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■13704 / inTopicNo.37)  Re[7]: カント沼番外地:第一版序論 U−1
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/06/07(Mon) 19:30:29)
    ん? カント哲学って沼のなの?

    わたしのイメージと違う〜。
    考える、っていうことにおいて純な水的。

    カント哲学を沼にしちゃってるのは沼って見てる人じゃない?
    こっれじゃ彼の”言いたいこと”を本当に理解しようとしてるようにはわたしには見えない。

    カント、純粋な理性を批判する、って言ってるよね。




引用返信/返信 削除キー/
■13738 / inTopicNo.38)  Re[9]: 和訳
□投稿者/ おくたがわ -(2021/06/08(Tue) 13:30:01)
    2021/06/08(Tue) 13:47:52 編集(投稿者)

    No13694に返信(おくたがわさんの記事)

    > 昨日見ていた部分で、石川訳では全く意味が解らず、本人には分かっているんだろうか?と思う部分が、原佑訳ではスッキリ分かるのがあり、優劣を一概には言えないなと思いました。その部分の天野訳はちょうど間くらい。
    > 原文を読めないし今回は英文も見ていないので、自分として理解できる日本語になっているということによる判断だけなのですが…。
    (以上おくたがわ)

    実際の文章を引用しない評定では濡れ衣も着せうるので、以下に引用しておきます。
    石川訳の方が正しいと考える人もいるかもしれないし。

    純粋理性批判 b69
    石川訳 p106
    「現象の述語はわれわれの感覚との関係において、客体そのものに帰せられうる。たとえば、バラには赤い色あるいは香りが帰せられる。しかし、仮象はまさしく感覚との関係においてのみ、あるいはそもそも主体に認められるため、述語としてはけっして対象に帰せられえず、客体自体にともなっていない。たとえば、はじめは土星に二つの柄があるとされたが、そうでなかったように。客体それ自体にはまったく見られないが、つねに客体と主体との関係に見られ、客体の観念と不可分なもの、それが現象である。だから時間・空間という述語が感覚の対象そのものに帰せられるのは正しい。その点では仮象はない。それに対して、主体に対するこれらの対象の一定の関係を無視し、私の判断をその関係に制限せずに、私がバラ自体に赤を帰し、土星に絵を帰すなど、あらゆる外的な対象に広がりをそれ自体として帰せば、そこに直ちに仮象が生じるのである。」

    原佑訳 p106
    「現象は、私たちの感官との関係においては、述語として客観自身に付与されうる。しかし仮象は述語として対象にけっして付与されえない。というのも、仮象は、感官との、あるいは総じて主観との関係においてのみ対象に付属するものを、客観それ自身に付与するという、まさにこの理由からである。たとえば、最初二本の柄が土星に付与されたのが、その例である。客観それ自体では全然見いだされることができないが、客観と主観との関係においてはいつでも見いだされることができ、客観の表象から分離することができないものは、現象であり、かくして空間と時間とは当然述語として感官の諸対象そのものに付与され、だからこの点でいかなる仮象でもない。これに反して、私が、バラ自体に赤い色を、土星に柄を、あるいはすべての外的な諸対象に拡がり自体を付与して、これらの諸対象と主観との関係を顧慮せず、また私の判断をこの関係に制限しないなら、そのときはじめて仮象が生じる。」

    疲れたので天野訳はパス 英訳もパス


引用返信/返信 削除キー/
■13739 / inTopicNo.39)  Re[8]: カント沼番外地:第一版序論 U−1
□投稿者/ おくたがわ -(2021/06/08(Tue) 13:55:10)
    No13704に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    横からごめん。

    > ん? カント哲学って沼のなの?
    >
    > わたしのイメージと違う〜。
    > 考える、っていうことにおいて純な水的。
    >
    > カント哲学を沼にしちゃってるのは沼って見てる人じゃない?
    > こっれじゃ彼の”言いたいこと”を本当に理解しようとしてるようにはわたしには見えない。
    >
    > カント、純粋な理性を批判する、って言ってるよね。

    カント哲学が沼だと言ってるんじゃなくて、著作の内容を理解したいと思うとき陥る状況を沼と言ってるんじゃないかな。体験による言葉。
    一つ前で引用したような文章。石川訳でカントの真意を読み取るのは悪魔ちゃんのような天才でも難しいのでは。
    それで、色々な訳を調べたくなる。それぞれの訳で異なる意味に読めたりもする。英訳も調べる。pipitさんたちは各種解説やドイツ語原文まで調べる。
    それはカントの言いたいことを本当に理解しようとしているから陥る状況じゃないかな。
    以上はあくまで自分の解釈でpipitさんたちは別なレスをされると思うけど。

    ちなみに「沼」は愛情表現かもしれない。わからんけど。

    >カント、純粋な理性を批判する、って言ってるよね。

    ここは、「沼ではない」にどうつながるのか興味ある。

引用返信/返信 削除キー/
■13749 / inTopicNo.40)  Re: pipitさんへ最後は空性 の話題へ〜
□投稿者/ おくたがわ -(2021/06/08(Tue) 18:41:50)
    No13511に返信(pipitさんの記事)
    遅レスですみません。

    > わたしもけっこうおくたがわさんと同じように思ってたところがあるのですが、うましかさんにコメントいただいたことで、
    > 『カントのナゾナゾ』として読む、という読み方もあるんだな、と気付かされました。

    結果としてこれほど長く多くの人を惹きつけ続けてきた「分かりづらさ(仮)」が狙いどおりだとしたら、世上に思われている以上の超天才かな。

    > それとか、禅の公案、とか。
    > (コトバンクさん『公案』より抜粋引用
    > (略)A禅宗で、参禅者に出す課題。仏祖の言行のうち、修行者にとって意義深いものや、暗示に富むものを選んで課題としたもので、難問が多い。転じて、自然現象の一切を仏法を示す課題と見る見方。また、一般に難問、研究課題をもいう。引用終了)
    >
    > 禅の場合は、知識で答え出すかんじではないかもですけどね。

    物質的な世界について思考・論理で捉え操作する方法を身に付けた人間が、心の問題にまで習慣的に思考で対処しようとしてしまう。
    これを解除するために座禅や公案があるというイメージを持っています。
    思考で導いた答えを取りつく島もなく拒否され続け、途方に暮れたところで目が開けるというような。

    何故、心の問題に思考を適用してはいけないか。
    できないから。
    できない理由は言語の限界とか、そもそも心や意識が何であるか自体分かっていないからとか、思考している意識が心である以上、心が心自らを操作しようとするのは自己言及のループに陥るとか。目が目(それ自身)を見ようとすることや、自分の腕で自分自身を(直接)持ち上げようとするような不可能性とか。
    私にイメージできるのはそんなことですが、
    以前pipitさんに紹介いただいたオートポイエーシスの説明も印象的でした。

    https://liberal-arts-guide.com/autopoiesis/
    > 作動の仕方(設計図)がなく自生するということであり、勝手に自分で自分を創りあげる自己言及的なもの
    > 生命体がまさにこれに当たる。生命体は本質的に他律的ではなく自律的な存在であり、機械などとは作動原理が異なること

    > 生命体の反応に再現性があり、刺激に対する因果関係があるように見えることもあります。
    > しかし、これは機械が人間によって制作されたルールに従うように、外部から与えられたルールに従っているわけではなく、生命体がその固有の歴史に依存しながら、再帰的・自己創出的に作動していることを示していると考えられます。

    自分の心の問題を解決しようとするとき、心を私(仮)の入力に従って作動するプログラムのように扱おうとしてしまうが、
    実際には入力しようとしている私とプログラム(仮)が一つの同じもの。
    そして私が今考えるルールに従うはずもなく『固有の歴史に依存しながら、再帰的・自己創出的に作動する』

    このサイトとかロシュフコウさんの動画とかも見てとても参考になっているのですが、その都度お礼のレスをしていなくてすみません

    > 意図してではないと思うのですが、カントという人は、いろんな解釈の起こる文章を書く、ということが起こりがちな方だったのかなぁ、と、昨日思ってました。

    カントが扱おうとしている問題が言語で扱える範囲を超えていて、しかし分かりやすい言葉に落とし込むことで真意を削ぐことはカントにはできず、言葉で全てを表現しようとした。あるいはオートポイエーシス等、その後見出された概念にまで迫っていて、当時のカントには分かりやすく(論理的に)言語化することが不可能だった。
    とか、思いついた。

    > そして最後の言葉が、
    >
    > wikiより引用
    > 『最後の言葉は、ワインを水で薄め砂糖を混ぜたものを口にしたときに発したという「これでよい(Es ist Gut)」であったと伝えられている。』
    > 引用終了
    >
    > Es ist Gut
    > ↓
    > Google翻訳さんによる英訳
    > It is good
    >
    > この最期の言葉の意味も、様々に解釈されているようですね。
    >
    > 個人的好みで、『空性』という言葉が頭に浮かびます。

    興味あります。少し考えさせてください。

    > おくたがわさん、いつもありがとうございます!

    こちらこそ100倍ありがとうございます。
引用返信/返信 削除キー/
■13755 / inTopicNo.41)  オートポイエーシス論とカントの経験
□投稿者/ おくたがわ -(2021/06/08(Tue) 19:49:18)
    検索で見つけたpipitさんの過去投稿。
    序論の「経験」にも関連する文章

    NO.11517
    >山下和也先生の『カントとオートポイエーシス』のカテゴリーについての箇所

    > アプリオリに対象に関係しうる概念には、空間、時間とカテゴリーがあるが、「それらの産出の機会原因は経験に求めることができる」、つまり「認識能力の全体をそれに関して開始し、経験を生じさせる第一の契機は感官の印象が与える」(B118)。
    > 要するに実際に概念としての規則が作動するのは、それが働きかける印象が与えられたときである。
    > カントの言い方では、経験は「感官からの認識への質量と、純粋な直観作用と思惟作用からの、それを秩序づけるある形式」(ibid)とを含むのであり、前者が与えられることを契機として、それに対して後者が作動し、経験が成立する。
    > オートポイエーシスの言葉で言えば、概念コードに従って認識表象における現れが、感覚すなわち環境からの攪乱を契機として産出されるとき、経験となる。
引用返信/返信 削除キー/
■13757 / inTopicNo.42)  中山元さんの訳と永井均さん
□投稿者/ おくたがわ -(2021/06/08(Tue) 20:18:38)
    先日、中山さんによる解説的補足を挿入した訳が諸刃の刃となりかねないという話がありましたが、
    たまたま永井均さんによる誤訳指摘のツイートが検索でかかりました。
    https://twitter.com/hitoshinagai1/status/1130037242779582464
    >訳者が付け加えた文章なのだが、この超重要な箇所の論旨を真逆に誤解しており、ゆえにさせることになる。

    『論旨を真逆に誤解させる』かどうかは、後で現物(中山さんの純理)を読んで判断しようかと。自分に分かるならですが。

    *****
    続くツイートの以下はたぶんカントに対する永井さんの疑義

    > 「規定する/される」はいずれも「統覚の統一の普遍的条件=カテゴリーによって規定する/される」の意味だ。最後の「客体」はここでは客観的に実在する自己の意味だ。規定「する」自己の側は客観的に認識できないのだ。なのに認識できると考えてしまうのが「合理的心理学」の誤りだとカントは言う
    > 規定「する」自己(超越論的統覚)はまだカテゴリーが適用されていないから認識不可能なのであれば、そもそも(合理的心理学ではなく)超越論哲学はいかにして可能なのか。超越論的統覚がどう「超越論的に」働くかもやはり認識できないはずでは? 我々に認識可能なのはそれが働いた結果だけでは?

    永井さんの指摘は置いといて(置いとくんか〜い
    ここで、規定される自己=規定する自己ではないのか というと、さっき自分の書いたことと関連するのでは。
    で、
    たしか純粋統覚について、自己意識を産み出すものと産み出される自己意識が、ともに純粋統覚であるかのようになってしまうカントの文章(英訳)、というのを以前pipitさんと検討したことがあり、
    (pipitさんから、カントは機能自体と機能の結果を同じ単語で表現する場合があるようだといった指摘をいただいた記憶があります)
    今回、幾つかの訳でチェックしたところ、全ての和訳で同様な矛盾(もしくは難解さ)が生じていました。ゆえに原文自体がそのようであるのだと思います。
    もしかすると、思考する自己 即 思考される自己 的なものをカントも考えていたのか。そして機能と結果を同じ単語で表現してしまうのは、その変に理由があるのか(だんだん妄想的になってるかも自分)
    しかしそれをカントのような形式で文章化するのは、それは大変だと思われ、そういったところにも難解さがあるのでは。

    バラバラな連投 失礼しました。(これもカント沼のとある小景)

引用返信/返信 削除キー/
■13773 / inTopicNo.43)  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2021/06/08(Tue) 23:13:00)
    2021/06/08(Tue) 23:15:40 編集(投稿者)

    No13704に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > ん? カント哲学って沼のなの?<

    こんばんは
    わたしが沼って最初に言ったんだよ

    > わたしのイメージと違う〜。
    > 考える、っていうことにおいて純な水的。<

    うん、純水、、、
    私もそういうイメージ持つこともあるよ


    > カント哲学を沼にしちゃってるのは沼って見てる人じゃない?<

    pipitに関しては、そうだと思ってるよん。
    自分が変化することで、カントのきれいな純水で、空に浮かぶように自由自在に泳げたらいいなと思うよ

    > こっれじゃ彼の”言いたいこと”を本当に理解しようとしてるようにはわたしには見えない。
    <

    個人的感想としては、
    カントがその文章で言いたかったことを本当に理解したいと思うから、引っかかって先に進めないんだよ。
    先に進むべき、なのかもだけど、
    自分でも、どうすることがよいのか迷う時もあるよ

    でも、とりあえず欲するままに、理解したいと挑んでいる。


    > カント、純粋な理性を批判する、って言ってるよね。<

    うん。そうして、頭だけで、論理だけで、考えることの限界性を警告してくれた。

    最近思うんだ。

    人はそれぞれで、その人の中でなにが起こり得るかは、把握しきれない、と。

    自分というシステムで起こることが他人に全て理解してもらえないんじゃないかなと思うように、
    わたしもまた、その人の中でどのようなことが起こってるのか、知れない、と。

    ああ、でも、書いててまた霧の中だよ。

    個別と一般
    一般から特殊・個別

    もうすこししたら、おやすみー (^ ^)☆彡

引用返信/返信 削除キー/
■13776 / inTopicNo.44)  おくたがわさんへ
□投稿者/ pipit -(2021/06/09(Wed) 00:09:51)
    おくたがわさん、こんばんは(^^)
    私にとってとても面白い投稿をいろいろありがとうございます 
    順番に落ち着いて考えさせてもらいますね。
    ↓ の読解の参考になるといいなと思う『カントとオートポイエーシス』からの文章を
    明日(正確には、今日 !)引用させてもらおうと思います。

    今日は12時過ぎちゃったので、もっと考えたく御名残惜しいですが、おやすみなさーい o(^▽^)o


    No13738に返信(おくたがわさんの記事)
    > 2021/06/08(Tue) 13:47:52 編集(投稿者)
    >
    > ■No13694に返信(おくたがわさんの記事)
    >
    >>昨日見ていた部分で、石川訳では全く意味が解らず、本人には分かっているんだろうか?と思う部分が、原佑訳ではスッキリ分かるのがあり、優劣を一概には言えないなと思いました。その部分の天野訳はちょうど間くらい。
    >>原文を読めないし今回は英文も見ていないので、自分として理解できる日本語になっているということによる判断だけなのですが…。
    > (以上おくたがわ)
    >
    > 実際の文章を引用しない評定では濡れ衣も着せうるので、以下に引用しておきます。
    > 石川訳の方が正しいと考える人もいるかもしれないし。
    >
    > 純粋理性批判 b69
    > 石川訳 p106
    > 「現象の述語はわれわれの感覚との関係において、客体そのものに帰せられうる。たとえば、バラには赤い色あるいは香りが帰せられる。しかし、仮象はまさしく感覚との関係においてのみ、あるいはそもそも主体に認められるため、述語としてはけっして対象に帰せられえず、客体自体にともなっていない。たとえば、はじめは土星に二つの柄があるとされたが、そうでなかったように。客体それ自体にはまったく見られないが、つねに客体と主体との関係に見られ、客体の観念と不可分なもの、それが現象である。だから時間・空間という述語が感覚の対象そのものに帰せられるのは正しい。その点では仮象はない。それに対して、主体に対するこれらの対象の一定の関係を無視し、私の判断をその関係に制限せずに、私がバラ自体に赤を帰し、土星に絵を帰すなど、あらゆる外的な対象に広がりをそれ自体として帰せば、そこに直ちに仮象が生じるのである。」
    >
    > 原佑訳 p106
    > 「現象は、私たちの感官との関係においては、述語として客観自身に付与されうる。しかし仮象は述語として対象にけっして付与されえない。というのも、仮象は、感官との、あるいは総じて主観との関係においてのみ対象に付属するものを、客観それ自身に付与するという、まさにこの理由からである。たとえば、最初二本の柄が土星に付与されたのが、その例である。客観それ自体では全然見いだされることができないが、客観と主観との関係においてはいつでも見いだされることができ、客観の表象から分離することができないものは、現象であり、かくして空間と時間とは当然述語として感官の諸対象そのものに付与され、だからこの点でいかなる仮象でもない。これに反して、私が、バラ自体に赤い色を、土星に柄を、あるいはすべての外的な諸対象に拡がり自体を付与して、これらの諸対象と主観との関係を顧慮せず、また私の判断をこの関係に制限しないなら、そのときはじめて仮象が生じる。」
    >
    > 疲れたので天野訳はパス 英訳もパス
    >
    >
引用返信/返信 削除キー/
■13788 / inTopicNo.45)  おくたがわさんへ 石川先生訳について
□投稿者/ pipit -(2021/06/09(Wed) 13:33:01)
    おくたがわさん、こんにちは(o^^o)

    No13738に返信
    今の時点での感想なのですが、石川先生訳は、先生がカント哲学の体系世界(?)に精通してるゆえに、ちょっと一般的には、読むのが難しい表現になってしまっている可能性もあると思いました。
    私見を述べてみますね。

    引用してくださった箇所は、現象は仮象だと言っているのではない、とカントが主張したいところだと思ってるのですが、

    > 純粋理性批判 b69
    > 石川訳 p106
    > 「現象の述語はわれわれの感覚との関係において、客体そのものに帰せられうる。たとえば、バラには赤い色あるいは香りが帰せられる。<

    ここまでは、現象が客体の述語となっている現状(?)を述べてるのではないかと。
    赤という現象、香りという現象も、バラという客体に私たちは帰せている。

    >しかし、仮象はまさしく感覚との関係においてのみ、あるいはそもそも主体に認められるため、述語としてはけっして対象に帰せられえず、客体自体にともなっていない。たとえば、はじめは土星に二つの柄があるとされたが、そうでなかったように。<

    現象と仮象とは別物と言うために、ここでカントは仮象の定義を述べてるのではないかと。
    そう見えるけど実はそうではなかった、ということで、仮象は、客体(対象)に帰することはできない。
    仮象は客体の述語にはなれない。

    >客体それ自体にはまったく見られないが、つねに客体と主体との関係に見られ、客体の観念と不可分なもの、それが現象である。<

    ここでは現象の定義を述べてるのではないかと。
    物自体という客体に現象が付いているのではなく、物自体という客体・と・感官を有する主体との関係の中現れるのが現象であり、
    しかも、物自体の客体の観念(物自体に触発されて現れた表象という観念)と不可分なもの、それが現象だ、と。

    >だから時間・空間という述語が感覚の対象そのものに帰せられるのは正しい。その点では仮象はない。<

    感覚の対象、に、現象が述語とされるのは、そう見えるけどそうではない、という仮象ではない。
    バラは赤い、と、赤を述語としても、
    現象としてのバラという客体(ある関係性の上に現れる、客体の観念としての客体)にとって、現象(赤)は、仮象ではなく、『現』象なのだ、みたいな。


    >それに対して、主体に対するこれらの対象の一定の関係を無視し、私の判断をその関係に制限せずに、私がバラ自体に赤を帰し、土星に絵を帰すなど、あらゆる外的な対象に広がりをそれ自体として帰せば、そこに直ちに仮象が生じるのである。」<

    主体と対象の関係を踏まえた上で、ある現象を、関係性を織り込み済みの対象に帰するものとするのではなく、
    関係性を度外視して、
    現象を物自体にとしての客体に帰するとき、それは仮象になってしまう。
    つまり、現象=仮象とカントは言ってるのではなく、
    現象をどの対象に帰するかが問題となるのだ、
    みたいな感じかなーと思いました。

    勘違いしてたら、すみません!

    一般的には、原先生の訳の方が読みやすい気がしますね!(^^)♪

引用返信/返信 削除キー/
■13789 / inTopicNo.46)  英訳
□投稿者/ pipit -(2021/06/09(Wed) 13:38:01)
    No.13788
    英訳見てみたので引用しますね(^^)

    [12] The predicates of the phenomenon can be affixed to the object itself in relation to our sensuous faculty;
    for example, the red colour or the perfume to the rose.

    But (illusory) appearance never can be attributed as a predicate to an object, for this very reason, that it attributes to this object in itself that which belongs to it only in relation to our sensuous faculty,
    or to the subject in general, e.g.,
    the two handles which were formerly ascribed to Saturn.

    That which is never to be found in the object itself, but always in the relation of the object to the subject, and which moreover is inseparable from our representation of the object, we denominate phenomenon.

    Thus the predicates of space and time are rightly attributed to objects of the senses as such,
    and in this there is no illusion.

    On the contrary, if I ascribe redness of the rose as a thing in itself, or to Saturn his handles, or extension to all external objects, considered as things in themselves, without regarding the determinate relation of these objects to the subject, and without limiting my judgement to that relation&#8212;then, and then only, arises illusion.

    ※※※※※※※※
    The Critique of Pure Reason

    By Immanuel Kant

    Translated by J. M. D. Meiklejohn

    https://www.gutenberg.org/files/4280/4280-h/4280-h.htm#chap24

引用返信/返信 削除キー/
■13791 / inTopicNo.47)  Re[11]: 英訳
□投稿者/ pipit -(2021/06/09(Wed) 13:49:15)
    No.13789
    ●自分の理解用に作成したメモを貼ります。
    いい加減な、訳と言えない意訳です。雰囲気だけ、みたいな。間違い指摘用ででも何かの参考になればとm(_ _)m

    [12] The predicates of the phenomenon can be affixed to the object itself in relation to our sensuous faculty;
    for example, the red colour or the perfume to the rose.

    現象上での述語(は、◯◯だ。)は、対象に帰せられる。
    私たちの感覚能力と対象の関係においてだけど、
    例えば、赤、や、香り、が、バラという対象に、(対象の持つ性質として)帰せられうる。

    But (illusory) appearance never can be attributed as a predicate to an object, for this very reason,

    だけど、
    仮象(錯覚の現れ)って、対象の述語としては帰せることができない。

    that it attributes to this object in itself that which belongs to it only in relation to our sensuous faculty,
    or to the subject in general, e.g.,
    the two handles which were formerly ascribed to Saturn.

    そう見えたけど実は違ってた、ってことだから、
    対象の述語となることはできない。
    例えば、かつては土星には二本の柄が付与されてた。
    (でも実際はそうではなかった、というとき、は◯◯に見える、とは言えても、は◯◯だ。とは言えなくなる。述語そのものには、なれなくなる。)

    That which is never to be found in the object itself, but always in the relation of the object to the subject, and which moreover is inseparable from our representation of the object, we denominate phenomenon.

    実際の対象そのものの中には見つけられず、
    いつでも主体と対象の関係の中にあるもので、
    しかも私たちの対象の現れと不可分であるものを、私たちは現象と呼ぶ。

    Thus the predicates of space and time are rightly
    attributed to objects of the senses as such,
    and in this there is no illusion.

    だから空間と時間の述語が感官の対象に付与されるのは正しいことだよ。
    このことは仮象ではないんだ。
    (感官による対象に時空の述語がきせられるのは、仮象ではない。時空上に現れてる現象に対して、述語として付与されてるのだから。)

    On the contrary, if I ascribe redness of the rose as a thing in itself, or to Saturn his handles, or extension to all external objects, considered as things in themselves, without regarding the determinate relation of these objects to the subject, and without limiting my judgement to that relation&#8212;then, and then only, arises illusion.

    一方、現象の述語を物自体に帰すると、それは仮象になっちゃうよ。

    https://www.gutenberg.org/files/4280/4280-h/4280-h.htm#chap24
引用返信/返信 削除キー/
■13793 / inTopicNo.48)  おーとぽいえーしす
□投稿者/ pipit -(2021/06/09(Wed) 13:57:38)
    つ、つかれまひた

    英語、ほんとに中学レベルだけど

    執念で読んでるのですう&#12316; (*_*)

    オートポイエーシス本からはまた後で引用したいと思いまーす^_^
引用返信/返信 削除キー/

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