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■13564 / inTopicNo.13)  最後の審判
  
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/04(Fri) 20:23:04)
    https://youtu.be/7FMgVbcLagM

    早口で聴くのが大変ですが。この神父も素晴らしい動画を大量にアップしています。

    死後の審判と最後の審判の違いについて。死後の審判は、生前の神との関係が明るみに出されるプライベートなもの。最後の審判は、神の壮大な救済ストーリーの中でどういう役割を果たしたかが客観的に示される。そんな感じですか。いずれにしろ、神という誤りようがない完全な審判者の判定は死後の審判で確定しています。


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■13559 / inTopicNo.14)  Re[31]: 恵みの宗教と業の宗教
□投稿者/ 愛満開 -(2021/06/04(Fri) 19:47:38)
    knowing itselfさんこんばんは
    レスありがとうございます。

    > 愛満開さんは、やはり、二重予定説的なカルバンの立場になるのではないでしょうか。それに対し違和感を覚えるのは、いままでカキコしてきた通りです。
    >
    > 最後の審判で救われるか救われないかが前もって予定されているという解釈は、非常に珍しいと思います。

    ただ、感覚的には、人間はすべて平等に創られてはいない。
    永遠の生命にあずかるもの、永遠の劫罰に喘ぐのも、すべて前もって定められていると考えた方が、世の中が理不尽なだけに、より現実的な気がします。

    予定説に関する疑問点としては、人間が等しく堕落した存在ならば、なぜ一部の少数の人間だけが救われて他の多数の人間が救われないのかと言う事だと思います。

    そして、最後の審判というのはいつ訪れるか分らないために、キリスト教信仰が強化されるような気もしますが、結局、予定説を人間的なレベルでその妥当性を論証することは非常に難しいと思います。

    でも、そうならば、なぜ、イエス様は、「悔い改め」を求めたのか不思議ですね。

    それは、人間の自由意思も大切にしていたからだと思います。

    それでないと、人間は、操り人形かロボットのようになってしまい、自主的に神を愛することが出来なくなってしまうからだと思います。

    なので、予定が半分、自由意思が半分なのではないか、というか、割合は、全く分かりませんが、互いに影響している事だけは確かな気がします。





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■13556 / inTopicNo.15)  最後の審判といっても既に天国の人は同じ
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/04(Fri) 19:01:28)
    キリスト教で最後の審判が問題になるが、最後の審判以前に生を終えている人にとってはそれほど喫緊の問題ではないともいえる。最後の審判以前に天国という人は、最後の審判のときに改めて厳しく審判されることはない。最後の審判以前に地獄という人は、最後の審判のときに新たに救済されることはない。現代人ではなく、これは二千年前の人でも同じです。最後の審判がその人たちに新たな審判を付け加えることはないとされます。

    要するに、最後の審判は、キリストの過越に新たに何も付け加えるものではない。二千年前のキリストで神の国は基本的に完成している、終わっている。その完成が最後の最後で本当に終わって、天と地が最終的に合体して一つになるのが最後の審判。
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■13552 / inTopicNo.16)  Re[30]: 恵みの宗教と業の宗教
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/04(Fri) 17:13:50)
    愛満開さん こんばんは

    > 最後の審判で救済される者は、神により予め定まった(予定した)者だけであり、
    > 人間の善行等の努力は、救済には全く関係ないし、因果でもない。
    >
    > 救済される者は聖書を信じる人であるが、それは、必要条件にすぎない。
    >
    > 善行を積んだ人間が救済されるのは因果律ではなく神の意志による予定である。
    >
    > 聖書には信仰のみによって救われると書いてあるので何の差別もない。
    >
    > 救済される者は信仰を持った者であり、救済されないのは信仰を持たない者なのは明白です。

    愛満開さんは、やはり、二重予定説的なカルバンの立場になるのではないでしょうか。それに対し違和感を覚えるのは、いままでカキコしてきた通りです。

    最後の審判で救われるか救われないかが前もって予定されているという解釈は、非常に珍しいと思います。
引用返信/返信 削除キー/
■13536 / inTopicNo.17)  Re[29]: 恵みの宗教と業の宗教
□投稿者/ 愛満開 -(2021/06/03(Thu) 21:21:39)
    最後の審判で救済される者は、神により予め定まった(予定した)者だけであり、
    人間の善行等の努力は、救済には全く関係ないし、因果でもない。

    救済される者は聖書を信じる人であるが、それは、必要条件にすぎない。

    善行を積んだ人間が救済されるのは因果律ではなく神の意志による予定である。

    聖書には信仰のみによって救われると書いてあるので何の差別もない。

    救済される者は信仰を持った者であり、救済されないのは信仰を持たない者なのは明白です。

    旧約聖書には、嫉妬深い神であると常に信仰を要求する神であり、神の意志は
    人間から見たら謎だらけです。

    「信仰のみ」により救われるとあるけれども、それでは、どうしたら信仰が持てるのか。

    それこそ、イエス様の十字架の贖罪と恩寵によってであり、イエス様の肉と血を飲食して初めて、こころのエネルギーを得て、永遠の生命が得られるのであり、三位一体の神の愛の交わりを感じることが肝要なのだと思います。
引用返信/返信 削除キー/
■13515 / inTopicNo.18)  Re[20]: 最後の晩餐の絵が
□投稿者/ 愛満開 -(2021/06/03(Thu) 08:01:06)
    knowing itselfさんいつも信仰の糧になるお話ありがとうございます。

    >>仏教は、やはり、因果応報、決して自分の業は消え去ることが出来ない。
    >>
    >>なので、善業の果実を貯金して誰かのために分け与える。それが回向のなのでしょうが、仏教は徹頭徹尾、自業自得の因果応報であり、悪行を行うことで(因=原因)地獄に堕ちる(果=結果)という物事の結果には必ずそうなる原因があるんだという考え方はとても科学的であり、それを喝破した古代インド人は凄いと思います。
    >>
    >>つまり、人間界にいる今、善行を積む大切さをも述べているように思います。
    >
    > 業や因果については、ユダヤ聖書にも深い洞察があると思います。十戒は明らかにそのあたりに関わるでしょう。仏教で戒がメチャクチャ本質的であるのとパラレルだと思います。人を殺傷したり、盗んだり、性的にみだらであったり、ウソをついたりがNGなのは、人間や共同体を不幸にする法則への洞察があるからであって、外側から根拠もなく道徳律を押しつけているわけではありません。

    仏教の「因果の道理」が「因果応報」や私たちの行い「カルマ」そして過去、現在、未来をも貫く法則であることは間違いなく誰もこの道理から逃れる術はありません。

    原因のない結果は絶対にありません。
    原因が無いのと原因が分からないのとは違います。

    善因善果
    悪因悪果
    自因自果の自業自得

    今日も出来るだけ良いことが出来るようにカンパリたいと思います。



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■13480 / inTopicNo.19)  Re[19]: 最後の晩餐の絵が
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/02(Wed) 19:11:16)
    愛満開さん こんばんは

    > >>この因果応報を踏まえて、阿弥陀如来は、凡夫を救われる。
    > >>まるでイエス様の贖罪と恩寵のように「悪人正機」説で救われるのですね。
    >>
    >>恵みと業については、どの宗教でも二つの要素をもたざるをえないと思います。どちらかだけで貫徹することは困難で、密かに潜り込ませているのかなと。大乗仏教が恵みの要素を取り入れざるをえなかったのは、普遍宗教であれば当然かもしれません。
    >
    > なるほど、信者獲得の為の方便だったと言う事ですね。

    そういうことではなく、仏教という宗教の自己展開として自ずからそうなった、あるいは、もともと仏教がもっていた要素が開示されたのか、と考えます。

    > 仏教は、やはり、因果応報、決して自分の業は消え去ることが出来ない。
    >
    > なので、善業の果実を貯金して誰かのために分け与える。それが回向のなのでしょうが、仏教は徹頭徹尾、自業自得の因果応報であり、悪行を行うことで(因=原因)地獄に堕ちる(果=結果)という物事の結果には必ずそうなる原因があるんだという考え方はとても科学的であり、それを喝破した古代インド人は凄いと思います。
    >
    > つまり、人間界にいる今、善行を積む大切さをも述べているように思います。

    業や因果については、ユダヤ聖書にも深い洞察があると思います。十戒は明らかにそのあたりに関わるでしょう。仏教で戒がメチャクチャ本質的であるのとパラレルだと思います。人を殺傷したり、盗んだり、性的にみだらであったり、ウソをついたりがNGなのは、人間や共同体を不幸にする法則への洞察があるからであって、外側から根拠もなく道徳律を押しつけているわけではありません。


引用返信/返信 削除キー/
■13452 / inTopicNo.20)  Re[18]: 最後の晩餐の絵が
□投稿者/ 愛満開 -(2021/06/01(Tue) 19:42:12)
    knowing itselfさんこんばんは

    いつも信仰の糧になる大切なお話、ありがとうございます。

    >>>>つまり、予定説のように、救われる人はあらかじめ決められていると言う事でしょうか。
    >
    > 二重予定説を否定する予定説なら、それはキリスト教の基本だと思います。天地創造前から予定されていた、となるでしょう。

    私も二重予定説には反対で、あくまで神の御計画としての予定説を信じているところです。なぜなら、はじめからある人を滅びるように予定していたなんて、まるで悪魔のようですから。

    >>それは、神が選択、つまりある人を選ばれるからです。その理由は分かりませんが。なので、人智の計り知れない神の御業が予定されていると言う事ではないのかなと思います。
    >
    > ここもバロン司教のいうように、ある人を選んで恵みを注いだのは、恵みを拡散させる通路にするためであって、恵みを狭く囲い込むためではないのでしょう。

    仰る通りだと思います。神の恵みを独占するのではなく、広く万人に伝えることこそ信徒の使命なのではないのかなと思います。

    >>この因果応報を踏まえて、阿弥陀如来は、凡夫を救われる。
    >>まるでイエス様の贖罪と恩寵のように「悪人正機」説で救われるのですね。
    >
    > 恵みと業については、どの宗教でも二つの要素をもたざるをえないと思います。どちらかだけで貫徹することは困難で、密かに潜り込ませているのかなと。大乗仏教が恵みの要素を取り入れざるをえなかったのは、普遍宗教であれば当然かもしれません。

    なるほど、信者獲得の為の方便だったと言う事ですね。
    仏教は、やはり、因果応報、決して自分の業は消え去ることが出来ない。

    なので、善業の果実を貯金して誰かのために分け与える。それが回向のなのでしょうが、仏教は徹頭徹尾、自業自得の因果応報であり、悪行を行うことで(因=原因)地獄に堕ちる(果=結果)という物事の結果には必ずそうなる原因があるんだという考え方はとても科学的であり、それを喝破した古代インド人は凄いと思います。

    つまり、人間界にいる今、善行を積む大切さをも述べているように思います。

引用返信/返信 削除キー/
■13450 / inTopicNo.21)  Re[17]: 最後の晩餐の絵が
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/01(Tue) 19:11:53)
    愛満開さん こんばんは

    > >>神は万人を救済するためにこの世に来られたのだと思いますが、これって、予め神の御計画により予定された人だけがそのようになると言う事でしょうか。

    ここは明確に違うと思います。バロン司教も違うというでしょう。特別に恵みを与えるべく予定されたのは、その恵みを独占せずに世界中に拡散させるためというのが、「選良」の意味です。イスラエルだけが救われるという聖書解釈がキリスト教ではありえないのと同じだと思います。

    > >>つまり、予定説のように、救われる人はあらかじめ決められていると言う事でしょうか。

    二重予定説を否定する予定説なら、それはキリスト教の基本だと思います。天地創造前から予定されていた、となるでしょう。


    > それは、神が選択、つまりある人を選ばれるからです。その理由は分かりませんが。なので、人智の計り知れない神の御業が予定されていると言う事ではないのかなと思います。

    ここもバロン司教のいうように、ある人を選んで恵みを注いだのは、恵みを拡散させる通路にするためであって、恵みを狭く囲い込むためではないのでしょう。

    > バロン司教は、神の選択性を認めたうえで、それを他者へ振り向ける仏教でいうところの回向でしょうか。
    > それは、決して他者を支配するための選択ではないというのはキーポイントになると思います。
    >
    > それから、仏教は、因果応報であるとの解説があり、もちろん基本はその点にあり
    > 自分の行った言動は、決して消え去るものでない、二度と元には帰らない(覆水盆に返らず)ので一瞬一瞬を真剣に生きなければならない、まるで車運転の安全教習のような、「注意一秒怪我一生」の緊張と真剣さの修行を求めているように思います。
    >
    > この因果応報を踏まえて、阿弥陀如来は、凡夫を救われる。
    > まるでイエス様の贖罪と恩寵のように「悪人正機」説で救われるのですね。

    恵みと業については、どの宗教でも二つの要素をもたざるをえないと思います。どちらかだけで貫徹することは困難で、密かに潜り込ませているのかなと。大乗仏教が恵みの要素を取り入れざるをえなかったのは、普遍宗教であれば当然かもしれません。
引用返信/返信 削除キー/
■13435 / inTopicNo.22)  Re[16]: 最後の晩餐の絵が
□投稿者/ 愛満開 -(2021/05/31(Mon) 20:37:41)
    knowing itselfさんこんばんは。
    いつも、ためになる解説や動画ありがとうございます。
    特にバロン司教の話は大変ためになりました。

    >>神は万人を救済するためにこの世に来られたのだと思いますが、これって、予め神の御計画により予定された人だけがそのようになると言う事でしょうか。
    >>つまり、予定説のように、救われる人はあらかじめ決められていると言う事でしょうか。
    >
    > 予定説をとらなければそのような結論にはならないと思います。予定性を取らなければならない必然性がよくわかりません。

    それは、神が選択、つまりある人を選ばれるからです。その理由は分かりませんが。なので、人智の計り知れない神の御業が予定されていると言う事ではないのかなと思います。

    バロン司教は、神の選択性を認めたうえで、それを他者へ振り向ける仏教でいうところの回向でしょうか。
    それは、決して他者を支配するための選択ではないというのはキーポイントになると思います。

    それから、仏教は、因果応報であるとの解説があり、もちろん基本はその点にあり
    自分の行った言動は、決して消え去るものでない、二度と元には帰らない(覆水盆に返らず)ので一瞬一瞬を真剣に生きなければならない、まるで車運転の安全教習のような、「注意一秒怪我一生」の緊張と真剣さの修行を求めているように思います。

    この因果応報を踏まえて、阿弥陀如来は、凡夫を救われる。
    まるでイエス様の贖罪と恩寵のように「悪人正機」説で救われるのですね。
引用返信/返信 削除キー/
■13434 / inTopicNo.23)  恵みの宗教と業の宗教
□投稿者/ knowing itself -(2021/05/31(Mon) 18:55:20)
    https://youtu.be/h2FXh70_cTo

    アブラハム系宗教における、選び、特別に選ばれることの意味。
    選ばれるとは、特権を享受、利益の独り占め、他者支配のためにあるのではない。
    イスラエルの選びもこの観点から理解しなければならない。

    アブラハム系宗教において、選ばれるとは、その人間や共同体に注がれた無条件かつ一方的な恵みの「導管(通り道)」になることを意味する。恵みを世界全体に波及させるために。

    あと、選ばれることは、必ずしも救いの最終的確定を意味しない。

    硬直した予定説はこの点からも疑問。
引用返信/返信 削除キー/
■13433 / inTopicNo.24)  Re[15]: 最後の晩餐の絵が
□投稿者/ knowing itself -(2021/05/31(Mon) 18:45:56)
    愛満開さん こんば

    > 「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。」
    > (ヨハネによる福音書6・44)

    > これは、ご利益を求めて押しかけてきた群衆に対してのイエス様のお言葉ですが、
    > この後に、例の「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。」という御言葉に続きます。
    >
    > 神は万人を救済するためにこの世に来られたのだと思いますが、これって、予め神の御計画により予定された人だけがそのようになると言う事でしょうか。
    > つまり、予定説のように、救われる人はあらかじめ決められていると言う事でしょうか。

    予定説をとらなければそのような結論にはならないと思います。予定性を取らなければならない必然性がよくわかりません。
引用返信/返信 削除キー/

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