□投稿者/ pipit -(2021/10/22(Fri) 00:24:15)
| 悪魔ちゃん、こんばんはー。
知覚判断についてだけど、わかりにくいかもだけど、カントの文章の一つを見つけたので引用するね。 御子柴善之先生の訳です。
(カントの文章の和訳) 『すべての知覚がそこで一貫した合法則的な連関として表象される経験はただ一つがあるのみである。 それは、現象の一切の形式と存在あるいは非存在の一切の関係とがそこで生じる、空間と時間がただ一つであるのと同様である。 さまざまな経験が語られる場合、それは、一にして同一の普遍的経験に属する限りでの、その数だけの諸知覚に過ぎない。 すると、諸知覚の一貫した総合的統一がまさに経験の形式をなすことになり、また経験とは概念に従った諸現象の総合的統一に他ならないということになる。(A110)』 『カント純粋理性批判』御子柴善之先生著、p179より引用。
真ん中らへんにある >さまざまな経験が語られる場合、それは、一にして同一の普遍的経験に属する限りでの、その数だけの諸知覚に過ぎない。<
↑この文章が、知覚判断(pipitが、今日は寒いねーと判断するような判断)を表してるとわたしは思ってます。 『一にして同一の普遍的経験』というものがあって、それの属性としての個人各々の知覚としての判断が知覚判断とカントは考えてるのではないかなーと。
でも、一が最初にあるわけではなく、個々の数の諸知覚が先で、諸知覚を
>概念に従った諸現象の総合的統一<
したものが、一としての経験判断となる、って感じかな、と。
御子柴善之先生は、東日本大震災を例にあげられてるんだけど、 知覚は人それぞれだよね、でも、その各個人の知覚を純粋悟性概念に従わせて判断した部分は、共通・共有の経験判断『ある特定の日時に地震があった』という一つの客観に妥当する判断がくだされることになる、ってかんじかな、と。
以上です。 おやすみです☆彡
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