に属さない。それは世界の限界である。
> と言っているのです。 > 主体は「限界に位置している」のではなく、「世界の限界」なのです。 > だから、世界には属さないのです。 > よって、私の主張に矛盾はありません。 > よろし?
いっこもよろしくないでしょ。 (A)の理屈によって矛盾する。 私は私の言語世界でありながら、どうして私の言語世界つまり世界に属さないと言えるのでしょうか? サメが魚類に属さず魚類の限界なわけないでしょう。
|
|