(現在 過去ログ2 を表示中)

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

[ 最新記事及び返信フォームをトピックトップへ ]

■13815 / inTopicNo.49)  カント沼番外地:第一版序論 V−1
  
□投稿者/ うましか -(2021/06/09(Wed) 20:23:36)
    pipitさん、こんばんは〜
    おじゃまします。

    No.13643 U−1
    No.13576 T−3
    No.13436 T−2
    No.13389 T−1

    *******

    ◇それ以上にいうべきこと。それは、或る種の認識が、すべての可能的な経験〔aller moeglichen Erfahrungen〕の分野すら捨て去り、いかなる対応する〔entsprechender〕対象も経験のうちではどこにも与えられない概念によって、私たちの判断の範囲を経験のあらゆる限界を越えて〔ueber alle Grenzen *1〕拡張するように見えるということ。

    *1 経験のあらゆる限界を越えて拡張する(ように見える)認識。
     それに対応する対象が経験のうちではどこにも与えられない概念(;゚Д゚)

    ◇この種の認識、すなわち、感性界〔Sinnenwelt〕を越え出てゆき、経験が導くことも正すことも全然できない認識のうちに、私たちの理性の諸探究がひそんでいる。

    →原佑訳上巻、p.90〜p.91参照。文中〔〕内は私による挿入。*数字は私による覚書。

引用返信/返信 削除キー/
■13837 / inTopicNo.50)  おくたがわさんへ 山下先生の本からの引用
□投稿者/ pipit -(2021/06/10(Thu) 00:17:38)
    No.13776
    おくたがわさん、こんばんは(*^◯^*)

    この引用箇所に関連する記事を
    山下和也先生著、『カントとオートポイエーシス』晃洋書房、p81より抜粋引用しますね。

    引用開始(山下先生の解説、途中カントのB59の引用あり)
    『(略)問題となるのはカントが何度も繰り返している、現象の質料に感覚が「対応する」という表現である。
    この場合、カントは現象の質料について論じているのだから、現象のもつ感覚的性質と感覚との対応、例えば、バラの赤い色と我々がそれを見て感覚する赤い色の表象の対応を想定していると考えられる。
    こうなると、感覚が主観の変容でしかないとする議論との整合性が疑問となる。
    カント自身は明らかに、バラは本当に赤いと述べているが。
    この疑問に対してカントは現象の超越論的観念性をもって答える。

    ※カントのB59の引用
    「我々のすべての直観は現象の表象に他ならない。
    我々が直観する諸事物は、それに対して我々が諸事物を直観するそれ自体そのものではないし、それらの関係もそれ自体そのものとしては我々に現れるような性質ではない。
    我々が我々の主観あるいは感官一般の主観的性質をすら破棄しただけで、空間時間における諸客観のすべての性質、すべての関係は、いやそれどころか空間時間をも消失するし、現象としてそれ自体そのものとしてではなく、我々の内にのみ実在しうる。
    対象がそれ自体で、我々の感性のすべてのこの受容性から独立に、いかなる性質であるかは、我々にはまったく知られないままである」(B59)。
    ※カントの文章の引用終了

    つまりこの例で言えば、事物としてのバラはすでに我々の感性の性質によって規定されている。
    これは現実に見られる前から、見られうるものであるがゆえにそうなのである。
    我々の感性的直観の対象である現象としてのバラは、我々が見れば赤く見えるものという意味で、我々の主観との関係においてはじめて赤い、と言うことができる。
    しかも実際に見られる前に、である。
    したがって、それ自体として、つまり主観への関係なしに、何かが赤いと言うことはそもそも意味がない。
    「バラにそれ自体で赤さを添える場合に、[・・・]はじめて仮象が生じる」(B69Anm.)のである。
    このそれ自体ということは見られる前にという意味ではない。
    それ自体としての物など見ることはできないのであるから。
    (略)』
    引用終了

    また他の投稿もゆっくり考えながら読ませていただき返信させてもらいますね

    おつかれさまです!
    ありがとうございます(o^^o)

引用返信/返信 削除キー/
■13839 / inTopicNo.51)  うましかさんへ V ♪
□投稿者/ pipit -(2021/06/10(Thu) 00:22:59)
    No.13815
    うましかさん、こんばんは!

    V 突入ですね ♪

    ここまでの箇所は、カントの言ってること、わかる気がするぞー、って
    感じですか?

    もしよかったら、また感想きかせてくださいね(^O^)/

    おつかれさまです!
引用返信/返信 削除キー/
■13962 / inTopicNo.52)  pipitさんへ 気分転換(;´・ω・)
□投稿者/ うましか -(2021/06/10(Thu) 21:02:40)
    こんばんは。pipitさん。
    毎日暑いですね〜(´;ω;`)ウッ…

    カント沼でいつもおぼれてばかりなので、今夜は気分転換にこのBBS内を散策することにしました〜

    散策しながら目に留まった話題が二つ。カントとも無関係な話題ではないでしょうが、門外漢だし、意見交換するだけの知識も交流する気力もないので、ここにメモしておきます。


    *******

    @ザフランスキーによれば、ショーペンハウアーは1814年の夏に『ウプネカット』を初めて読んだらしい。彼はこの本をヘルダーの弟子であり、インド学者としても名をなしていたフリードリッヒ・マイヤーから教えられたとのこと。
     『ウプネカット』は、仏教以前のバラモン教の秘密の教義『ウパニシャッド』の、1801年出版の翻訳(サンスクリット原典のペルシャ語訳のラテン語訳 (;゚Д゚))で、フランス人のアンクティルがこの資料集を『ウプネカット』と題して出版したもの。
    ちなみにザフランスキーは「精神的なインドを発見した」のはロマン派の功績で、(カントと比較し)ヘルダーが「その道を切り拓いた先達」だとのべる。

    → ザフランスキー『ショーペンハウアー』、山本 尤 訳、p.342、p.343参照
    → 他に、世界の名著45 ショーペンハウアー、p.63〜の西尾幹二の解説参照

    A『ニーチェ事典』(弘文堂)によれば、ニーチェは1865年の10月末〜11月の初めに古書店でみつけたショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』(1819,1844)を読んだそうで、1868年には東洋学者ヘルマン・ブロックハウス(1806-1877)の家でヴァーグナーとショーペンハウアーについて会話したとのこと。
     まあしかし、ここでの私の関心は「ショーペンハウアー」「ヴァーグナー」「ニーチェ」とか、では全然なく「東洋学」にあります。東洋学 Orientalistik という分野がいつごろから、そう呼ばれ、どのような内容で成立していたかということは、ニーチェが「東洋的」という言葉を使うときの意味を考える際の手がかりの一つになるのではないか?と思ったのでした〜
    →ニーチェ事典、p.705、p.706参照


    やっぱりつかれた〜(´;ω;`)ウッ…

    この話題はもうおしまーい!

    それでは〜

引用返信/返信 削除キー/
■13965 / inTopicNo.53)  Re[11]:気分転換(;´・ω・)うましかさん
□投稿者/ pipit -(2021/06/10(Thu) 22:25:19)
    2021/06/10(Thu) 22:34:37 編集(投稿者)








            、、、、 ナゾ!!            





    !(◎_◎;)?






引用返信/返信 削除キー/
■13975 / inTopicNo.54)  ナゾがナゾを呼び、、、 (;゚Д゚)
□投稿者/ うましか -(2021/06/11(Fri) 07:58:45)
    >、、、、 ナゾ!! 

    今朝起きたら、なぜかこう思った(;゚Д゚)

    「そういえばエマソンはニーチェに影響を与えていなかったか?」

    さて、一日がはじまります。

    おはようございます。pipitさん。

    *******


    https://germanenherz.files.wordpress.com/2013/08/nietzschediefrohlichewissenschaft.pdf

    とりあえず、"oriental"をいれて検索〜 (うましかな方法です (;゚Д゚))



    それでは〜

引用返信/返信 削除キー/
■13979 / inTopicNo.55)  Re[11]: 英訳
□投稿者/ おくたがわ -(2021/06/11(Fri) 11:28:48)
    No13789に返信(pipitさんの記事)
    こんにちは。
    > No.13788
    > 英訳見てみたので引用しますね(^^)

    やはりですね、石川さんの訳は(部分的に)誤訳に入るんじゃないかなあと思います。(原・天野は英訳と一致しており前後の辻褄も合うと思うので)

    >The predicates of the phenomenon can be affixed to the object itself in relation to our sensuous faculty;
    for example, the red colour or the perfume to the rose.
    > But (illusory) appearance never can be attributed as a predicate to an object, for this very reason, that it attributes to this object in itself that which belongs to it only in relation to our sensuous faculty,
    > or to the subject in general, e.g.,

    But以下の部分
    仮象はけして述語として対象に帰せられ得ない。その理由は、
    仮象は感覚能力あるいは総じて主観との関係でのみそれに帰属するものを、対象自体に帰するからである。

    石川訳
    「しかし、仮象はまさしく感覚との関係においてのみ、あるいはそもそも主体に認められるため、述語としてはけっして対象に帰せられえず、客体自体にともなっていない。」
    原訳
    「しかし仮象は述語として対象にけっして付与されえない。というのも、仮象は、感官との、あるいは総じて主観との関係においてのみ対象に付属するものを、客観それ自身に付与するという、まさにこの理由からである。」
    天野訳
    「然し、仮象は決して述語として対象へ付加せられるわけには行かぬ、何故なら仮象は感能もしくは一般に主観に対する関係に於いてのみ対象に属するものを客観自体へ付加するからである。」


引用返信/返信 削除キー/
■13980 / inTopicNo.56)  Re[10]: pipitさんへ 
□投稿者/ おくたがわ -(2021/06/11(Fri) 11:53:59)
    No13788に返信(pipitさんの記事)

    問題の部分についての理解はpipitさんと私で一致しているように思います。
    それで、そこは注として書かれた部分で、何についての注かというと、
    時間・空間が我々の直観の形式としてのみあるという主張は、時間・空間に乗せて現象化する物体等が仮象であるということを意味しない。
    てことで、pipitさんの言われるように現象と仮象の区別を注釈しているのですね。

    面白く思うのは、仮に時間空間が物自体の属性ならば、我々の捉える現象はすべて仮象になってしまう、という主張。



    ところで、以前、カントの仮象には2種類あるという情報がたぶん悪魔ちゃんの引用でもたらされた記憶があり、
    一つは自然科学に反するような判断にもとずく仮象。
    もう一つがカント的に重要と思われる、我々の思考の限度を超えた判断にもとずく仮象(たぶん超越論的仮象)
    (おそらく後者が、間違った形而上学につながるという話になるのでは)

    それで、土星の柄は前者ですよね。
    後者の仮象については、「(土星に)柄はない」を、物自体としての土星の属性としてしまうと、それも仮象となるはず。

    こういう異なるレベルでの仮象を混然と提示してくるのが、カントの読みにくさの一つだと思います。

    私に誤解がある場合はご指摘ください。どなたでも。

    >
    > ■No13738に返信
    > 今の時点での感想なのですが、石川先生訳は、先生がカント哲学の体系世界(?)に精通してるゆえに、ちょっと一般的には、読むのが難しい表現になってしまっている可能性もあると思いました。
    > 私見を述べてみますね。
    >
    > 引用してくださった箇所は、現象は仮象だと言っているのではない、とカントが主張したいところだと思ってるのですが、
    >
    >>純粋理性批判 b69
    >>石川訳 p106
    >>「現象の述語はわれわれの感覚との関係において、客体そのものに帰せられうる。たとえば、バラには赤い色あるいは香りが帰せられる。<
    >
    > ここまでは、現象が客体の述語となっている現状(?)を述べてるのではないかと。
    > 赤という現象、香りという現象も、バラという客体に私たちは帰せている。
    >
    > >しかし、仮象はまさしく感覚との関係においてのみ、あるいはそもそも主体に認められるため、述語としてはけっして対象に帰せられえず、客体自体にともなっていない。たとえば、はじめは土星に二つの柄があるとされたが、そうでなかったように。<
    >
    > 現象と仮象とは別物と言うために、ここでカントは仮象の定義を述べてるのではないかと。
    > そう見えるけど実はそうではなかった、ということで、仮象は、客体(対象)に帰することはできない。
    > 仮象は客体の述語にはなれない。
    >
    > >客体それ自体にはまったく見られないが、つねに客体と主体との関係に見られ、客体の観念と不可分なもの、それが現象である。<
    >
    > ここでは現象の定義を述べてるのではないかと。
    > 物自体という客体に現象が付いているのではなく、物自体という客体・と・感官を有する主体との関係の中現れるのが現象であり、
    > しかも、物自体の客体の観念(物自体に触発されて現れた表象という観念)と不可分なもの、それが現象だ、と。
    >
    > >だから時間・空間という述語が感覚の対象そのものに帰せられるのは正しい。その点では仮象はない。<
    >
    > 感覚の対象、に、現象が述語とされるのは、そう見えるけどそうではない、という仮象ではない。
    > バラは赤い、と、赤を述語としても、
    > 現象としてのバラという客体(ある関係性の上に現れる、客体の観念としての客体)にとって、現象(赤)は、仮象ではなく、『現』象なのだ、みたいな。
    >
    >
    > >それに対して、主体に対するこれらの対象の一定の関係を無視し、私の判断をその関係に制限せずに、私がバラ自体に赤を帰し、土星に絵を帰すなど、あらゆる外的な対象に広がりをそれ自体として帰せば、そこに直ちに仮象が生じるのである。」<
    >
    > 主体と対象の関係を踏まえた上で、ある現象を、関係性を織り込み済みの対象に帰するものとするのではなく、
    > 関係性を度外視して、
    > 現象を物自体にとしての客体に帰するとき、それは仮象になってしまう。
    > つまり、現象=仮象とカントは言ってるのではなく、
    > 現象をどの対象に帰するかが問題となるのだ、
    > みたいな感じかなーと思いました。
    >
    > 勘違いしてたら、すみません!
    >
    > 一般的には、原先生の訳の方が読みやすい気がしますね!(^^)♪
    >
引用返信/返信 削除キー/
■13981 / inTopicNo.57)  Re[11]:うましかさんへ 気分転換(;´・ω・)
□投稿者/ おくたがわ -(2021/06/11(Fri) 11:58:13)
    2021/06/11(Fri) 12:01:03 編集(投稿者)

    No13962に返信(うましかさんの記事)
    こんにちは。 横からすいません

    > 散策しながら目に留まった話題が二つ。カントとも無関係な話題ではないでしょうが、門外漢だし、意見交換するだけの知識も交流する気力もないので、ここにメモしておきます。
    >
    >
    > *******
    >
    > @ザフランスキーによれば、ショーペンハウアーは1814年の夏に『ウプネカット』を初めて読んだらしい。彼はこの本をヘルダーの弟子であり、インド学者としても名をなしていたフリードリッヒ・マイヤーから教えられたとのこと。
    >  『ウプネカット』は、仏教以前のバラモン教の秘密の教義『ウパニシャッド』の、1801年出版の翻訳(サンスクリット原典のペルシャ語訳のラテン語訳 (;゚Д゚))で、フランス人のアンクティルがこの資料集を『ウプネカット』と題して出版したもの。
    > ちなみにザフランスキーは「精神的なインドを発見した」のはロマン派の功績で、(カントと比較し)ヘルダーが「その道を切り拓いた先達」だとのべる。
    >
    > → ザフランスキー『ショーペンハウアー』、山本 尤 訳、p.342、p.343参照
    > → 他に、世界の名著45 ショーペンハウアー、p.63〜の西尾幹二の解説参照
    >
    > A『ニーチェ事典』(弘文堂)によれば、ニーチェは1865年の10月末〜11月の初めに古書店でみつけたショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』(1819,1844)を読んだそうで、1868年には東洋学者ヘルマン・ブロックハウス(1806-1877)の家でヴァーグナーとショーペンハウアーについて会話したとのこと。
    >  まあしかし、ここでの私の関心は「ショーペンハウアー」「ヴァーグナー」「ニーチェ」とか、では全然なく「東洋学」にあります。東洋学 Orientalistik という分野がいつごろから、そう呼ばれ、どのような内容で成立していたかということは、ニーチェが「東洋的」という言葉を使うときの意味を考える際の手がかりの一つになるのではないか?と思ったのでした〜
    > →ニーチェ事典、p.705、p.706参照

    すごい情報量と処理能力ですね。 !!(◎_◎;)
    カント以外に関する活躍も見たいです(当トピの営業妨害になる?)

    「東洋学」とニーチェ、個人的にかなり興味を感じますが、自分には材料も能力も足りないのが残念。
引用返信/返信 削除キー/
■13986 / inTopicNo.58)  方法 (;゚Д゚)
□投稿者/ pipit -(2021/06/11(Fri) 16:41:44)
    No13975に返信(うましかさんの記事)
    > >、、、、 ナゾ!! 
    >
    > 今朝起きたら、なぜかこう思った(;゚Д゚)
    >
    > 「そういえばエマソンはニーチェに影響を与えていなかったか?」
    >
    > さて、一日がはじまります。
    >
    > おはようございます。pipitさん。
    >
    > *******
    >
    >
    > https://germanenherz.files.wordpress.com/2013/08/nietzschediefrohlichewissenschaft.pdf
    >
    > とりあえず、"oriental"をいれて検索〜 (うましかな方法です (;゚Д゚))
    >
    >
    >
    > それでは〜<

    うましかさん、こんにちはー

    !! そんな便利な方法があったのですね

    カント先生が羨むかも!?

    教えてもらってありがとうございます!
引用返信/返信 削除キー/
■13987 / inTopicNo.59)  おくたがわさんへ
□投稿者/ pipit -(2021/06/11(Fri) 17:46:09)
    こんにちは(^^) コメントありがとうございます!

    No.13788
    > 私に誤解がある場合はご指摘ください。どなたでも。<

    全然誤解と思ってるわけではなく、書く感想なんですけど、
    精読してない私の一見の印象は、

    『仮象』の言語的な構造(?)を土星の自然科学的な仮象例から取り出し、
    その構造を使って、現象が仮象になる在り方を示した様な感じに思って、
    わかりやすく感じていました。

    だから、石川先生の訳も誤訳になるのかもですが、石川先生の日訳だけで読んだ時点では、私の頭の中ではそれほど違和感なく読んでいました。
    カントは、客体を二つの意味で考えることを示していた記憶がうっすらあったので、
    そういう印象からも、自分の頭の中で文意を勝手に補足して作り上げてたかもしれませんね。(仮象は客体に帰することができない。現象は客体に帰することができるので、仮象ではない、という見解?につなげるために、文章が集約していくイメージで私は読んでいた様に思います。好き勝手に読んでるかもですみませんm(_ _)m)

    ※第二版序文、]][
    『しかし批判は、客体を二つの意味で、すなわち現象としての客体と、物自体としての客体として考えることを教えるのであり、(略)』
    『純粋理性批判1』カント、中山元先生訳、p172より引用

    とりあえずここで投稿します 
    また後ほどー(^O^)/♪
引用返信/返信 削除キー/
■14009 / inTopicNo.60)  カント沼番外地:第一版序論 V−2
□投稿者/ うましか -(2021/06/12(Sat) 09:20:32)
    pipitさん、おはようございます!
    おじゃまします。

    No.13815 V−1
    No.13643 U−1
    No.13576 T−3
    No.13436 T−2
    No.13389 T−1

    *******

    ◇それ以上にいうべきこと。それは、或る種の認識が、すべての可能的な経験〔aller moeglichen Erfahrungen〕の分野すら捨て去り、いかなる対応する〔entsprechender〕対象も経験のうちではどこにも与えられない概念によって、私たちの判断の範囲を経験のあらゆる限界を越えて〔ueber alle Grenzen *1〕拡張するように見えるということ。

    *1経験のあらゆる限界を越えて拡張するように見える認識。
     いかなる対応する対象も、経験のうちではどこにも与えられない概念(;゚Д゚)

    ◇この種の認識、すなわち、感性界〔Sinnenwelt *2〕を越え出てゆき、経験が導くことも正すことも全然できない認識のうちに、私たちの理性の諸探究がひそんでいる。

    *2 Sinn−Welt … the world of the senses

    ◇私たちの理性の諸探究は、悟性が現象から学びうるすべてのものよりはるかに卓越しており、その諸探究の究極意図〔*3〕ははるかに崇高である。

    *3 第二版序論では、続けて、この「理性の諸探究」の「究極意図」を、神、自由、不死(という不可避な課題)とする。その課題の解決にのみ向けられる学が「形而上学」と呼ばれるが、カントは理性がそれを遂行する能力をもっているか否かをあらかじめ吟味することなしにその課題を引き受ける「形而上学」を"独断的dogmatisch"〔*4〕とする。

    *4 dogmatisch はギリシア語のドグマに由来し「定説的」と訳されるとのことだが、カント事典p.355によれば、カントによって「批判の欠如」という観点からのべられるとき(「定説的dogmatisch」の第二の意味として)「独断的」と訳されるとのこと。

    ◇私たちは誤る危険をおかしてでも、そうした探究を疑わしいとか軽視や無頓着から放棄するとかするよりは、一切を賭けて〔おこなおうとする。〕

    →原佑訳上巻、p.90〜p.91参照(※翻訳は参照するが、◇〜は原文・訳文の通りではありません (;´・ω・))。文中〔〕内は私による挿入。*数字は私による覚書。
引用返信/返信 削除キー/

<前の12件 | 次の12件>

トピック内ページ移動 / << 0 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 >>

[このトピックに返信]
Mode/  Pass/

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -