□投稿者/ おくたがわ -(2021/10/26(Tue) 01:10:15)
| ■No17960に返信(pipitさんの記事) > 意識には、常に「わたしは考える」という意識が伴い得る、というのがカント的統覚なのかと思ってます。これから勉強するところです。 > 常に伴い得る「わたしは考える」が、個々の意識を全部「わたしの意識」として取りまとめ秩序づけ、わたしの経験とする。(カント哲学の理解として勘違いしてる可能性あります)
意識一般のこと投稿すると言っておいて、していなくてすみません。 あのとき疑問だったのは、客観であるためには私の意識だけではダメと読めるような御子柴さんの文章で、おそらく皆さんも、そこは気にしておられたと思います。 カントの客観は一人の人間の中で成立すると思え、純粋統覚は一人の人間が場所や時刻が移っても一貫した意識で統一されるというように思えるので。 その件についての御子柴さんの意図は分からないので、純理を全部読んでいくうちに分かってくるかどうかにします。 ということで、通読に戻ることにしましたが、どこまで読んだか忘れたので、もういちど第二部門論理学の最初から始めます。うましかさんのようにコツコツ読んでいくことに。1日1ページでも。
ところで、「純粋統覚」でニーチェクラブ内を検索して思ったのですが、このトピはすでにカント辞典になってますよ。カントについて調べたい人に無料の辞典として宣伝したいくらい。
例えば **NO.2329 中島義道先生の『カントの読み方』には、
『カントの超越論的統覚に対するフィヒテやフッサールの(カントからすれば)大きな歪曲は、「超越論的統覚が経験的統覚を可能にする」というとき、前者と後者とは実在的区別(distinctio realis)ではなく単に理性的区別(distinctio rationnis)にすぎないのに、すなわち、後者から切り離された前者はただ理性的(思考において)ととらえられるにすぎないのに、それを後者から独立の実在的なあり方だと考えてしまったところにあります。 言いかえれば、カントの場合、経験的自我の「うち」に超越論的統覚はまるごと含まれており、それは紙に描かれた経験的円の「うち」に純粋な円がまるごと含まれているのと同様です。 純粋な円が、空間のうちに具体的に描かれた円から独立に「思考のうち」に「ある」わけではない。 それは、ゆがんだ円の「ある」まさにそこに「ある」のです。』 (p177より引用) 『純粋統覚(超越論的自我)と経験的統覚(経験的自我)との関係もまったく同じです。「(現実的に)存在する」のは経験的自我のみなのであり、超越論的自我とは、経験的自我が成立しているまさに「そこに」成立しているのです。』 (p178.179より引用) **
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