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■44901 / inTopicNo.1)  Re[97]: :つれづれなるままに
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/12/14(Sun) 15:21:47)
    No44893のカントののつづき的なの

    No43732に、
    @「第一版では知覚と判断のレベルが明確に区別されている」
    から、
    No43733に、
    A「第一版で三段階に分けていた綜合を「形態的綜合」という概念で一挙に説明しようとする」「知覚ですらカテゴリーに従わざるを得なくなる」
    ってなっていくことについて、

    No41075
    B「カントはこう考えた。じつは、感性の時間的・空間的形式によって、感覚が整理されてゆくさい、すでに悟性が働いていたのである。」
    No41075
    C(c-p)私たちが何かを〈知覚すること〉において、“すでに”概念的思考〈思考による概念〉が伴ってる(組み込まれている)。
    No41615
    (資料E)(注5)
    D「カントにおいて、原初的な経験は知覚判断を通して間接的に考察の舞台に登場する。知覚判断は、経験判断に対し、直接的な知覚に基づく判断と規定されるが、しかし、この判断は経験的な意味での現象を開示し、経験的な場面では仮象に陥る危険性を持つ判断として語られていることから明らかなように、客観的妥当性を持たない判断として消極的に規定される。カントは知覚判断の経験的判断に対する先行性を語るが、しかし、原初的経験の科学的な認識に対する地盤性を必ずしも積極的に評価しているとは言い難い。」
    そしてメルポンは、
    No41741
    E『認識の〈質料〉は、意識の自己反省に際して、意識によって設けられる極限概念となり、もはや、認識を構成するものではなくなるのである。だが、そのときから、知覚は「悟性的認識」の一変種となり、またそれのもっている積極的な面から言えば〈判断〉となるわけである。』

    としたら、で見ると、

    カントは最初、知覚(感性の領域)と判断(思考の領域)のレベルを区別していた。
    そして、
    No41672(本Ko)から、
    (p54)
    F『私たちのすべての経験をもってして始まる。このことに、なんら疑いの余地はない。』
    G『感性的印象の性の素材を、対象の認識・・・・へと加工するということをひき起こす』
    (p56)
    H『しかし、私たちのすべての認識が経験をもって始まるとしても、だからといって私たちの認識がすべて経験か生じるのではない。というのは、私たちの経験認識ですら、私たちが印象によって受け取るものと私たち自身の認識能力が(感性的印象をたんなるきっかけとして)自分自身から提供するものから合成されたものであるということも、きっとありうることだろうとからである。』

    っていうふうに、人間の意識のなかの「認識」について考えていったんだけど、
    いつのまにかカントが考え出したカテゴリー(純粋悟性概念)に知覚を包摂しようと論じるようになっていった。
    ようするに、純粋悟性概念の演繹(正当性)を論じるようになっていった。それはAにあるよな「図式論」でもって。

    カントの図式論のわたしのイメージをちょっと書くと、
    (本Ko)(p242)
    『皿の経験的概念は、このような仕方で円という純粋幾何学的な概念と同種性をもっている。皿という経験的概念において考えられうる丸さは、円という純粋幾何学的な概念において直観されるからである。』
    ってあるんだけど、わたしのばあいまずこれないな〜、って。
    皿っていうの、わたしのばあい、形から見ると丸っぽかったり、四角ぽっかたり、三角ぽかったり、なんかふにゃふにゃしたのもあったり(もっともカントの時代では丸っぽいのしかなかったからかもしれないけど)、なにか食べものをのせる比較的ひらべったい器、っていうイメージ。だから、人間によって作られた皿じゃなくても、大きな葉っぱとか、手のひらだって、皿になりうるのね。
    幾何学的概念の「円」っていうのは浮かんでこないのね。わたしの皿の経験的概念は「円」じゃないっていうこと。
    カントは幾何学をお勉強して、そこから皿を見る、っていうのがあるのかも?ようするに、すでに科学的知識を身につけた大人の返事的になってるんじゃないかしら。カントの「直観」は”考えられたも”のとなってる、とも見れる。
    もっともわたしのばあい幾何学みたいな知識がプアーで、物事を科学的に見る、っていうことができないからかもだけどね。

    つれづれ21も101になったので、なんか長くなっちゃたけど、これまでカントのを見てきたなかで、今のところのわたしの感じをざっと書いて見たよ。
    第一版から第二版にカントのコギトが向かっていくところからフッサールのコギトの志向が違ってゆくのかもしれない、ってわたし見てるとこ。
    このつづきはつれづれ22へ、っていうことになるかな。


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■44893 / inTopicNo.2)  Re[96]: :つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/12/14(Sun) 10:47:40)
    No44876のようなこと思ってるなかでちょっと想いだしたのが、
    中島義道さんが、
    (K-N)―――
    カントは、仮象を「誤った現れ」という意味に限定した。それは「錯覚」とほぼ同義であり、広く主観的にそう見える(思われる)ものを客観的だと誤って判断するときに生ずるものである。
    ・・・
    カントによれば、人間理性は「超越的なもの」に「仮象」(Schein)というかたちで関与するのである。つまり、「超越的なもの」を捉えようとすると人間理性は必ず仮象に陥るが、その仮象への陥り方に関することすべてに消極的意味における「超越論的」という言葉が付される。
    ――――――
    って言ってるようなこと(前に書いたかもだけど)。
    これをわたしなりので見て見ると、
    私の外にあるもの――外的な物≒客(ob)≒神の創造物(素材そのもの)≒〈超越的なもの〉≒「物自体」――を、私の理性が捉えようとする――超越(客)を論じようとする≒客観(obje)≒超越論的――とき、誤った現れ(仮象)というかたちで関与している(超越論的の消極的意味)。カントによると、結局、私は物自体を知ることはできない。
    こういうなかで、
    No44076の(KK)に「人間がつくるのは、先天的な形式・型、まさに人間としての先天的な能力による組み立てであり、構成であるにすぎない。」ってあるように、私の意識における認識が外的なものを私の内で構成(総合)する能力はア・プリオリにもってる。この能力は経験的に拠るものではなく、神が人間に与えた能力(たぶんカントはこの能力を「理性」と見ている)であり、超越的なもの(客観)と見ることもできる。このようなア・プリオリで純粋な経験に拠るものではない形式(たとえば感性の形式—時間と空間、純粋悟性概念(カテゴリー)—量・質・関係・様態みたいなの)のようなものついて論じることも(積極的意味で)超越論的と呼ばれる。

    カントの「超越論的」っていうの、だいたいこんな感じのじゃないかな?って。

    自称現象学派のわたしとしては、「私は物自体を知ることはできない」じゃなくて、「私は“そのようにして”物そのものに接近している」っていう見方になってる。じゃ、“どのようにして”を問題にしてるのが現象学なんじゃないかな?って。


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■44877 / inTopicNo.3)  Re[95]: :つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/12/13(Sat) 18:10:18)
    書き溜めといたわたしの物語り、切りのいいところまで。

    No44876までで
    No44718の(事典@〜C)に出てくる「超越」とか「超越論的」、「超越論的自我」「超越論的主観性」みたいなの、わたしの見方(意味)ができたかな。

    あと「用語」についてなんだけど、
    ネットなどでいろいろ調べて、ざっと見て、
    (ラ)subjectum→(ギ)hypokeimenon→(独)Subjekt
    (ラ)objectum→(ギ)antikeimenon→(独)Objekt
    っていうことだとわたし見てるんだけど、でもこれらの用語の「意味」が変わってきてるみたいなのんだけど、これらへんの正確な意味はわたしには分かんないので、横文字の一部を借りて、わたしのイメージのを[ob〈客〉][obje〈客観〉][sub〈主〉][subje〈主観〉]ってわたし勝手に言い表して見たよ。たぶん学者さんから見たら「却下」(勝手に用語を作ってはいけません!的なの)になるのだけれどもね。

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■44876 / inTopicNo.4)  Re[94]: :つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/12/13(Sat) 17:54:37)
    No44874の「クローン人間」については別の面(細胞分裂して分化して個体が形成されてゆくその“環境”)からも見て考える必要があると思うんだけど、話がそれるからやめるね。

    No44866で、〈超越的なもの〉〈神〉〈神の創造物〉〈人間〉〈主(するもの)〉〈客(されるもの)〉の関係を過去のいきさつからわたしなりに見て、「超越的なもの」のわたしの見方(意味)ができたところで、
    「超越論的」についてね。

    「人間」を「私」っていう用語に(だってわたしも人間だと思ってるし)、〈神の創造物〉を〈世界〉っていう用語でおきかえて見たのね。
    〈世界〉の内に「私」っていうのを縁取って、その他のものを「私の外にあるもの」ってして見るのね。
    そして、
    (1)「私」を[sub〈主〉]ってして、
    (2)「私」の観念を〈主観〉ってして、これを[subje〈主観〉]ってして、
    (3)〈私の外にあるもの〉、これを簡単に〈外的なもの〉って言って、これを[ob〈客〉]ってして、
    (4)この[ob〈客〉]が私の内に構成されたもの(観)を[obje〈客の観〉]ってする。
    この[obje〈客の観〉]っていうの、ちょっとややこしいんだけど、[ob〈客〉(私の外にあるもの)]のなかには[他者によって考えられたもの]も含まれるよ。
    で、
    (a14)この[ob〈客〉]と[obje〈客観〉]の両方を「超越的なもの」ってして見るのね。

    こういうふうにして見たなかで、
    「超越-論的」なんだけど、
    「超越」→[ob〈客〉/obje〈客観〉] で、
    (a15)「超越論的」⇒[ob〈客〉/obje〈客観〉]を論するような、とか、〈[ob〈客〉/obje〈客観〉]を語るような〉 
    って見るのね。
    そして、
    「超越論的主観性」の「主観」を[subje〈主観〉]ってして、「性」を〈性格〉ってして、
    (a16)「超越論的主観性」⇒[ob〈客〉/obje〈客観〉]を論する[subje〈主観〉]の〈性格〉
    ってして、
    「超越論的自我」の「自我」を〈考える我〉(ego)ってして、
    (a17)「超越論的自我」⇒[ob〈客〉/obje〈客観〉]を論する[subje〈主観〉]の〈考える我〉
    って、わたしのばあいなるのね。

    ちなみにわたしの「私」と「ego」の関係なんだけど、
    (AIe)私(自分)の内のego(考える我)っていう領域
    みたいなんになってる。

引用返信/返信 削除キー/
■44874 / inTopicNo.5)  Re[93]: :つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/12/13(Sat) 16:00:01)
    No44866の物語りは、わたしが知る限りの言い伝えられていることのわたしの見えを書いて見たんだけど、
    そのうちで見て見ると、
    〈神〉(全知全能な万物の創造主)の創造物(素材そのもの)のなかには当然〈人間〉も含まれている分けね。
    そして、わたし、〈神〉や〈神の創造物〉←〈超越的なもの〉、ってして見たから、〈人間〉←〈超越的なもの〉、ってなっちゃうんだけど、この見方はいいのかな?て。

    〈人間〉は、〈神の創造物(素材そのもの)〉で、これは〈超越的なもの〉、ってして見たときで考えて見たのね。

    〈人間〉を〈ヒト〉ってして見たのね。
    今では「クローン人間」みたいなのも科学技術的には可能なことのようなことを聞くけど、人間は素材そのものまではつくりだすことは許されてない、っていうのに結びつけられるかも?って。

    クローン人間っていったって、人間が使ってるのは、体細胞や、ヒトの初期胚の細胞、その前の受精卵、更にその前の卵子と精子がなきゃ、すなわちヒトの細胞自体(素材そのもの)がなきゃつくれないわけよね。
    こう考えると、人間は〈ヒトそのもの〉まではつくりだすことは“許されてない”、っていうか“不可能”なんじゃないかしら?
    だから、科学者の、人間はクローン“人間”をつくりだせる、っていうのは勘違いあるいは単なる思い上がりなんじゃないかしら?

    こんなふうに考えて見たなかで、ひとまず〈ヒトそのもの〉も〈超越的なもの〉として見といてもいいのかな。って。

引用返信/返信 削除キー/
■44866 / inTopicNo.6)  Re[92]: :つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/12/12(Fri) 18:23:01)
    No44851のつづき
    カントのを少し見たなかで物語りを作ってみたよ。

    むかしむかしあるところで、ある人々のあいだでは(あ、これ哲学者に限ったことじゃなくてね)、〈人間も含めてこの世のいっさいをつくり(創造主)、それをすべ、それを統一しているような、全知全能な〉ものが(この世にではなく)存在すると想像した。
    〈そのようなもの〉にその呼び名をつけるんだけど、でここでは既存の言葉を借りて〈そのようなもの〉をひとまず〈神〉ってするね。
    スピノザの場合〈自然〉っていう用語をそれに当てたのかもだけど

    〈神〉は〈するもの〉とされ、〈人間〉は神に〈されたもの(されているもの)〉と考えられ、〈神〉は人間を超越するものとして〈超越的なもの〉とされた。
    ここで〈するもの〉を〈主〉、〈されるもの(されているもの)〉を〈客〉ってするね。
    このように、〈主〉と〈客〉は対となって、
    (A)〈神〉←〈主〉、〈神〉や〈神の創造物〉←〈超越的なもの〉、〈人間〉←〈神〉に創造されたものとして〈客〉。
    っていうふうに見られていた。あ、〈神の創造物〉っていうのは、
    No44836で見たような〈素材そのもの〉のことで、これも〈超越的なもの〉ってして見たよ。

    でも、いつしかこの見方は転回され、

    (B)〈人間〉→〈主(するもの)〉、〈神〉や〈神の創造物〉→人間にされるもの〈客(されるもの)〉、
    と考えるようになった。
    こういうなかでも、〈神〉や〈神の創造物〉←〈超越的なもの〉、はそのまま。
    このようななかで、哲学者のあいだでは、
    (C)〈主(するもの)〉は、人間(自分)の内の〈ego=自我=考える我〉として考えられ(限定され)ていた。
    No44795の(事典G)の
    「近代哲学の自我の不可疑性の自己確信という方法論的優位が自我をSubjectに結びつけた」
    のように。
    そして、(B)、(C)のような見方・考え方から、
    (D)〈世界〉は私のego(考える我)の内で〈構成されるも〉として見られるようになっていった。

    (A)から(B)へのわたしがイメージしたのをペイントしてみたのを添付しま〜す。
    こう見ると、何が転回したのか、っていうと、〈神〉と〈人間〉、どちらを〈するもの(主)〉として見てどちらを〈されるもの(客)〉として見るかの転回なんかな?って。

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■44851 / inTopicNo.7)  Re[91]: :つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/12/10(Wed) 18:12:08)
    っていうことで、
    いま取りかかってるわたしの物語りつづける。

    No44810からのわたしの、
    (t3)超越的/超越論的はともに超越をもとにしている
    っていうことだから、まず「超越(的)なもの」っていうのについて、
    (フッサールのを[F]ってするね)

    (t1)主体に対する・・・・客体の超越[カント]
    (t2)己れにとって超越的な対象
    (t3)超越的――意識にとっての対象すべてについて言われる[F]
    (t3)超越的――己の内に所属していないもの[F]
    (t3)超越的――対象的存在に当てられている
    (t4) 自己の意識体験に属するもののことを「内在的」なものとし「内在」と呼び、これに属さないものを「超越的」なもの「超越」と呼ぶ。[F]
    (t4)事物はすべて「超越」であるが、意識体験の構成要素ではあっても他者の意識体験に属するものは「超越」とされる[F]

    こういうところからわたしに思われたのは、
    (a13)「〈主体・己れ〉に対する〈対象・客体〉、この〈対象・客体〉を〈超越(的)なもの〉ってして見てるんじゃないかしら?


引用返信/返信 削除キー/
■44836 / inTopicNo.8)  Re[90]: :つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/12/08(Mon) 18:08:29)
    そこはとねく、ね。

    「人間は石油をつくりだせる?」

    No44076のKKの、
    「もし、神ならば、神は思考することによって、ただちに対象を、天地万物を、創造するであろう。しかし、人間がつくるのは、先天的な形式・型、まさに人間としての先天的な能力による組み立てであり、構成であるにすぎない。という意味は、人間には、素材そのものをまでつくりあげることは、許されていないということである。人間は、人間に与えれてくれる材料をまとめあげる(総合する)働きをするのであり、それだけであって、それ以上ではない。」

    っていうのからね。


引用返信/返信 削除キー/
■44810 / inTopicNo.9)  Re[89]: :つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/12/06(Sat) 15:45:31)
    No44795のつづき

    わたしいまだに「超越論的」の意味よく分かんないのよね。
    No44739の(P)の(2)にあるように「メルロ=ポンティもこの概念の使用をためらい、むしろ拒んでいる」っていうことみたいだから、もうかかわらなくてもいいかな、とも思ったんだけど、ひとまずわたしなりの見方を考えとこっかな、って。
    で、
    【「現象学事典」弘文堂2014】にあったのを書き写して見るね。

    (t1)―――――――――――――――――
    超越 [(独)Transzentenz ] 
    伝統的な超越の概念に、現象学的、実存論的な視点から新たな意味を与えなおしたのは前期のハイデガーであった。
    従来の伝統的な超越の概念は、たとえばプラトンのイデアや、キリスト教神学の神の概念に見られるような此岸から彼岸への超越を、あるいはカント的な超越論的哲学にみられる主体に対する物それ自体ないしは客体の超越を意味していた。
    ・・・・・・・
    ―――――――――――――――――――

    (t2)―――事項「超越論的主観性」のなかから
    西欧の近代哲学においては認識の本質はその対象からというよりも、その主観から考えられるようになる(このことは行為の目標と主体についても言えることであるが、ここでは認識を中心とする)。そのとき主観(性)の存在は己れにとって超越的な対象の存在を基礎づけるという意味で超越論的と呼ばれる。主観性の側へのこの転回の傾向はデカルトから始まって、英国経験論、カントを経て、フッサールに収斂する(フッサールの自己了解)。フッサールの主観性は終局点と見なされるだけに、終わりがまた始まりにあるように、新たな転回を含むものとなる。
    ―――――――――――――――――――

    (t3)―――――――――――――――――
    超越的/超越論的 [(独)transzendent/transzendental]

    超越的
    一般にわれわれの経験の水準あるいは枠ないし限界(たとえば感性的世界や人間的知性)を超えていることである。カントではわれわれの悟性能力を経験ないし現象の枠を超えて使用する場合である(ただしその結果は超越論的とも言われるが――超越論的仮象)。フッサールでは意識にとっての対象すべてについて言われる。意識は志向性によって己の内に所属していないものに向かっているのである。

    超越論的
    スコラ哲学ではアリストテレスの範疇を超えてすべての存在者に適用される属性(一者、存在あるいは真・善)について言われた。その意味はカントでは消えて、認識を可能にする、認識に先立つ条件、つまり認識に際してわれわれがもつアプリオリな形式や概念にかかわる。経験的認識の条件ということから先験的とも訳される。フッサールでは超越的なものの基礎づけの理論として超越論的である。還元の後ではそれまでの超越は「内在的超越」となる。いっさいの超越者が相対化された後では、真の超越者は〈超越論的〉の側に移行して、超越論的意識ないし自我が「真の究極的絶対者」となるが、しかしそれは超時間的ではなく、内在的時間意識として主観性である。

    超越的/超越論的はともに超越をもとにしているが、前者は超越の結果、状態を示して、対象的存在に当てられているのに対して、後者は超越の作用、働きを示して、既定の超越的なものをさらに超越して、それの意味を考える構成的主観に当てられている。世界への帰属性を遮断し、世界を構成することで世界から超え出ることにより、われわれは内世界的から超越論的となるのである。
    ―――――――――――――――――――
    (t4)―――――――――――――――――
    超越/内在 [(独)Transzendenz/Immanenz(英)transzandence/immanence ]
    フッサールの用いた用語で、とくに『イデーンI』の「現象学的還元」論において重要な役割を果たす。
    自己の意識体験に属するもののことを「内在的」なものとし「内在」と呼び、これに属さないものを「超越的」なもの「超越」と呼ぶ。
    したがって、事物はすべて「超越」であるが、意識体験の構成要素ではあっても他者の意識体験に属するものは「超越」とされる。
    「超越」と「内在」との相違は「存在様式の原理的相異」と「所与性様式の原理的相異」によって、すなわち自己の意識体験の「実的」成素として「内在的」に知覚するかどうかによって、また「射映する」かしないかによって説明される。
    しかし「超越」と「内在」が鋭く対立させられるのは、すべての「超越」に対する定立を遮断することによって「内在」の領野を純化して、現象学固有の領野である「純粋意識の領域」すなわち「超越論的主観性」を取り出すためである。
    「超越」の謎を解くために「内在」の領野に還帰せよ、というのがフッサール現象学の根本テーゼであり、「内在」の領野こそが「超越」について問うことを可能にする「超越論的」次元なのである。
    したがって「超越」と「内在」とを対峙させるのは「内在」の領野に還帰するために取られる方法論上の一措置であり、フッサールの真の目的は「超越」をノエマとして、すなわち意識の志向的相関者として捉えなおして、その現出の諸相と諸層を分析することにあった、ということができよう。
    ―――――――――――――――――――

    現象学事典の中から、わたしが調べて見たのはこんなところかな。

    ちなみに、(t1)のにある〔此岸と彼岸〕をネットで調べたら、
    〔仏教では元来、煩悩に満ち溢れるこの現世の世界を「此岸(しがん)」と呼びます。 それに対して、あの世の世界を「彼岸(ひがん)と呼びます。 「此岸」とは「こちら側の岸」という意味で、「彼岸」は「あちら側の岸」を意味します。」
    ってあった。
    わたし簡単に見て、〈この世とあの世〉、かな。
    こういうのって、
    No40930
    No40926の小牧さんが言ってるようなことを想い出す。


    こういようなのからのわたしの見えはまた後で。

引用返信/返信 削除キー/
■44795 / inTopicNo.10)  Re[88]: :つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/12/05(Fri) 18:24:17)
    No44778のつづきね
    (9)-@のは後にするとして、
    (事典F)から、
    (a3)「純粋意識」≒「超越論的意識」、「純粋意識」や「純粋自我」≒超越論的主観性」
    のようにわたし見たんだけど、
    (事典C)に〔超越論的自我は超越論的主観性と同義〕ってあるんだけど、これについて「現象学事典」の中に書いてあるのがあったので、書き写して見るね。「超越論的主観性」っていう事項のなかから、
    (事典G)――――――――――――
    III 超越論的自我
    主観性の概念はもともとは自我(ego, Ich)とは無関係である。ラテン語のsubjectum(下にあるもの)に、さらにギリシャ語のhypokeimenon(根底にあるもの)に由来するSubjekt(主観、主体、主語)は可変的な現象の下にあって、それを支えている一定不変なものである。その意味では実体(Substanz)と変わらない。
    近代哲学の自我の不可疑性の自己確信という方法論的優位が自我をSubjectに結びつけたのである。これに応じて、Objektも自我に対置してあるものから、非我全体の総称となる。したがって自我と主観性は実質的に変わらなくなるが、超越論的自我は『デカルト的省察』で多く使用されている。
    そこではデカルトのcogito sumに対してego-cogito(志向作用)―cogitatum(志向対象)と定式化されているからである[CM 87]。
    超越論的自我はただそれだけであるのではなく、己れの「体験と不可分」であり、「経験の多様性の同一極」であり、「習慣の基体(Substrat)である、というふうに次第に具体化されていく。最後にモナドとしてその具体性は完成する。しかしモナドであることは、自我が世界(存在者全体)の超越と向かい合って、己れの自己充足的な閉域を保することである。しかしこれでは自我の絶対性は未完成である。自我の自立性・絶対性はモナドの共同化ないし共同性(Gemeinschaft)としての間主観性を俟(まつ、特定の場所で待つ)って完成する。
    したがって間主観性はあくまでも「モナド論的間主観性」なのである[CM「第五省察」の表題]。
    ――――――――――――――――

    簡単にわたしの見えは、
    (a9)デカルトの[ego cogito, ergo sum]、わたしこれを「我考える、ゆえに我あり」ってして見てるんだけど、この「考える我」は存在する、っていうことが〔不可疑性〕―疑う余地のないものとなっている。で、フッサールはこれが前提となってるんじゃないかしら?
    (a10)egoがsubjektに結びついた。
    (a11)超越論的自我≒超越論的主観性
    ただちょっと気になるのが、「超越論的主観」じゃなくて「超越論的主観性」って「性」がついてるところ。

    これまでのをまとめて、
    (a12)純粋意識に伴ってる純粋自我→超越論的自我≒超越論的主観性
    っていうことで見とくことにしたよ。ようするにこの三つの用語はだいたい同じ意味で使われてる、っていうことかな?
    これでだいたい(事典A、B、C)に出てくるフッサールの「純粋意識」「純粋自我」「超越論的主観性」「超越論的自我」っていう「用語」の関係性についてはいいかな。

    ちなみに、(事典G)の〔ラテン語のsubjectum〕、
    Wikipediaでは「ラテン語の subiectum」、「ラテン語の obiectum」ってなってた。[j]じゃなくて[i]になってるっていうこと。
    わたしとしてはどっちでもいいんだけど。
    ただ、「主観」と「客観」と「超越」の関係は問題だとわたし思ってるから、これはまた後で。

引用返信/返信 削除キー/
■44787 / inTopicNo.11)  Re[85]: :つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/12/04(Thu) 20:56:23)
    ねえ、テレスさん、
    哲ちゃん好きなの?
    ん?ひょっとして、それが言いたいだけでここにきてるのかな?

引用返信/返信 削除キー/
■44786 / inTopicNo.12)  Re[83]: :つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/12/04(Thu) 20:46:03)
    No44782,
    「哲学ちゃん で検索されては?」(T)
    うん、ありがと、テレスさん。
    わたし、いまは哲学者が書いた日訳本を読むのにめいっっぱいだから、(T)のはその後にするね。

    >「phantasier」はドイツ語で「想像する」や「空想する」という意味です。<
    あ、そうなの?「phantasier」ってう言語記号があるのわたし初めて知ったし、
    「phantasier」がドイツ語で、「想像する」や「空想する」がその日本語よね?

    >ドイツ語 に関する質問とか見て――――――――――
    Vorstellungskraft と Phantasie はどう違いますか?説明が難しい場合は、例文を教えて下さい。<
    わたし、外人さんの言語の意味、じえ〜んじぇんわかんないので、わたしに聞くの間違い。

    Np44778のわたしの記述、テレスさんはどう思うのかな?っていうことの方がわたしには関心があるだけ。










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