| knowing itselfさんこんばんは レスありがとうございます。
> 愛満開さんは、やはり、二重予定説的なカルバンの立場になるのではないでしょうか。それに対し違和感を覚えるのは、いままでカキコしてきた通りです。 > > 最後の審判で救われるか救われないかが前もって予定されているという解釈は、非常に珍しいと思います。
ただ、感覚的には、人間はすべて平等に創られてはいない。 永遠の生命にあずかるもの、永遠の劫罰に喘ぐのも、すべて前もって定められていると考えた方が、世の中が理不尽なだけに、より現実的な気がします。
予定説に関する疑問点としては、人間が等しく堕落した存在ならば、なぜ一部の少数の人間だけが救われて他の多数の人間が救われないのかと言う事だと思います。
そして、最後の審判というのはいつ訪れるか分らないために、キリスト教信仰が強化されるような気もしますが、結局、予定説を人間的なレベルでその妥当性を論証することは非常に難しいと思います。
でも、そうならば、なぜ、イエス様は、「悔い改め」を求めたのか不思議ですね。
それは、人間の自由意思も大切にしていたからだと思います。
それでないと、人間は、操り人形かロボットのようになってしまい、自主的に神を愛することが出来なくなってしまうからだと思います。
なので、予定が半分、自由意思が半分なのではないか、というか、割合は、全く分かりませんが、互いに影響している事だけは確かな気がします。
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