| No44778のつづきね (9)-@のは後にするとして、 (事典F)から、 (a3)「純粋意識」≒「超越論的意識」、「純粋意識」や「純粋自我」≒超越論的主観性」 のようにわたし見たんだけど、 (事典C)に〔超越論的自我は超越論的主観性と同義〕ってあるんだけど、これについて「現象学事典」の中に書いてあるのがあったので、書き写して見るね。「超越論的主観性」っていう事項のなかから、 (事典G)―――――――――――― III 超越論的自我 主観性の概念はもともとは自我(ego, Ich)とは無関係である。ラテン語のsubjectum(下にあるもの)に、さらにギリシャ語のhypokeimenon(根底にあるもの)に由来するSubjekt(主観、主体、主語)は可変的な現象の下にあって、それを支えている一定不変なものである。その意味では実体(Substanz)と変わらない。 近代哲学の自我の不可疑性の自己確信という方法論的優位が自我をSubjectに結びつけたのである。これに応じて、Objektも自我に対置してあるものから、非我全体の総称となる。したがって自我と主観性は実質的に変わらなくなるが、超越論的自我は『デカルト的省察』で多く使用されている。 そこではデカルトのcogito sumに対してego-cogito(志向作用)―cogitatum(志向対象)と定式化されているからである[CM 87]。 超越論的自我はただそれだけであるのではなく、己れの「体験と不可分」であり、「経験の多様性の同一極」であり、「習慣の基体(Substrat)である、というふうに次第に具体化されていく。最後にモナドとしてその具体性は完成する。しかしモナドであることは、自我が世界(存在者全体)の超越と向かい合って、己れの自己充足的な閉域を保することである。しかしこれでは自我の絶対性は未完成である。自我の自立性・絶対性はモナドの共同化ないし共同性(Gemeinschaft)としての間主観性を俟(まつ、特定の場所で待つ)って完成する。 したがって間主観性はあくまでも「モナド論的間主観性」なのである[CM「第五省察」の表題]。 ――――――――――――――――
簡単にわたしの見えは、 (a9)デカルトの[ego cogito, ergo sum]、わたしこれを「我考える、ゆえに我あり」ってして見てるんだけど、この「考える我」は存在する、っていうことが〔不可疑性〕―疑う余地のないものとなっている。で、フッサールはこれが前提となってるんじゃないかしら? (a10)egoがsubjektに結びついた。 (a11)超越論的自我≒超越論的主観性 ただちょっと気になるのが、「超越論的主観」じゃなくて「超越論的主観性」って「性」がついてるところ。
これまでのをまとめて、 (a12)純粋意識に伴ってる純粋自我→超越論的自我≒超越論的主観性 っていうことで見とくことにしたよ。ようするにこの三つの用語はだいたい同じ意味で使われてる、っていうことかな? これでだいたい(事典A、B、C)に出てくるフッサールの「純粋意識」「純粋自我」「超越論的主観性」「超越論的自我」っていう「用語」の関係性についてはいいかな。
ちなみに、(事典G)の〔ラテン語のsubjectum〕、 Wikipediaでは「ラテン語の subiectum」、「ラテン語の obiectum」ってなってた。[j]じゃなくて[i]になってるっていうこと。 わたしとしてはどっちでもいいんだけど。 ただ、「主観」と「客観」と「超越」の関係は問題だとわたし思ってるから、これはまた後で。
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