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■17590 / inTopicNo.85)  Re[8]: 超越論的感性論 第二項:V−2
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/10/15(Fri) 20:25:58)
    お邪魔しま〜す。
    ■17588 、
    >◇ところで空間と時間とはなんであろうか?それらは現実に存在するものであろうか?<
    え?
    うましかさん、
    いまどこにいるの?
    いま夜?


引用返信/返信 削除キー/
■17588 / inTopicNo.86)  超越論的感性論 第二項:V−2
□投稿者/ うましか -(2021/10/15(Fri) 19:55:53)
    pipitさん、皆さん、こんばんはー

    *******

    ◇ところで空間と時間とはなんであろうか?それらは現実に存在するものであろうか?

    ◇それらは、なるほど諸物〔Dinge〕の規定あるいはまた関係に過ぎないものではあるが、しかしやはり、たとえ諸物自体は直観されるわけがないにせよ、諸物自体にも帰属すべきはずのものであろうか、

    ◇それとも、それらは単に直観の形式にのみ付着するものであって、したがって空間と時間というこれらの述語がそれなくしてはいかなる物にも付加されえないところの私たちの心の主観的性質にのみ付着するものであろうか?

    ◇この点を明らかにするために、私たちはまず空間の概念を論究〔eroertern〕しようと〔*1〕思う。

     *1 「空間の概念を論究しようと…」は、第一版では「空間を考察しようと…」

    ◇しかし私は、論究〔Eroerterung〕(expositio)≠ニいうことを或る概念に属する判明な(たとえ詳細ではないにせよ)表象と理解する。

    ◇だが論究は、それがその概念をア・プリオリに与えられたものとして〔als a priori gegeben〕¥柾qする〔darstellt〕ものを含んでいるときには、形而上学的〔metaphysisch〕≠ナある。


    † 原佑訳上巻、p.149〜p.150参照
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳は参照しますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。


    *******

    V−1 No.17515
    U−1 No.16741、U−2 No.16783
    T−1 No.16440、T−2 No.16454、T−3 No.16495
引用返信/返信 削除キー/
■17515 / inTopicNo.87)  超越論的感性論 第二項:V−1
□投稿者/ うましか -(2021/10/14(Thu) 00:32:45)
    2021/11/13(Sat) 15:46:31 編集(投稿者)

    pipitさん、皆さん、こんばんはー
    おじゃまします。

    *******

    T 超越論的原理論
    第一部門 超越論的感性論

    第一節 空間について 〔Von den Raume〕 
     第二項 空間概念の形而上学的論究 〔§2 Metaphysische Eroerterung dieses Begriffs〕

    ◇外的感官〔aeusseren Sinnes〕(私たちの心の一つの固有性〔einer Eigenschaft unseres Gemuets〕)を介して私たちは、諸対象〔Gegenstaende〕を私たちの外なるものとして表象し、だからこれらの諸対象をことこどく空間において表象する。この空間において、それらの形態、大きさ、相互関係が規定されているか、あるいは規定されうる。

     ※1 外的感官を介して、諸対象は私たちの外なるものとして表象される。
     ※2 外的感官を介して、諸対象は空間において表象され、形態、大きさ、相互関係が規定される。
     ※3 外的感官は、私たちの心の性質の一つである。

    ◇内的感官〔innere Sinn〕は、心がそれを介して自分自身を、或いは自分の内的状態〔innern Zustandes〕を直観するもので、なるほど一つの客観〔Objekt〕としての魂自身〔Seele selbst〕についていかなる直観も与えはしないが、しかしながらやはり、魂の内的状態の直観がそのもとでのみ可能である一定の形式であり、それゆえ内的な諸規定に属するすべてのものは時間の諸関係において表象される。

     ※4 内的感官を介して、心は自分自身か内的状態を直観する。
     ※5 内的感官を介しては、一つの客観としての魂の内的状態のいかなる直観も与えられないが、にもかかわらず、それが可能になる一定の形式である。
     ※6 それゆえ?内的な諸規定に属するすべてのものは時間の諸関係において表象される。(;´・ω・)?
     ※7 心〔Gemuet〕、魂〔Seele〕、これらの相違は?

    ◇外的には時間が直観されえないのは、空間が私たちの内なる或るものとして直観されえないのと同様である。

     ※8 外的感官を介して、空間は直観されるが、時間は直観されえない?
     ※9 内的感官を介して、時間は直観されるが、空間は直観されえない?



    † 原佑訳上巻、p.149参照
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳は参照しますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。


    *******

    U−1 No.16741、U−2 No.16783
    T−1 No.16440、T−2 No.16454、T−3 No.16495

引用返信/返信 削除キー/
■17514 / inTopicNo.88)  おくたがわさんへ
□投稿者/ pipit -(2021/10/14(Thu) 00:08:49)
    おくたがわさん、こんばんは!(*^◯^*)

    No17447
    > *******
    > 以前話題になった「経験的」と「経験」の紛らわしさ。今回の件にもかかわりが深いと思うので、ここで再度。
    >
    > 経験的(empirisch)とは、感官の直接的知覚にもとづくということ。「感覚」「知覚」「印象」。おそらく物自体による触発を受けて生じているもの。主観的な域にとどまる。
    > 経験(Erfahrung)には、経験的なものに加え悟性による純粋悟性概念の投入が必要。これにより客観性を獲得する。「経験判断」も同様。
    > 日本語にすると同じ「経験」を使うので紛らわしい。
    >
    > *********<

    わたしもそのように思っています。

    カントの文章としては、
    『(略)すべての経験判断が 
    経験的であるとしても、すなわちその根拠を感官の直接的知覚のうちにもつとしても(略)、すべての経験的判断が経験判断であるわけではないこと、(略)
    さらに、特殊な概念がつけ加わらねばならないこと(略)
    それからその概念を介して経験へと変化させられること(略)(Ak297、中公77、岩波98、(略))』
    御子柴善之先生の『カント哲学の核心』p120より引用

    ちなみに、同本p124に出てくる【対象の統一】というキーワードについて、ちょっとおもしろそうだな、と、今、思ってます。


    > さて、
    > 判断作用には二種類あり、
    > 「主観的にのみ妥当する経験的判断」=「知覚判断」は
    > 諸知覚を「私の状態の意識(経験的意識)」において(in einem Bewusstsein meines Zustndes)結合するという仕方での判断。
    > ある状況下での、とある自己意識に関係する諸知覚を結合するのみであり、主観的にとどまる。
    > 一方、客観的に妥当となる「経験」や経験判断では、
    > 諸知覚を「意識一般」において(in einem Bewusstsein ueberhaupt) 結合することが必要。
    > この結合された諸知覚・諸表象に純粋悟性概念が適用され、客観的なものとなる。
    >
    > というようなことになるかと思います(現状の私の理解では)。<

    わたしも現状そのように思っています。
    言葉が何を指すのかという問題が難しそうですけどね。

    意識一般は、初版では出てないワードなのかなぁとも思いますしねぇ。プロレゴメナで出して、第二版でも出したのかな、とか。(わかりませんけど)

    > 以下の引用における、経験的統覚/経験的心理的相対的な自己意識 が上記の経験的意識に該当するように思われます。
    > 超越論的統覚が、純粋統覚/意識一般に完全に該当するのかどうかは分からないので保留します。<

    > NO.16832
    >>カント事典『統覚』p373より抜粋引用
    >>『これに対して、カントにおける統覚は、経験的統覚と純粋な根源的統覚とに分けられる。[B132]。前者は、経験的心理的相対的な自己意識であり、後者は超越論的統覚として、あらゆる認識内容としての知覚を統一しつつ、自己自身を統一するという二面性をもつ。』<

    おそらく、わたしもおくたがわさんと同じ整理してると思ってます(勘違いしてたらすみません!)


    > ***
    > 「Bewusstsein meines Zustndes」と「Bewusstsein ueberhaupt」
    > ネット翻訳では、
    > meines=mine 、私の / Zustndes=condition、調子 
    > ueberhaupt は 「まったく」
    > ueberhauptには in general という英訳も出るものの…一般という言葉はイメージが違うような…と思い、念のためネット辞書(国語)を見ると
    >
    > 「一般」:「特殊の物・事・場合に対してだけでなく、広く認められ成り立つこと」「 広く全体に共通して認められ、行き渡っていること」
    >
    > それであれば「意識一般」で合ってるのか。。<

    ドイツ語知らないと、ニュアンスわかるの難しいですよね。
    わたし全く知らないからなぁ。( ; ; )


    > ただしこれは1人の自己意識として時・場合が異なっても通底するという意味であって、他者の意識との共通ではないと考えます。これに関し疑問を感じさせる御子柴さんの記述がありましたが、それについてはまた今度。<

    わたしも基本的に通底するという意味で考えていこうと思ってるのですが、ただ、通底してるとき、わたしたちは、同じ世界に生きている、とする見方もできるかな、との可能性も思ってるんです。
    まだちゃんとはわからないけど、中山先生の第一巻の解説(紙の本で言えばp390前後)とか見ると、『一つの公共的な時間と空間のうちに生きるのでなければ、』という文言がでてきたりで、ちゃんと考察するとおもしろい予感がしてます。

    まあ、わたしはちょっと純理に引っかかりすぎかなという気持ちもあるんですけどσ(^_^;)

    おくたがわさん、書き込みありがとうございます!
引用返信/返信 削除キー/
■17480 / inTopicNo.89)  Re[12]: Re: 意識一般
□投稿者/ pipit -(2021/10/12(Tue) 12:48:04)
    玉虫?

    玉虫色解釈?
引用返信/返信 削除キー/
■17479 / inTopicNo.90)  Re[11]: Re: 意識一般
□投稿者/ pipit -(2021/10/12(Tue) 12:47:14)
    No17473に返信(おくたがわさんの記事)
    > pipitさん、こんにちは。
    > しばらく続けさせてほしいと思っているのですが、結局は私が書くことは、意識一般ってどういうものだろうというpipitさんの疑問の解決には役立たないような気がしています。文章の解釈に実感が伴わないというか…。自分の整理メモ(表面的な文言の)みたいになってしまいそうでもうしわけないですが、ゆっくり続けたいので、生暖かく見守っていただけるとありがたいです(自分のトピを作って書けという感じですが)。
    >
    >


    おくたがわさんの考察が読めるだけで、メモでもどこでも嬉しいですよー

    お気の向くままに !

    ちなみにわたしは、意識一般、玉虫解釈でもオーケーなんじゃないかと、今のところ思ってます!
引用返信/返信 削除キー/
■17473 / inTopicNo.91)  Re[10]: Re: 意識一般
□投稿者/ おくたがわ -(2021/10/12(Tue) 11:55:58)
    pipitさん、こんにちは。
    しばらく続けさせてほしいと思っているのですが、結局は私が書くことは、意識一般ってどういうものだろうというpipitさんの疑問の解決には役立たないような気がしています。文章の解釈に実感が伴わないというか…。自分の整理メモ(表面的な文言の)みたいになってしまいそうでもうしわけないですが、ゆっくり続けたいので、生暖かく見守っていただけるとありがたいです(自分のトピを作って書けという感じですが)。


引用返信/返信 削除キー/
■17452 / inTopicNo.92)  Re[9]: Re: 意識一般
□投稿者/ pipit -(2021/10/11(Mon) 23:15:05)
    わーい、おくたがわさん、こんばんは!
    ヽ(*^ω^*)ノ♪♪♪

    おくたがわさんの考察、嬉しいです!

    ゆっくり読ませていただきますね!
引用返信/返信 削除キー/
■17447 / inTopicNo.93)  Re: 意識一般
□投稿者/ おくたがわ -(2021/10/11(Mon) 22:07:18)
    2021/10/11(Mon) 22:21:32 編集(投稿者)

    こんばんは。
    過去投稿で話題になっている「意識一般」について書きます。旬を過ぎた話題であれば、また内容的にも自分のためのメモにすぎない投稿となるかもしれません。すみません。

    意識一般は純粋統覚の別名だという御子柴さんの引用がありましたが、コトバンク・大辞泉も同様の語釈を挙げていました。

    純理で純粋統覚を説明した部分を御子柴訳で引用します(ニーチェクラブ過去ログ検索により)

    『〈私は考える〉が、私の一切の表象に伴うことができるのでなければならない。
    というのは、さもなければ、なにかまったく考ええられないようなものが、私の中に表象されることになってしまうだろうからである。
    この事態は、表象が不可能になるか、少なくとも私にとって無になるということを意味する。

    表象のうち、一切の思考に先立って与えられることができるようなものは、直観と呼ばれる。したがって、直観の一切の多様なものは、この多様なものが見出されるのと同じ主観において、〈私は考える〉に必然的に関係する。

    さて、この表象は自発性の働きであり、感性に属するものと見ることのできないものである。私はこの表象を純粋統覚と呼ぶことで、それを経験的統覚から区別する。

    あるいはまたそれを根源的統覚とも呼ぶ。
    なぜなら、それは次のような自己意識だからである。
    すなわち、それが一切の自余の表象に伴うことができなければならない〈私は考える〉という表象を産出し、一切の意識において一にして同一であることによって、いかなる他の表象からも導出されることのできない自己意識だからである。』


    最後の部分、中山元訳では
    『この自己統合の意識は、[心のうちに思い描くことのできる]ほかのすべての像に伴うことができるものであり、わたしのすべての意識において同一のものであり、ほかのどのような像もこれに伴うことはできないものである。』

    「わたしのすべての意識」となっています。

    ********

    https://aue.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=4304&item_no=1&page_id=13&block_id=21

    この論文で
    (3)経験判断と経験的判断の区別
    (4)<事実問題>としての経験的意識を可能にする<権利問題>としての意識一般
    の項に、「意識一般」について考えるのに役立つ「プロレゴメナ」からの引用が多く、また論文筆者自身の記述も参考になりました。

    *******
    以前話題になった「経験的」と「経験」の紛らわしさ。今回の件にもかかわりが深いと思うので、ここで再度。

    経験的(empirisch)とは、感官の直接的知覚にもとづくということ。「感覚」「知覚」「印象」。おそらく物自体による触発を受けて生じているもの。主観的な域にとどまる。
    経験(Erfahrung)には、経験的なものに加え悟性による純粋悟性概念の投入が必要。これにより客観性を獲得する。「経験判断」も同様。
    日本語にすると同じ「経験」を使うので紛らわしい。

    *********

    さて、
    判断作用には二種類あり、
    「主観的にのみ妥当する経験的判断」=「知覚判断」は
    諸知覚を「私の状態の意識(経験的意識)」において(in einem Bewusstsein meines Zustndes)結合するという仕方での判断。
    ある状況下での、とある自己意識に関係する諸知覚を結合するのみであり、主観的にとどまる。
    一方、客観的に妥当となる「経験」や経験判断では、
    諸知覚を「意識一般」において(in einem Bewusstsein ueberhaupt) 結合することが必要。
    この結合された諸知覚・諸表象に純粋悟性概念が適用され、客観的なものとなる。

    というようなことになるかと思います(現状の私の理解では)。

    以下の引用における、経験的統覚/経験的心理的相対的な自己意識 が上記の経験的意識に該当するように思われます。
    超越論的統覚が、純粋統覚/意識一般に完全に該当するのかどうかは分からないので保留します。

    NO.16832
    > カント事典『統覚』p373より抜粋引用
    > 『これに対して、カントにおける統覚は、経験的統覚と純粋な根源的統覚とに分けられる。[B132]。前者は、経験的心理的相対的な自己意識であり、後者は超越論的統覚として、あらゆる認識内容としての知覚を統一しつつ、自己自身を統一するという二面性をもつ。』


    ***
    「Bewusstsein meines Zustndes」と「Bewusstsein ueberhaupt」
    ネット翻訳では、
    meines=mine 、私の / Zustndes=condition、調子 
    ueberhaupt は 「まったく」
    ueberhauptには in general という英訳も出るものの…一般という言葉はイメージが違うような…と思い、念のためネット辞書(国語)を見ると

    「一般」:「特殊の物・事・場合に対してだけでなく、広く認められ成り立つこと」「 広く全体に共通して認められ、行き渡っていること」

    それであれば「意識一般」で合ってるのか。。
    ただしこれは1人の自己意識として時・場合が異なっても通底するという意味であって、他者の意識との共通ではないと考えます。これに関し疑問を感じさせる御子柴さんの記述がありましたが、それについてはまた今度。

    長文失礼しました。 
    さらに続きます。

引用返信/返信 削除キー/
■17423 / inTopicNo.94)  感想 ♪
□投稿者/ pipit -(2021/10/11(Mon) 00:00:54)
    No17421に返信(うましかさんの記事)
    >
    unbekannten Wurzel entspringen, naemlich Sinnlichkeit und Verstand,

    >
    > *******
    >
    > 人間の認識の二つの幹といわれる「感性」と「悟性」。それらは、私たちには未知の根から生じている、、、らしい。
    >
    >        
    >    未知根ママ      
    >    (・∀・)
    >
    > 感性くん  悟性くん
    > (;´・ω・) (;゚Д゚)
    >


    かわいすぎます…

    未知根ママ

    謎です…

    悟性くん、うん、そんな感じ ♪

引用返信/返信 削除キー/
■17421 / inTopicNo.95)  その前のうましかメモ(;´・ω・)未知の根?
□投稿者/ うましか -(2021/10/10(Sun) 21:53:14)
    以前から気になっているところ(・ω・)ノ

    序論の最後( No.16076

    >ところで、人がこの学の区分を体系一般という一般的な観点からこころみようとするならば、私たちが今論述している区分は、第一には純粋理性の原理論、第二には純粋理性の方法論を含まねばならない。これらの主要部分のそれぞれはその小区分をもつであろうが、それにもかかわらず、そうした小区分の根拠はここではまだ論述され得ない。ただ、次のことだけは序論あるいは前書きには必要であると思われる。それはすなわち、おそらく共通の、しかし私たちには未知の根から生じているところの人間の認識の二つの幹、つまり感性と悟性とがあるが、これらのうちの前者によって、私たちには対象が与えられるが、後者によって対象が思考されるということである。ところで、感性もア・プリオリな諸表象を含んでいるはずであり、そうしたア・プリオリな諸表象が、私たちにそのもとで対象が与えられる諸条件をなす限り、感性は超越論的哲学に属するであろう。超越論的感性論は原理論の第一部門に属さなければならないだろうが、それは、人間の認識の対象がそのもとでのみ与えられる諸条件は、その同じ対象がそのもとで思考される諸条件に先行するからである。<
    →原佑訳上巻、p.140〜p.142参照

    >おそらく共通の、しかし私たちには未知の根から生じているところの人間の認識の二つの幹、つまり感性と悟性とがあるが、これらのうちの前者によって、私たちには対象が与えられるが、後者によって対象が思考されるということである。

    … dass es zwei Staemme der menschlichen Erkenntnis gebe, die vielleicht aus einer gemeinschaftlichen, aber uns unbekannten Wurzel entspringen, naemlich Sinnlichkeit und Verstand, durch deren ersteren uns Gegenstaende gegeben, durch den zweiten aber gedacht werden.

    *******

    人間の認識の二つの幹といわれる「感性」と「悟性」。それらは、私たちには未知の根から生じている、、、らしい。

           
       未知根ママ      
       (・∀・)

    感性くん  悟性くん
    (;´・ω・) (;゚Д゚)




引用返信/返信 削除キー/
■17419 / inTopicNo.96)  いざ超越論的感性論の沼にまいる(・ω・)A
□投稿者/ うましか -(2021/10/10(Sun) 21:24:50)
    pipitさん、こんばんはー

    *******

    No.16432より。

    T超越論的原理論

    第一部門 超越論的感性論
     第一項 ← 済 ( T−1 No.16440、T−2 No.16454、T−3 No.16495、U−1 No.16741、U−2 No.16783 ) 

    第一節 空間について
     第二項 空間概念の形而上学論究 ← 次
     第三項 空間概念の超越論的論究
     □□□ 前述の諸概念からの結論

    第二節 時間について
     第四項 時間概念の形而上学的論究
     第五項 時間概念の超越論的論究
     第六項 これらの諸概念からの結論
     第七項 解明
     第八項 超越論的感性論のための一般的注解
     □□□ 超越論的感性論の結び

    となります。(※□□□は私による挿入。項の文頭を揃えるためのもので、それ以上の意味はありません。)原佑訳上巻では、p.145〜p.189となります。







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