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No18294 の記事


■18294 / )  カント事典の『限界概念』
□投稿者/ pipit -(2021/11/04(Thu) 09:40:47)
    みなさま、こんにちは。

    他トピで限界の話題が出てたから、カントはどう考えてるのかなー、と、『カント事典』見てみました。(執筆者先生のカント解釈になりますけどね)

    『限界概念』という項目があったので(『カント事典』弘文堂、p152)読むと面白く感じたので引用します。

    引用開始(p152)
    『限界概念[(独)Grenzbegriff]
     限界概念の思想は、カント的な「批判」的発想から出ていると解される。
    人間の認識のはたらきは感性と悟性という二つの基本的な認識能力(「二本の幹」)の協働によると理解される。すなわち感性的な直観において認識の質料が与えられ、その際の感性の形式(空間と時間)に加えて悟性の形式(カテゴリー)がはたらくことによって、その直観の多様の(綜合的)統一において客観的な認識が成立する。
    そこで、もともとは感性的直観に始まるその認識の対象は、その意味では広義において感性的なもの(感性界に属するもの)、あるいは現象的なもの、現象的存在者(フェノメノンPhanomenon)といえる。換言すれば可能的な経験の対象であるわけである。
     上記の「批判」的発想からすると、ここにそうした感性的なものを限界づけるものが考えられてくるであろう。
    ところで「限界づけるものはまったくそれの外にあるのでなければならない」[Prol.§59:Refl.Nr.4958、]XV41]。
    すなわちそれ自身はもはや感性的なもの、現象的なものではなく、いわば悟性的存在者(Verstandeswesen)、可想的な本体的存在者(ヌーメノンNoumenon)であるだろう。
    これが「限界概念」にほかならない。
    すなわち、この「ヌーメノンという概念は、感性の越権を制限するための単なる限界概念であって、したがって消極的にのみ使用される」といわれるのである[B311]カントはこの言葉に続けて、それを「積極的なもの」として定立することを戒めている。これは広義の理論理性の見地においてはもっともなことといえよう。
    だがこれも批判(的分別)の観点からすれば、同じ理性(の使用)でも実践理性の見地においてならば先に戒められた「感性界と悟性界(叡智界)」という二つの世界の対比はここでは可能となり、「現象人(homo phaenomenon)」と「本体人(可想人)(homo noumenon)」という対比が積極的な意味で語りうることとなるのである。
    その意味では、かの「限界概念」なるものは、その(「表面(正面)」では許されぬが)「裏面(背面)」には、ある種の積極的なものを秘めているともみられるであろう(「限界」の項参照)。
     ところでカントはその「限界概念」を「諸制約の減少において残るもの」ともみている[Refl.Nr.4522、]XU581]。
    つまりそれを感性的なものの側からみれば、一種の逓減化の極限においてみることができるように思われるわけである。
    このような観点からその「限界概念」を解釈したのが、新カント(学)派、とくにマールブルク学派の創始者コーヘンのカント解釈である。
    そこでは、あたかも数学における極限0に向かって無限に収斂する数列のように、限界概念は、思惟の無限な根源的運動を可能にするものとしてとらえられる。
    コーヘンはとくに「内包量」の原則を踏まえてその種のカント解釈を展開したが、見ようによっては、極限的な「意識一般」や「超越的な当為(Sollen)」を説く西南ドイツ学派のリッケルトの認識論にも、この種の発想に多少とも連なるものをみることができるかもしれない。⇒批判、限界、ヌーメノン
    (伴 博)』
    引用終了

    、、、ぎゃー、最後に「意識一般」出てきたー
    :(;゙゚'ω゚'):
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