(現在 過去ログ2 を表示中)

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

[ 親記事をトピックトップへ ]

このトピックに書きこむ

レス数の限度を超えたのでレスできません。

(レス数限度:100 現在のレス数:100) → [トピックの新規作成]
■18005 / inTopicNo.37)  日記
  
□投稿者/ pipit -(2021/10/26(Tue) 21:44:46)
    No17992に返信(pipitさんの記事)
    > No17979
    > わーい、たくさんの和訳嬉しいです!
    > あとでゆっくり読ませていただきます!
    >
    > とりあえず、ここが、面白いかも、と
    > Σ(・□・;)
    >
    >  >by it, no representation can exist for me.<
    >
    > 見た、聞いた、に、I think という意識がくっつかないと、
    >
    > for me が 成り立たないということかも?と、I think (^○^)
    >

    試しに、彼が考えたが伴う表象、と見ようととしても、
    やっぱり、わたし が見てる表象、となるんだよね。

    経験的統覚は、例えば記憶の現出が関与してると思う。

    その記憶が変質したり、別人に変わったりしても、わたし、なんだと思う。

    この形式を離れることって、できるのかなー。

    もう少し該当箇所などを読んで考えてみたい。



引用返信/返信 削除キー/
■17993 / inTopicNo.38)  日記
□投稿者/ pipit -(2021/10/26(Tue) 19:39:18)
    見たものを、わたしが見たとする。

    聞いたものを、わたしが聞いたとする。


    触 から 見解 を つくる
引用返信/返信 削除キー/
■17992 / inTopicNo.39)   おくたがわさんへ 
□投稿者/ pipit -(2021/10/26(Tue) 19:33:11)
    No17979
    わーい、たくさんの和訳嬉しいです!
    あとでゆっくり読ませていただきます!

    とりあえず、ここが、面白いかも、と
    Σ(・□・;)

     >by it, no representation can exist for me.<

    見た、聞いた、に、I think という意識がくっつかないと、

    for me が 成り立たないということかも?と、I think (^○^)

引用返信/返信 削除キー/
■17989 / inTopicNo.40)  Re[14]: 経験的統覚と純粋統覚
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/10/26(Tue) 18:52:31)
    お邪魔しま〜す。

    ■17978、おくったがわさんの、中島義道先生の『カントの読み方』なんだけど、
    これって、中島さんのカントの、そこに中島さんのフィヒテ、フッサールを登場させて、カントの中島さんのから中島さんのフィヒテ、フッサールのが書かれてあって、中島さんのカントのが書いてある、っていうことってわたし見てるんだけど。な〜んかごちゃごちゃしてるから、これは捨て置いて。

    『カントの超越論的統覚に対するフィヒテやフッサールの(カントからすれば)大きな歪曲は、…‥ということころにある』
    ここんとわたしちょっと気になったのね。だからお邪魔ね。わたしフィヒテのは知らない。
    んで、ここんとこ、、
    「(カントからすれば)カントの超越的統覚に対するフッサールの大きな歪曲は、…‥というところにある」ってわたしには見えるんね。
    ま、中島さんは優秀である、ということから、彼の言ってることが「正解」だとして置く。

    でもね、わたしのとちょっと違うの。
    ここらへんは現象学と関係してくるから、Whatのところで後で書こうと思ってる。

引用返信/返信 削除キー/
■17988 / inTopicNo.41)  おくたがわさんへ
□投稿者/ pipit -(2021/10/26(Tue) 18:23:05)
    おくたがわさん、こんばんはー
    (#^.^#)♪

    No17978
    > 意識一般のこと投稿すると言っておいて、していなくてすみません。
    > あのとき疑問だったのは、客観であるためには私の意識だけではダメと読めるような御子柴さんの文章で、おそらく皆さんも、そこは気にしておられたと思います。
    > カントの客観は一人の人間の中で成立すると思え、純粋統覚は一人の人間が場所や時刻が移っても一貫した意識で統一されるというように思えるので。<

    話題が少しずれるかもですが、関連して今思ってることを書かせていただきますね。
    No17852を書いた時も同じようなイメージがあったのですが

    主観から、わたしの世界、を意識内に作る時、
    大別して二つの世界を作ってるかも?と最近思っています。
    一つは主観の中での主観世界。
    もう一つは主観の中での客観世界。

    つまり、私 を設置して、私 が 客体を体験する世界を作る。
    (私の存在も、私が居ても居なくても関係ない存在も、同時に主観の内で作る。)

    おくたがわさんが作る、おくたがわさんがいなくても存在する(と想定する)世界の像と、
    pipitが作る、pipitがいなくても存在する(と想定する)世界の像が、
    それぞれの主観のうちで作られた中での、客観に妥当する客体となり、それは共通できる像(対象)と合意できるのではないかと。

    それで、この時キーポイントになってくるのが、物自体の触発による感性の表象ではないかと、思ってるんです。
    現れる位置って、自分勝手には決められないですよね。自発ではない。

    このことに関連すると思うのですが、柄谷行人さんという方の文章を抜粋引用します。
    『(略)ここでは、人間が能動的に対象を構成する前に、それを感性において触発する物自体、認識を可能にするがそれ自体は認識できない物自体が中心として見いだされている。言いかえれば、カントは、人間の受容性・受動性を強調しているのである。カント以降の哲学者はーショーペンハウエルのようなカント主義者でさえーすべて物自体という概念を拒否した。その結果として、カントは、世界を能動的に構成する主観性の哲学の祖と見なされるようになる。それはカント自身がいう「コペルニクス的転回」の方向に沿うものである。しかし、カントには、あくまで主観の受動性・被投性Geworfenheitを強調する物自体の概念がある。それは、いわば地動説という意味での「コペルニクス的転回」である。』
    現代思想1994年3月臨時増刊号p9より引用。

    もし、絶対空間的なものがわたしたちの感性の【形式】として存して、物自体の触発から主観に生じる時、各主観に対応した座標にそれぞれ現れるとしたら。。。

    No17852で引用した、カントの文章
    『それは、現象の一切の形式と存在あるいは非存在の一切の関係とがそこで生じる、空間と時間がただ一つであるのと同様である。』

    これはもちろん、一人の人間の中での『一つ』と読むのが無難かもしれませんが、
    一つの時間空間を私たちが共に生きている、と、とることも可能なのじゃないかな、と、疑っています。
    選択肢の一つとして、なのですが、、、

    んー、、、沼ですー(p_-)


    > ところで、「純粋統覚」でニーチェクラブ内を検索して思ったのですが、このトピはすでにカント辞典になってますよ。カントについて調べたい人に無料の辞典として宣伝したいくらい。<

    そんなことは全然ありませんが(><)
    ここまで書き込みさせていただいたパニチェさんには感謝しています
    m(_ _)m

引用返信/返信 削除キー/
■17980 / inTopicNo.42)  Re[10]: 超越論的感性論 第二項:V−3
□投稿者/ おくたがわ -(2021/10/26(Tue) 01:34:48)
    No17853に返信(pipitさんの記事)
    横からすみません
    >>内的感官は、心がそれを介して自分自身を、或いは自分の内的状態を直観するもので、なるほど一つの客観〔Objekt〕としての魂自身についていかなる直観も与えはしないが、しかしながらやはり、魂の内的状態の直観がそのもとでのみ可能である一定の形式であり

    外の世界の物と同様に「自分自身、或いは自分の内的状態」も、それそのものを人は知ることができない。つまりそれらも物自体の世界でどのようであるのかは分からない。
    これが、因果律と自由意志が両立するとカントが考える根拠であることを純理のどこかに書いてましたね、たぶん。
    因果律は人間の悟性が(たぶん純粋悟性概念が)現象なり経験なりに与えるもの、一方、物自体の側の人間の内面にはそもそも因果律はないので自由意志が成立し得る、と。


引用返信/返信 削除キー/
■17979 / inTopicNo.43)  Re[13]: 純粋統覚についての和訳
□投稿者/ おくたがわ -(2021/10/26(Tue) 01:21:08)
    以下は、自分の趣味の和訳比較です。私しか興味が無い可能性がありますが。

    b132
    純粋統覚と名付ける理由、それは
    石川
    「私は考える」という観念を生み出しながら、他のすべての観念にともなうことができなければならない自己意識であり、すべての意識において同一で、さらなる観念にともなわれることのありえない自己意識だからである。

    この統覚は自己意識であって、そのような自己意識は、あらゆる諸表象に伴いえなければならず、だからすべての意識において同一のものであるところの、我思考すという表象を産み出すゆえ、いかなるものによってもそれ以上伴われえないからである。
    中山
    これが、私は考えるという像を生み出す自己意識だからである。この自己統合の意識は、ほかのすべての像に伴うことができるものであり、わたしのすべての意識において同一のものであり、ほかのどのような像もこれに伴うことはできないものである。
    御子柴
    それが一切の自余の表象に伴うことができなければならない〈私は考える〉という表象を産出し、一切の意識において一にして同一であることによって、いかなる他の表象からも導出されることのできない自己意識だからである。
    天野
    あらゆる表象に伴うことが可能的でなければならぬところの、そして凡ての意識に於いて唯一にして同一であるところのー表象を産出するが故に、決して他の統覚からは導き出され能わぬ自覚であるから。
    高峯
    「わたくしは考える」という、あらゆる他の表象に伴わざるをえず、かつあらゆる意識において同一である表象を生み出す自覚であり、決してさらに他の統覚からは導き出せないような自覚であるからである。

    細かいことですが
    「(ほかの像に)伴われることがない」型が前三者
    「ほかから導出できない」型が後三者 ---その中で後の二つは「他の統覚から導出できない」

    さらに J. M. D. Meiklejohnさんの英訳は異色で
    because it is self-consciousness which, whilst it gives birth to the representation “I think,” must necessarily be capable of accompanying all our representations. It is in all acts of consciousness one and the same, and unaccompanied by it, no representation can exist for me.
    「それに伴われることがなければ、いかなる表象も存在することができない」
    和訳6者と構文も意味も完全に異なる訳し方(原文が違ってる可能性あるのかな?)。
引用返信/返信 削除キー/
■17978 / inTopicNo.44)  Re[12]: 日記
□投稿者/ おくたがわ -(2021/10/26(Tue) 01:10:15)
    No17960に返信(pipitさんの記事)
    > 意識には、常に「わたしは考える」という意識が伴い得る、というのがカント的統覚なのかと思ってます。これから勉強するところです。
    > 常に伴い得る「わたしは考える」が、個々の意識を全部「わたしの意識」として取りまとめ秩序づけ、わたしの経験とする。(カント哲学の理解として勘違いしてる可能性あります)

    意識一般のこと投稿すると言っておいて、していなくてすみません。
    あのとき疑問だったのは、客観であるためには私の意識だけではダメと読めるような御子柴さんの文章で、おそらく皆さんも、そこは気にしておられたと思います。
    カントの客観は一人の人間の中で成立すると思え、純粋統覚は一人の人間が場所や時刻が移っても一貫した意識で統一されるというように思えるので。
    その件についての御子柴さんの意図は分からないので、純理を全部読んでいくうちに分かってくるかどうかにします。
    ということで、通読に戻ることにしましたが、どこまで読んだか忘れたので、もういちど第二部門論理学の最初から始めます。うましかさんのようにコツコツ読んでいくことに。1日1ページでも。

    ところで、「純粋統覚」でニーチェクラブ内を検索して思ったのですが、このトピはすでにカント辞典になってますよ。カントについて調べたい人に無料の辞典として宣伝したいくらい。

    例えば
    **NO.2329
    中島義道先生の『カントの読み方』には、

    『カントの超越論的統覚に対するフィヒテやフッサールの(カントからすれば)大きな歪曲は、「超越論的統覚が経験的統覚を可能にする」というとき、前者と後者とは実在的区別(distinctio realis)ではなく単に理性的区別(distinctio rationnis)にすぎないのに、すなわち、後者から切り離された前者はただ理性的(思考において)ととらえられるにすぎないのに、それを後者から独立の実在的なあり方だと考えてしまったところにあります。
    言いかえれば、カントの場合、経験的自我の「うち」に超越論的統覚はまるごと含まれており、それは紙に描かれた経験的円の「うち」に純粋な円がまるごと含まれているのと同様です。
    純粋な円が、空間のうちに具体的に描かれた円から独立に「思考のうち」に「ある」わけではない。
    それは、ゆがんだ円の「ある」まさにそこに「ある」のです。』
    (p177より引用)
    『純粋統覚(超越論的自我)と経験的統覚(経験的自我)との関係もまったく同じです。「(現実的に)存在する」のは経験的自我のみなのであり、超越論的自我とは、経験的自我が成立しているまさに「そこに」成立しているのです。』
    (p178.179より引用)
    **

引用返信/返信 削除キー/
■17977 / inTopicNo.45)  Re[12]: 沼文章で毎度クタクタ(;´・ω・)
□投稿者/ おくたがわ -(2021/10/26(Tue) 00:44:39)
    2021/10/26(Tue) 07:35:16 編集(投稿者)

    No17881に返信(pipitさんの記事)
    うましかさん、pipitさん、こんばんは

    >>たまに違う哲学本をひらくと、ストレスなく目で字を追えることに驚きます。
    > まあ、字面を追えるだけで内容を理解できるわけではないのですがね
    > (;´・ω・)<
    >
    > わかる気しますー、多分おくたがわさんも。。。
    >
    > うちの次男は別分野ですが、わかりにくい難しい理屈をがんばって理解してると、気がつくといろんなものの構造が見えやすくなってて嬉しかった、ってこの前言ってました。
    > 経験や練習になってるんですかね。

    自分も以前、うましかさんと同じことを感じて、このトピにも投稿したことがありました。うましかさんが登場される前ですねたぶん。
    頭の訓練にはなってるんでしょうね。
    カントで苦しんだ後は、ウィトゲンシュタインや道元なんて漫画なみですよ(さすがに嘘


引用返信/返信 削除キー/
■17960 / inTopicNo.46)  日記
□投稿者/ pipit -(2021/10/25(Mon) 07:01:01)
    ふと、前に見た夢のことを思い出した。

    夢の中で、わたしは男の人で、南の島のような森で眼下にすごく綺麗な海が木の隙間から見えてて(その視界がひらけてるだけで、男の人としてのわたし本人の姿は見えない)、目の前に、フィリピン人みたいな?ものすごい美人がいて、その方はわたしの恋人で、追いかけっこみたいなふざけ合いしながら、(ああ、君を愛している)と思っている夢だった。

    とても美しい女性と、美しい海だった。

    意識には、常に「わたしは考える」という意識が伴い得る、というのがカント的統覚なのかと思ってます。これから勉強するところです。
    常に伴い得る「わたしは考える」が、個々の意識を全部「わたしの意識」として取りまとめ秩序づけ、わたしの経験とする。(カント哲学の理解として勘違いしてる可能性あります)

    カントの『純粋理性批判』は難書ですが、一度は通読できたらいいな、と、自分では思っています。

引用返信/返信 削除キー/
■17949 / inTopicNo.47)  Re[10]: 超越論的感性論 第二項:V−4
□投稿者/ pipit -(2021/10/24(Sun) 10:04:21)
    うましかさん、おはようございます(^ ^)
    朝から(?)勉強おつかれさまです!

    No17945

    >或る種の諸感覚が私の外なる或るものと(言いかえれば、私が現にしめている場所とは別の空間の場所をしめている或るものと)連関づけられるためには、また同じく、私がそれらの諸感覚を、たがいに分離しかつ並存しているものとして、したがって異なっているのではなく、異なった場所にあるものとして表象しうるためには、空間の表象がすでにその根底になければならないからである。<

    ここ、今のわたしには面白かったです!
    ありがとうございまーす (o^^o)♪


引用返信/返信 削除キー/
■17945 / inTopicNo.48)  超越論的感性論 第二項:V−4
□投稿者/ うましか -(2021/10/24(Sun) 09:39:53)
    2021/10/24(Sun) 16:00:46 編集(投稿者)

    pipitさん、皆さん、おはようございますー

    *******

    ◆ 1 空間は、外的な諸経験〔aeusseren Erfarungen〕から抽象されたいかなる経験的な概念〔empirischer Begriff〕でもない。なぜなら、或る種の諸感覚が私の外なる或るものと(言いかえれば、私が現にしめている場所とは別の空間の場所をしめている或るものと)連関づけられるためには、また同じく、私がそれらの諸感覚を、たがいに分離しかつ並存しているものとして、したがって異なっているのではなく、異なった場所にあるものとして表象しうるためには、空間の表象がすでにその根底になければならないからである。したがって空間の表象は外的な現象〔aeussern Erscheinung〕の諸関係から経験をつうじて借りてこられたものではなく、この外的経験がそれ自身前記の空間という表象によってのみはじめて可能である。

    --- No.17841 からの続き ---

    ◇ 2 空間は、全ての外的な直観の根底にある一つのア・プリオリで必然的な表象である。

     ※1 外的と内的、その区別の導入。何を境界とする、内・外か?
     ※2 外的な経験と内的な経験。「人間の認識構造」(黒崎〔『純理』入門〕, p.75)における位置づけ

    ◇人はたとえ空間のうちにいかなる対象も見いだされないということを十分考え得るにしても、いかなる空間も存在しないということについては決して表象することはできない。

    ◇それゆえ空間は諸現象の可能性の条件とみなされるものであり、諸現象に依存する一つの規定とみなされるものではなく、だから外的な諸現象の根底に必然的にある一つのア・プリオリな表象である。

     ※3 空間とは、諸現象の可能性の条件である。



    † 原佑訳上巻、p.150〜p.151参照
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳は参照しますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    V−1 No.17515、V−2 No.17588、V−3 No.17841
    U−1 No.16741、U−2 No.16783
    T−1 No.16440、T−2 No.16454、T−3 No.16495

    *******

    No.16440,16454,16495,16741,16783,17515,17588,17841

引用返信/返信 削除キー/

<前の12件 | 次の12件>

トピック内ページ移動 / << 0 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 >>
Mode/  Pass/

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -