(現在 過去ログ2 を表示中)

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

[ 親記事をトピックトップへ ]

このトピックに書きこむ

レス数の限度を超えたのでレスできません。

(レス数限度:100 現在のレス数:100) → [トピックの新規作成]
■13642 / inTopicNo.1)  Re[40]: 最後の審判
  
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/06(Sun) 12:27:25)
    愛満開さん こんにちは

    >>particular judgementとfinal judgement
    > これは、各自の臨終死後すぐに受ける個別の「私審判」と世界の終わりにすべての人々が受ける最後の審判という「公審判」との違いでよろしいでしょうか。

    そうですね。

    >>救われるか救われないか、天国かそうでないかは、
    >>前者で明らかになる。それとは別に、戦々恐々と白黒二元の有無も言わさぬ後者の裁きを待つというのではない。なんでそんな固定観念をもつのだろうか?
    >
    > と言う事は、死後すぐに天国と地獄への選別が行われ、個人的には、生きている現世のうちから神との愛の交わりが得られているのなら、それが、そのまま死後にも継続していると考えていました。

    一方的に選別されるのではなく、人間が自由意思で行きたいところを決めるということだと思います。本当に心の底から、三位一体の神の交わりに入りたいと希むなら、それを拒否する理由はないでしょう。聖書にある通りです。ただ、表面的なところで忠誠を演じても、ほんとうは希んでいない場合は多いと思います。本人が天国を希んでいないということです。

引用返信/返信 削除キー/
■13639 / inTopicNo.2)  愛満開さんへ
□投稿者/ パニチェ -(2021/06/06(Sun) 11:05:58)
    2021/06/06(Sun) 11:25:24 編集(投稿者)

    愛満開さんは以前にtollさんから勿忘草さんが主張していた二重予定について問われ、以下で「納得できない点があります」と述べています。
    今回、 No13637 では勿忘草さんと全く同じように同じ動画を紹介し、ウィトゲンシュタインに影響され二重予定説ではないが、と断りながら同じ論旨を繰り返しています。
    これはどういうことでしょうか?

    *****************************************

    No10722 勿忘草さん

    二重予定説とウィトゲンシュタインとの話が語られていてとても参考になりました。

    https://www.youtube.com/watch?v=r6bDORQDMQc

    ******************************************

    No11989 勿忘草さん
    ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」に影響されたところが大きいです。
    「2. 012 論理では、なに ひとつ偶然 な もの は ない。
     事物 が 事態 の なか に 登場 する 可能性 が ある なら、
     事物のなかに事態の可能性がすでに先取りされているにちがいない。」
    この辺が、影響されたところです。

    ******************************************

    No12242 愛満開さん
    tollさんこんばんは。はじめまして。

    > 先般まで こちらに投稿されていた方の投稿です
    > プロテスタントの学者さんが唱えたらしい「予定説」に
    > 取り組まれていた方の持論のようなんですが
    > どう思いますか?
    > ーーーーーーーーーーーーーーー

    > No12083
    > □投稿者/ 勿忘草 -(2021/04/22(Thu) 17:11:15

    >>もし、神が誰が救われるか選ばれているのなら、私たちがキリストを選んで信じる自由意志はどうなるのでしょうか?
    > 聖書は私たちは自由意志で選択できると言っています。
    > 私たちがしなくてはならないのは、ただイエスキリストを信じること、そうすれば救われると言っています。(ヨハネ3章16節;ローマ10章9−10節)
    > 聖書は、一度も、神が、神を信じる者を拒むとか、誰でも神を求める者を退けるとか言ってはいません。(申命記4章29節)
    > どうしてか、神の神秘さのうちで、予定説は、神に引き寄せられた人と共に働いて(ヨハネ6章44節)、その人が信じて救われるのです。(ローマ1章16節)
    > 神は救われる人をあらかじめ決めておられ、救われるためには、私たちはキリストを選ばなければならないのです。
    > この二つの事実は、同等に真理です。
    > ローマ11章33節は、「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。
    > そのさばきは、何と知り尽くしがたく、そのみちは、何と測り知りがたいことでしょう。」と宣言しています。

    聖書が 予定説を 語っているなら 私は聖書に従いたいのですが、納得できない点があります。
    神様は 人類を救うためにあらかじめ計画をたてました。 その壮大な 計画は 一人一人の 役割によって 進められます 。
    全ての人が何かしらの役割を与えられていると思います。ですから神様はその役割に応じて、必要な能力 を与えてくれるのです。
    これは救われた人だけではありません。
    救われてない人も 含めて全ての人を通して、神は 計画を進めています。
    そして、神様の恵みを 自分の自由意思で 信じる人達を 救うということです。
    なので、救いの選びは神様の恩寵を自分の自由意思で 信じる人達のことです。
    「A さん、 B さん 、C さん は救うけれど、 Dさん Eさん は救わない」
    という二重予定説が 主張するような 選びではない のです。
    また、「一旦新生しても、最後まで主イエスに留まる信仰」の継続が必要です。
    予定説のように、「一旦救われたら、何がなんでも天国に行ける」というわけでもありません。

    ******************************************

    No13637 愛満開さん
    多分、皆さんは、そう思われているのだと思うのですが、予定説というのも論理の展開なのでウィトゲンシュタインに影響されたからでした。
    私は、二重予定説ではないのですが、こちらの方と大体は同じ意見だったからです。

    https://www.youtube.com/watch?v=r6bDORQDMQc

引用返信/返信 削除キー/
■13638 / inTopicNo.3)  Re[39]: 最後の審判
□投稿者/ パニチェ -(2021/06/06(Sun) 10:13:15)
    2021/06/06(Sun) 12:10:00 編集(投稿者)

    おはようございます。横レス失礼します。

    No13637に返信(愛満開さんの記事)

    > 多分、皆さんは、そう思われているのだと思うのですが、予定説というのも論理の展開なのでウィトゲンシュタインに影響されたからでした。
    > 私は、二重予定説ではないのですが、こちらの方と大体は同じ意見だったからです。

    ウィトゲンシュタインファンとして以前にも指摘しましたが、ウィトゲンシュタインと二重予定説というのは何の関係もありません。
    愛満開さんはウィトゲンシュタインに影響されたのではなくて、ウィトゲンシュタインを誤用している以下の動画の人の主張を鵜呑みにしているのか、二重予定説を信じるあまりカルトがよくやるような牽強付会とか確証バイアスに嵌っているだけです。

    https://www.youtube.com/watch?v=r6bDORQDMQc

    前後の文脈を無視した取るに足らない主張です。
    言葉の意味は、文化や土地柄を含めてたコンテクスト(文脈)によって決まるとしたウィトゲンシュタインの言語ゲームを全く無視した、切り文でもってこじつけようとするくだらない主張だと思います。

    彼が二重予定説のひとつの根拠として語るウィトゲンシュタインはウィトゲンシュタインでもなんでもありません。2.012に続けてウィトゲンシュタインの言説を読みますが言ってることは無茶苦茶で、論理もへったくれもないくらいの戯言です。

    『2. 012 論理においてはなにものも偶然ではない。ものが事態の中に現れうるならば、事態の可能性はものにおいて既に前以って決定されていなければならない。(論理哲学論考)』は、前後の文脈(数字で表記されます)や論考全体の論旨からして、彼が述べるような二重予定説の根拠となる言明ではありません。

    一度、自身で論理哲学論考を読まれたらどうでしょうか。
引用返信/返信 削除キー/
■13637 / inTopicNo.4)  Re[38]: 最後の審判
□投稿者/ 愛満開 -(2021/06/06(Sun) 09:50:00)
    knowing itselfさん tollさんおはようございます。

    いろいろ調べていたところ次のような動画がありましたので参考に上げておきたいと思います。

    https://www.youtube.com/watch?v=G2Evw_zVYwA

    >>救われるか救われないか、天国かそうでないかは、
    前者で明らかになる。それとは別に、戦々恐々と白黒二元の有無も言わさぬ後者の裁きを待つというのではない。なんでそんな固定観念をもつのだろうか?


    >愛満開さんは、ちょっと宗教的センスに
    欠けるんでないかと思ったりします。

    多分、皆さんは、そう思われているのだと思うのですが、予定説というのも論理の展開なのでウィトゲンシュタインに影響されたからでした。
    私は、二重予定説ではないのですが、こちらの方と大体は同じ意見だったからです。

    https://www.youtube.com/watch?v=r6bDORQDMQc
引用返信/返信 削除キー/
■13636 / inTopicNo.5)  Re[37]: 最後の審判
□投稿者/ toll -(2021/06/06(Sun) 08:42:05)

    おはようございます
    お返事ありがとうございます


    No13599に返信(knowing itselfさんの記事)
    > tollさん こんにちは
    >
    >>ま〜死後の事ですから死んでから?後悔する?のも有りかな^^
    >
    > 生前に最後の審判がくれば、当然、その人たちにとって生前です。
    >
    > 神にとっては、リニアーな時間のどこにあるのかは問題ではなく、時間を超越して永遠の次元にいます。その神と交わりに入ることが天国なので、生前、死後の区別は実は本質的ではありません。もちろん死んでお終いすべて消滅はありません。そんなキリスト教は存在意味がゼロでしょう。


    死後のことは気になりませんが
    リアルプレゼンスというのは良いですね。
    “ 常に救いの中にある ” というのが感じられそうです。


    >>■No13580に返信(knowing itselfさんの記事)
    >>
    > >>
    > >>↑この4つの事柄は最後の審判以前の事柄です。最後の審判以前に決まっています。最後の審判とは基本的に無関係だと思います。個人の生に対する個別の審判で示される事柄です。最後の審判は神の救済ストーリーのエンディングでしょう。その人間の生が神の客観的な救済ストーリーの中で、私的にではなく公的に明るみに出される。
    >>
    >>
    >>
    >>↑上記の「私的」「公的」とはどういうことですか?
    >>カトリックによる審判に関係しますか?
    >
    > 審判とは神の前に明るみに出されることです。審判の主体は当然、神です。
    >
    > 私審判、公審判という訳語が古すぎですね。英語でいうと、particular judgementとfinal judgement、その内容については、先の私のカキコどおりだと思います。



    >「particular judgementとfinal judgement


    なんか良いですね。
    こちらの感覚が新しくて希望が持てる感じがします。


    >救われるか救われないか、天国かそうでないかは、
    前者で明らかになる。それとは別に、戦々恐々と白黒二元の有無も言わさぬ後者の裁きを待つというのではない。なんでそんな固定観念をもつのだろうか?


    本当になんででしょうね?
    他の宗教との関連性とか思い出さない方が
    スッキリするような気がします。
    愛満開さんは、ちょっと宗教的センスに
    欠けるんでないかと思ったりします。
    (素人が暴言ですみませんが。。。)

    ありがとうございました。





引用返信/返信 削除キー/
■13613 / inTopicNo.6)  Re[39]: 最後の審判
□投稿者/ 愛満開 -(2021/06/05(Sat) 19:57:59)
    knowing itselfさんこんばんは。
    いつも信仰のためになる深遠なお話ありがとうございます。

    > particular judgementとfinal judgement
    これは、各自の臨終死後すぐに受ける個別の「私審判」と世界の終わりにすべての人々が受ける最後の審判という「公審判」との違いでよろしいでしょうか。

    > 救われるか救われないか、天国かそうでないかは、
    > 前者で明らかになる。それとは別に、戦々恐々と白黒二元の有無も言わさぬ後者の裁きを待つというのではない。なんでそんな固定観念をもつのだろうか?

    と言う事は、死後すぐに天国と地獄への選別が行われ、個人的には、生きている現世のうちから神との愛の交わりが得られているのなら、それが、そのまま死後にも継続していると考えていました。

    > それでは、前者とは別に後者のfinal judgementがやがて行われる意味はどこに?
    >
    > その意味は、救われて既に天国にいる人たちが、神の救済ストーリーの中で果たした役割が客観的に明らかにされること。喩えでいうと、巨大なジグゾーパズルが完成するのはときに、どのピースでどこに嵌るかが一望の下に明るみに出されるようなものだと思います。
    > 大きなピースで目立つところにあるか、ちっちゃなピースなのかは、救いと何の関係もない。それが特別の選びです。なので、二重予定説とfinal judgementは全く無関係。業や大きないよる救いともまったく関係ない。ピースを作り、絵をつくり、パズルを完成されるのは神であって、人間はそれに応答しただけ。

    仰る通りだと思います。
    そして、最後の審判の後、世の終わりに神の国は完成します。


引用返信/返信 削除キー/
■13609 / inTopicNo.7)  最後の審判
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/05(Sat) 18:53:46)
    particular judgementとfinal judgement

    救われるか救われないか、天国かそうでないかは、
    前者で明らかになる。それとは別に、戦々恐々と白黒二元の有無も言わさぬ後者の裁きを待つというのではない。なんでそんな固定観念をもつのだろうか?

    それでは、前者とは別に後者のfinal judgementがやがて行われる意味はどこに?

    その意味は、救われて既に天国にいる人たちが、神の救済ストーリーの中で果たした役割が客観的に明らかにされること。喩えでいうと、巨大なジグゾーパズルが完成するのはときに、どのピースでどこに嵌るかが一望の下に明るみに出されるようなものだと思います。
    大きなピースで目立つところにあるか、ちっちゃなピースなのかは、救いと何の関係もない。それが特別の選びです。なので、二重予定説とfinal judgementは全く無関係。業や大きないよる救いともまったく関係ない。ピースを作り、絵をつくり、パズルを完成されるのは神であって、人間はそれに応答しただけ。
引用返信/返信 削除キー/
■13601 / inTopicNo.8)  最後の審判もリアルプレゼンスと別ではない
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/05(Sat) 11:28:19)
    カトリックの要諦中の要諦が、キリストの体のリアルプレゼンス。そのリアルプレゼンスに、個人の生前死後、最後の審判、違いはありません。まったく同一のキリスト、三位一体の子なる神が受肉した、そのキリスト。十字架を通過して復活の体になったキリスト。

    私審判と公審判で明るみに出されるのも、生前における三位一体の神との関係性。それだけです。生前に三位一体の神との正しい関係を結んで、審判でだけ否定されることはない。逆に生前に三位一体の神との関係がおかしければ、やはり悔い改めによって三位一体の神との交わりを希求しないと、やはり、三位一体の神との交わりよりは、違う世界に行きたいという自由意思を尊重するということになるでしょう。
引用返信/返信 削除キー/
■13599 / inTopicNo.9)  Re[36]: 最後の審判
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/05(Sat) 11:16:14)
    tollさん こんにちは

    > ま〜死後の事ですから死んでから?後悔する?のも有りかな^^

    生前に最後の審判がくれば、当然、その人たちにとって生前です。

    神にとっては、リニアーな時間のどこにあるのかは問題ではなく、時間を超越して永遠の次元にいます。その神と交わりに入ることが天国なので、生前、死後の区別は実は本質的ではありません。もちろん死んでお終いすべて消滅はありません。そんなキリスト教は存在意味がゼロでしょう。

    > ■No13580に返信(knowing itselfさんの記事)
    >
    >>
    >>↑この4つの事柄は最後の審判以前の事柄です。最後の審判以前に決まっています。最後の審判とは基本的に無関係だと思います。個人の生に対する個別の審判で示される事柄です。最後の審判は神の救済ストーリーのエンディングでしょう。その人間の生が神の客観的な救済ストーリーの中で、私的にではなく公的に明るみに出される。
    >
    >
    >
    > ↑上記の「私的」「公的」とはどういうことですか?
    > カトリックによる審判に関係しますか?

    審判とは神の前に明るみに出されることです。審判の主体は当然、神です。

    私審判、公審判という訳語が古すぎですね。英語でいうと、particular judgementとfinal judgement、その内容については、先の私のカキコどおりだと思います。
引用返信/返信 削除キー/
■13597 / inTopicNo.10)  Re[35]: 最後の審判
□投稿者/ toll -(2021/06/05(Sat) 10:41:32)


    おはようございます。
    ちょっとお邪魔させて頂きます。
    「最後の審判」
    カトリックの教義を少し読んでみました。
    いやはや、大変ですね。
    ま〜死後の事ですから死んでから?後悔する?のも有りかな^^



    No13580に返信(knowing itselfさんの記事)

    >
    > ↑この4つの事柄は最後の審判以前の事柄です。最後の審判以前に決まっています。最後の審判とは基本的に無関係だと思います。個人の生に対する個別の審判で示される事柄です。最後の審判は神の救済ストーリーのエンディングでしょう。その人間の生が神の客観的な救済ストーリーの中で、私的にではなく公的に明るみに出される。



    ↑上記の「私的」「公的」とはどういうことですか?
    カトリックによる審判に関係しますか?

    Wiki によれば

    ーー引用始めーー
    カトリック教会では公審判の教義が保持されている。肉体が復活して魂と結び合わされた後に、「公審判」があるとされる


    公審判(こうしんぱん、ラテン語: Judicium Universale, 英語: The General Judgment, ドイツ語: Das Jüngste Gericht, ロシア語: Страшный суд)とは、正教会・カトリック教会で、肉身の復活の後に、イエス・キリストの栄光の再臨のときに行われる、すべての人をその行ってきた善悪により裁くとされる審判[1][2]。私審判と区別される。

    ーー引用終わりーー



    「最後の審判」について
    愛満開さんのプロテスタントの教派では
    牧師さんは どのようにお話しされているのでしょうか?

    愛満開さん、宜しかったら教えて頂けませんか 。





引用返信/返信 削除キー/
■13580 / inTopicNo.11)  Re[34]: 最後の審判
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/05(Sat) 06:46:53)
    愛満開さん おはようございます レスありがとうございます

    >>死後の審判と最後の審判の違いについて。死後の審判は、生前の神との関係が明るみに出されるプライベートなもの。最後の審判は、神の壮大な救済ストーリーの中でどういう役割を果たしたかが客観的に示される。そんな感じですか。いずれにしろ、神という誤りようがない完全な審判者の判定は死後の審判で確定しています。
    >
    > なるほど、死、裁き、天国、地獄、の最後の審判にかかる4つの事柄は、私たち自身の個人的な終わり以上のものがあり神の創造と救済の究極の意味が示されるのですね。

    ↑この4つの事柄は最後の審判以前の事柄です。最後の審判以前に決まっています。最後の審判とは基本的に無関係だと思います。個人の生に対する個別の審判で示される事柄です。最後の審判は神の救済ストーリーのエンディングでしょう。その人間の生が神の客観的な救済ストーリーの中で、私的にではなく公的に明るみに出される。




引用返信/返信 削除キー/
■13569 / inTopicNo.12)  Re[33]: 最後の審判
□投稿者/ 愛満開 -(2021/06/04(Fri) 21:15:12)
    knowing itselfさんまた、素敵な動画ありがとうございます。

    > 死後の審判と最後の審判の違いについて。死後の審判は、生前の神との関係が明るみに出されるプライベートなもの。最後の審判は、神の壮大な救済ストーリーの中でどういう役割を果たしたかが客観的に示される。そんな感じですか。いずれにしろ、神という誤りようがない完全な審判者の判定は死後の審判で確定しています。

    なるほど、死、裁き、天国、地獄、の最後の審判にかかる4つの事柄は、私たち自身の個人的な終わり以上のものがあり神の創造と救済の究極の意味が示されるのですね。

    人が罪を犯したのは、悪魔の言葉を信じたためでした。

    悪魔は神が人を愛していることを知っていたので、
    人に罪を犯させ、神から引き離したのです。

    これに対して神は、愛する人を悲劇から救い出し、神の元へ戻す脱出計画を立てました。

    それがキリストの十字架です。

    人を神の国に戻すには、その罪を消す必要があります。

    そのためには、人の罪に対する罰を、神はキリストを十字架につけ、人類の罪をかぶせました。

    出エジプトの時、神のさばきは、身代わりの小羊の血の塗ってある家を過ぎ越し、血のない家に下りました。

    キリストは神の小羊です。

    キリストが私たちの代わりに罰を受けてくださったので、神のさばきは私たちの前を過ぎ越して行きます。

    善行がその人を義とするのではなく、神のキリストの血の力によって人は、義に変えられていくのですね。
引用返信/返信 削除キー/

次の12件>

トピック内ページ移動 / << 0 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 >>
Mode/  Pass/

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -