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■17388 / inTopicNo.1)  純粋理性批判を読んでみる。28
  
□投稿者/ パニチェ -(2021/10/10(Sun) 07:17:50)
    トピ主:pipitさん

    引き続きよろしくお願いします。
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■17403 / inTopicNo.2)  パニチェさんへ
□投稿者/ pipit -(2021/10/10(Sun) 12:53:27)
    いつも有り難うございます!

    よろしくお願いいたしますm(_ _)m
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■17411 / inTopicNo.3)  Re[2]: 素朴的経験
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/10/10(Sun) 15:28:35)
    ■17400を見て、ふと、メルポンの、思い出した。

    pipitさま、また来ちゃったよ〜。

    【…主知主義のなかには、みずからの乗り越えるべき、〈経験主義〉のいくぶんかが、また、〈抑圧された経験主義〉のごときが残っている。したがって、物についてのわれわれの直接的経験の権利を回復するためには、一方の経験主義に対しては、物は感覚的顕現の彼岸にあるのだと主張しなくてはならず、また同時に、主知主義に対しては、物は判断の秩序に属する統一体ではなく、〈あらわれ〉そのものに〈受肉〉しているのだ、と主張しなければならない。素朴的経験においては、物がパースペクティヴ的存在であることになんの疑いもない。つまり、中間の媒体なしで呈示されながらも、少しづつしか開示されず、決して完全に開示されることはない、というのが、物にとっては同時に本質的なことなのである。
     もちろん物は、パースペクティヴ的諸局面を媒介として現れるが、しかしここで問題となるのは、単なる〈論理的媒介〉ではない。なぜなら、その媒介によってわれわれは物の〈血肉をそなえた現実〉に到達するはずだからである。物の可能的諸局面のひとつにしかすぎないと、自分にもわかっているような〈パースペクティヴ的一局面〉の〈なかに〉、私は単なる局面を超越する〈物そのもの〉を捉えるのである。超越でありながらも私の認識に対して開かれている超越、これこそが素朴的意識によってめざされているがままの〈物〉の定義なのである。
     このように記述される知覚がどんなに考えがたいものであろうとも、その困難はわれわれの甘受すべきものであり、事実そのようにしてわれ・われは知覚し、われわれの意識も物ので暮らしているのである。…】(『行動の構造』より)

    っていうところ。

    ふと、だけのでごめんね。
    あれ?これ前に書いたかも?ま、いいよね。

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■17412 / inTopicNo.4)  Re[3]: 素朴的経験
□投稿者/ pipit -(2021/10/10(Sun) 15:43:18)
    悪魔ちゃんへ

    No.17411

    引用してくれたメルポンさんの文章読んだよ、ありがとう。沁みるわー
    。゚(゚´ω`゚)゚。
    (ダブルでね。ありがとうね。)

    ちょっと、わたし、思考に囚われすぎかもしれんね。

    >あれ?これ前に書いたかも?ま、いいよね。<

    もっっちろんいいし、わたし、物覚え、わるいとこといいとこあるねん。
    どっちかいうと、悪いねん、多分ー

    ありがとう
    コンビニに冷凍ピザ買いに行ってくるわー
    景気はキラキラに映るかな?
引用返信/返信 削除キー/
■17413 / inTopicNo.5)  間違えてた
□投稿者/ pipit -(2021/10/10(Sun) 15:54:43)
    > 景気はキラキラに映るかな?<

    _| ̄|○

    景色 と 入力したつもり だったのぅ
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■17419 / inTopicNo.6)  いざ超越論的感性論の沼にまいる(・ω・)A
□投稿者/ うましか -(2021/10/10(Sun) 21:24:50)
    pipitさん、こんばんはー

    *******

    No.16432より。

    T超越論的原理論

    第一部門 超越論的感性論
     第一項 ← 済 ( T−1 No.16440、T−2 No.16454、T−3 No.16495、U−1 No.16741、U−2 No.16783 ) 

    第一節 空間について
     第二項 空間概念の形而上学論究 ← 次
     第三項 空間概念の超越論的論究
     □□□ 前述の諸概念からの結論

    第二節 時間について
     第四項 時間概念の形而上学的論究
     第五項 時間概念の超越論的論究
     第六項 これらの諸概念からの結論
     第七項 解明
     第八項 超越論的感性論のための一般的注解
     □□□ 超越論的感性論の結び

    となります。(※□□□は私による挿入。項の文頭を揃えるためのもので、それ以上の意味はありません。)原佑訳上巻では、p.145〜p.189となります。







引用返信/返信 削除キー/
■17421 / inTopicNo.7)  その前のうましかメモ(;´・ω・)未知の根?
□投稿者/ うましか -(2021/10/10(Sun) 21:53:14)
    以前から気になっているところ(・ω・)ノ

    序論の最後( No.16076

    >ところで、人がこの学の区分を体系一般という一般的な観点からこころみようとするならば、私たちが今論述している区分は、第一には純粋理性の原理論、第二には純粋理性の方法論を含まねばならない。これらの主要部分のそれぞれはその小区分をもつであろうが、それにもかかわらず、そうした小区分の根拠はここではまだ論述され得ない。ただ、次のことだけは序論あるいは前書きには必要であると思われる。それはすなわち、おそらく共通の、しかし私たちには未知の根から生じているところの人間の認識の二つの幹、つまり感性と悟性とがあるが、これらのうちの前者によって、私たちには対象が与えられるが、後者によって対象が思考されるということである。ところで、感性もア・プリオリな諸表象を含んでいるはずであり、そうしたア・プリオリな諸表象が、私たちにそのもとで対象が与えられる諸条件をなす限り、感性は超越論的哲学に属するであろう。超越論的感性論は原理論の第一部門に属さなければならないだろうが、それは、人間の認識の対象がそのもとでのみ与えられる諸条件は、その同じ対象がそのもとで思考される諸条件に先行するからである。<
    →原佑訳上巻、p.140〜p.142参照

    >おそらく共通の、しかし私たちには未知の根から生じているところの人間の認識の二つの幹、つまり感性と悟性とがあるが、これらのうちの前者によって、私たちには対象が与えられるが、後者によって対象が思考されるということである。

    … dass es zwei Staemme der menschlichen Erkenntnis gebe, die vielleicht aus einer gemeinschaftlichen, aber uns unbekannten Wurzel entspringen, naemlich Sinnlichkeit und Verstand, durch deren ersteren uns Gegenstaende gegeben, durch den zweiten aber gedacht werden.

    *******

    人間の認識の二つの幹といわれる「感性」と「悟性」。それらは、私たちには未知の根から生じている、、、らしい。

           
       未知根ママ      
       (・∀・)

    感性くん  悟性くん
    (;´・ω・) (;゚Д゚)




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■17423 / inTopicNo.8)  感想 ♪
□投稿者/ pipit -(2021/10/11(Mon) 00:00:54)
    No17421に返信(うましかさんの記事)
    >
    unbekannten Wurzel entspringen, naemlich Sinnlichkeit und Verstand,

    >
    > *******
    >
    > 人間の認識の二つの幹といわれる「感性」と「悟性」。それらは、私たちには未知の根から生じている、、、らしい。
    >
    >        
    >    未知根ママ      
    >    (・∀・)
    >
    > 感性くん  悟性くん
    > (;´・ω・) (;゚Д゚)
    >


    かわいすぎます…

    未知根ママ

    謎です…

    悟性くん、うん、そんな感じ ♪

引用返信/返信 削除キー/
■17447 / inTopicNo.9)  Re: 意識一般
□投稿者/ おくたがわ -(2021/10/11(Mon) 22:07:18)
    2021/10/11(Mon) 22:21:32 編集(投稿者)

    こんばんは。
    過去投稿で話題になっている「意識一般」について書きます。旬を過ぎた話題であれば、また内容的にも自分のためのメモにすぎない投稿となるかもしれません。すみません。

    意識一般は純粋統覚の別名だという御子柴さんの引用がありましたが、コトバンク・大辞泉も同様の語釈を挙げていました。

    純理で純粋統覚を説明した部分を御子柴訳で引用します(ニーチェクラブ過去ログ検索により)

    『〈私は考える〉が、私の一切の表象に伴うことができるのでなければならない。
    というのは、さもなければ、なにかまったく考ええられないようなものが、私の中に表象されることになってしまうだろうからである。
    この事態は、表象が不可能になるか、少なくとも私にとって無になるということを意味する。

    表象のうち、一切の思考に先立って与えられることができるようなものは、直観と呼ばれる。したがって、直観の一切の多様なものは、この多様なものが見出されるのと同じ主観において、〈私は考える〉に必然的に関係する。

    さて、この表象は自発性の働きであり、感性に属するものと見ることのできないものである。私はこの表象を純粋統覚と呼ぶことで、それを経験的統覚から区別する。

    あるいはまたそれを根源的統覚とも呼ぶ。
    なぜなら、それは次のような自己意識だからである。
    すなわち、それが一切の自余の表象に伴うことができなければならない〈私は考える〉という表象を産出し、一切の意識において一にして同一であることによって、いかなる他の表象からも導出されることのできない自己意識だからである。』


    最後の部分、中山元訳では
    『この自己統合の意識は、[心のうちに思い描くことのできる]ほかのすべての像に伴うことができるものであり、わたしのすべての意識において同一のものであり、ほかのどのような像もこれに伴うことはできないものである。』

    「わたしのすべての意識」となっています。

    ********

    https://aue.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=4304&item_no=1&page_id=13&block_id=21

    この論文で
    (3)経験判断と経験的判断の区別
    (4)<事実問題>としての経験的意識を可能にする<権利問題>としての意識一般
    の項に、「意識一般」について考えるのに役立つ「プロレゴメナ」からの引用が多く、また論文筆者自身の記述も参考になりました。

    *******
    以前話題になった「経験的」と「経験」の紛らわしさ。今回の件にもかかわりが深いと思うので、ここで再度。

    経験的(empirisch)とは、感官の直接的知覚にもとづくということ。「感覚」「知覚」「印象」。おそらく物自体による触発を受けて生じているもの。主観的な域にとどまる。
    経験(Erfahrung)には、経験的なものに加え悟性による純粋悟性概念の投入が必要。これにより客観性を獲得する。「経験判断」も同様。
    日本語にすると同じ「経験」を使うので紛らわしい。

    *********

    さて、
    判断作用には二種類あり、
    「主観的にのみ妥当する経験的判断」=「知覚判断」は
    諸知覚を「私の状態の意識(経験的意識)」において(in einem Bewusstsein meines Zustndes)結合するという仕方での判断。
    ある状況下での、とある自己意識に関係する諸知覚を結合するのみであり、主観的にとどまる。
    一方、客観的に妥当となる「経験」や経験判断では、
    諸知覚を「意識一般」において(in einem Bewusstsein ueberhaupt) 結合することが必要。
    この結合された諸知覚・諸表象に純粋悟性概念が適用され、客観的なものとなる。

    というようなことになるかと思います(現状の私の理解では)。

    以下の引用における、経験的統覚/経験的心理的相対的な自己意識 が上記の経験的意識に該当するように思われます。
    超越論的統覚が、純粋統覚/意識一般に完全に該当するのかどうかは分からないので保留します。

    NO.16832
    > カント事典『統覚』p373より抜粋引用
    > 『これに対して、カントにおける統覚は、経験的統覚と純粋な根源的統覚とに分けられる。[B132]。前者は、経験的心理的相対的な自己意識であり、後者は超越論的統覚として、あらゆる認識内容としての知覚を統一しつつ、自己自身を統一するという二面性をもつ。』


    ***
    「Bewusstsein meines Zustndes」と「Bewusstsein ueberhaupt」
    ネット翻訳では、
    meines=mine 、私の / Zustndes=condition、調子 
    ueberhaupt は 「まったく」
    ueberhauptには in general という英訳も出るものの…一般という言葉はイメージが違うような…と思い、念のためネット辞書(国語)を見ると

    「一般」:「特殊の物・事・場合に対してだけでなく、広く認められ成り立つこと」「 広く全体に共通して認められ、行き渡っていること」

    それであれば「意識一般」で合ってるのか。。
    ただしこれは1人の自己意識として時・場合が異なっても通底するという意味であって、他者の意識との共通ではないと考えます。これに関し疑問を感じさせる御子柴さんの記述がありましたが、それについてはまた今度。

    長文失礼しました。 
    さらに続きます。

引用返信/返信 削除キー/
■17452 / inTopicNo.10)  Re[9]: Re: 意識一般
□投稿者/ pipit -(2021/10/11(Mon) 23:15:05)
    わーい、おくたがわさん、こんばんは!
    ヽ(*^ω^*)ノ♪♪♪

    おくたがわさんの考察、嬉しいです!

    ゆっくり読ませていただきますね!
引用返信/返信 削除キー/
■17473 / inTopicNo.11)  Re[10]: Re: 意識一般
□投稿者/ おくたがわ -(2021/10/12(Tue) 11:55:58)
    pipitさん、こんにちは。
    しばらく続けさせてほしいと思っているのですが、結局は私が書くことは、意識一般ってどういうものだろうというpipitさんの疑問の解決には役立たないような気がしています。文章の解釈に実感が伴わないというか…。自分の整理メモ(表面的な文言の)みたいになってしまいそうでもうしわけないですが、ゆっくり続けたいので、生暖かく見守っていただけるとありがたいです(自分のトピを作って書けという感じですが)。


引用返信/返信 削除キー/
■17479 / inTopicNo.12)  Re[11]: Re: 意識一般
□投稿者/ pipit -(2021/10/12(Tue) 12:47:14)
    No17473に返信(おくたがわさんの記事)
    > pipitさん、こんにちは。
    > しばらく続けさせてほしいと思っているのですが、結局は私が書くことは、意識一般ってどういうものだろうというpipitさんの疑問の解決には役立たないような気がしています。文章の解釈に実感が伴わないというか…。自分の整理メモ(表面的な文言の)みたいになってしまいそうでもうしわけないですが、ゆっくり続けたいので、生暖かく見守っていただけるとありがたいです(自分のトピを作って書けという感じですが)。
    >
    >


    おくたがわさんの考察が読めるだけで、メモでもどこでも嬉しいですよー

    お気の向くままに !

    ちなみにわたしは、意識一般、玉虫解釈でもオーケーなんじゃないかと、今のところ思ってます!
引用返信/返信 削除キー/

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