□投稿者/ knowing itself -(2021/06/05(Sat) 11:16:14)
| tollさん こんにちは
> ま〜死後の事ですから死んでから?後悔する?のも有りかな^^
生前に最後の審判がくれば、当然、その人たちにとって生前です。
神にとっては、リニアーな時間のどこにあるのかは問題ではなく、時間を超越して永遠の次元にいます。その神と交わりに入ることが天国なので、生前、死後の区別は実は本質的ではありません。もちろん死んでお終いすべて消滅はありません。そんなキリスト教は存在意味がゼロでしょう。
> ■No13580に返信(knowing itselfさんの記事) > >> >>↑この4つの事柄は最後の審判以前の事柄です。最後の審判以前に決まっています。最後の審判とは基本的に無関係だと思います。個人の生に対する個別の審判で示される事柄です。最後の審判は神の救済ストーリーのエンディングでしょう。その人間の生が神の客観的な救済ストーリーの中で、私的にではなく公的に明るみに出される。 > > > > ↑上記の「私的」「公的」とはどういうことですか? > カトリックによる審判に関係しますか?
審判とは神の前に明るみに出されることです。審判の主体は当然、神です。 私審判、公審判という訳語が古すぎですね。英語でいうと、particular judgementとfinal judgement、その内容については、先の私のカキコどおりだと思います。
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